思いがけない誘いと幼馴染とのデート
六月に入ったばかりの頃。
日差しは日に日に暖かくなり、学園の中庭では木々の緑が鮮やかさを増していた。
夏の気配が少しずつ近づき、生徒たちの間でも、夏休みに何をするかという話題が聞こえるようになっていた。
悠斗はというと、いつものように授業を終え、教科書やノートを鞄にしまっていた。
先週、アメリカで蓮に会ってから、彼のことが頭から離れなかった。
リハビリは決して簡単なものではない。それでも、蓮が少しずつ前に進もうとしている姿を見て、悠斗は改めて自分にできることを考えていた。
「蓮!」
聞き慣れた声に、悠斗は顔を上げた。
教室の入り口に立っていたのは、桜井陽菜だった。
いつもどおり明るい笑顔を浮かべているが、今日はどこか落ち着かない様子にも見える。
「もう帰る準備できた?」
「ああ。どうしたんだ?」
陽菜は悠斗の机まで歩いてくると、少しだけためらってから口を開いた。
「ねえ、今週末って予定ある?」
「週末? いや、特にないけど……どうして?」
陽菜は髪の毛の一房を指先でいじりながら、少し照れくさそうに笑った。
「もうすぐ夏が来るでしょ? だから、夏休みが始まる前に、どこかへ遊びに行きたいなって思って。それで……明日、一緒にショッピングモールに行かない?」
「一緒に?」
「そ、そうよ! 久しぶりに学校の外でゆっくり過ごしたいなって思っただけ。お店を見たり、ご飯を食べたり……いろいろ楽しめそうじゃない?」
悠斗は思わず固まった。
ショッピングモール。
陽菜と二人きり。
もちろん、これまでにも陽菜と一緒に過ごしたことはある。しかし、今回の誘いには、どこか特別な響きがあるように感じられた。
何より、陽菜は自分を本物の蓮だと思っている。
幼い頃からの友人である蓮と、久しぶりに二人きりで出かけたいのだ。
そう考えると、悠斗の胸には小さな罪悪感が生まれた。
「……蓮?」
黙り込んだ悠斗を見て、陽菜が不安そうに顔を覗き込んできた。
「もしかして、何か予定がある? だったら無理しなくてもいいけど……」
「い、いや! 予定はないよ。大丈夫、一緒に行こう」
悠斗が慌てて答えると、陽菜の表情は一瞬で明るくなった。
「本当? よかった! じゃあ、明日の十時にショッピングモールの正面入り口で待ち合わせね!」
「ああ、分かった」
「楽しみにしてるね!」
陽菜は嬉しそうに手を振り、教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、悠斗は小さく息を吐いた。
(……どうして、ただ遊びに行くだけなのに、こんなに大変なことになりそうなんだ?)
とはいえ、もう約束してしまった。
明日は陽菜と楽しい時間を過ごせばいい。
余計なことを考えず、自然に振る舞えば問題ないはずだ。
悠斗はそう自分に言い聞かせた。
もっとも、その考えが甘かったことを知るのは、翌日のことだった。
翌朝、悠斗は約束の時間より少し早く、ショッピングモールへ向かう準備をしていた。
玄関には、すでに黒塗りの高級車が停まっている。
運転席のそばには、いつものように徹が立っていた。
「おはようございます、悠斗様。ご出発の準備はよろしいでしょうか?」
「ああ、ありがとう。大丈夫だよ」
「それでは、目的地までお送りいたします」
悠斗は車に乗り込んだ。
こうして誰かに送り迎えをしてもらう生活にも、以前よりは慣れてきた。
それでも、普通の高校生なら電車やバスで向かうような場所に、専属の運転手付きで出かけることには、いまだに不思議な感覚があった。
車が走り出してしばらくすると、徹が前を向いたまま尋ねてきた。
「本日は桜井家のお嬢様とお出かけになるとうかがっております」
「……誰から聞いたんだ?」
「雅宏様からです。お二人の予定を把握しておくのも、私の仕事ですので」
「そ、そうか……」
悠斗は苦笑した。
(こういうところは、本当に抜かりがないんだよな……)
やがて車はショッピングモールの正面入り口に到着した。
「お帰りの際も、こちらまでお迎えに上がります。何かございましたら、いつでもご連絡ください」
「分かった。ありがとう、徹」
悠斗が車を降りると、徹は丁寧に一礼してから車を走らせた。
その直後だった。
「蓮!」
声のした方を見ると、陽菜がこちらへ向かって歩いてきていた。
彼女の服装は、普段の制服とは違っていた。白いブラウスに軽やかなスカートを合わせ、肩には小さなバッグを掛けている。
柔らかな日差しの中で、明るい茶色の髪が揺れていた。
悠斗は思わず見とれてしまった。
「どうしたの?」
陽菜が不思議そうに首を傾げる。
「いや……何でもない。早かったな」
「蓮もね!」
陽菜は笑いながら、少しだけ恥ずかしそうに続けた。
「私の家の車で送ってもらったの。運転手さんが、入り口まで送ろうかって言ってくれたんだけど、ここで大丈夫って断ったんだ」
そう言って、陽菜は少し離れた場所に停まっている車を振り返った。
そこには、上品な黒い高級車が停まっていた。運転手が彼女の様子を確認してから、静かに走り去っていく。
「陽菜も車で来たのか」
「うん。いつものことだからね」
陽菜は何でもないことのように笑った。
「それより、せっかく来たんだから早く入ろうよ!」
そう言って、陽菜は自然な動作で悠斗の腕に手を添えた。
悠斗の身体がぴくりと跳ねる。
(お、落ち着け……! ただ腕に触れられただけだ!)
そう自分に言い聞かせながら、悠斗は陽菜と一緒に歩き始めた。
最初に二人が向かったのは、ショッピングモール内の衣料品店だった。
陽菜は店内を楽しそうに見て回り、気になる服を見つけるたびに悠斗へ意見を求めてきた。
「ねえ、蓮。これ、どう思う?」
陽菜は淡い色のブラウスを身体の前に当てて、くるりと振り返った。
「似合うと思うよ」
「本当に?」
「ああ。陽菜に合いそうな色だし」
陽菜は目をぱちぱちさせた。
そして、頬がほんのりと赤くなる。
「……最近、そういうことを普通に言うようになったよね」
「そういうこと?」
「な、何でもない!」
陽菜は慌てて背を向け、別の服を見始めた。
悠斗は首を傾げた。
(俺、何か変なことを言ったか?)
本物の蓮なら、幼馴染の陽菜に対してどんな態度を取るのだろう。
二人が幼い頃からどのような会話を交わしてきたのか、悠斗にはすべて分かるわけではない。
そのため、時々こうして返事に困ることがあった。
やがて陽菜は、試着した淡い青色のワンピースを見せに来た。
「じゃあ、これはどう?」
悠斗は一瞬、言葉を失った。
淡い青色が陽菜によく似合っていた。彼女の瞳の色とも調和していて、普段より少し大人びた印象を受ける。
「……それも似合ってるよ」
「それも?」
「え?」
「さっきのブラウスも似合うって言ったでしょ?」
「あ、ああ。どっちも似合うって意味だよ」
陽菜はしばらく悠斗を見つめた後、顔を赤くして試着室へ戻っていった。
「もう……!」
小さく聞こえた声に、悠斗はますます困惑した。
(……今日はいつもより反応が変じゃないか?)
もっとも、陽菜は機嫌が悪いわけではなさそうだった。
買い物を終えて店を出たときには、彼女はすっかり元気を取り戻していた。
悠斗は、それ以上深く考えないことにした。
昼になり、二人はショッピングモール内のレストランへ入った。
料理を注文し、食事が運ばれてくるまでの間、陽菜は楽しそうに昔の思い出を話し始めた。
「ねえ、蓮。小さい頃、一緒にお祭りへ行ったこと、覚えてる?」
悠斗の背筋がぴんと伸びた。
(来た……!)
陽菜と蓮には、幼い頃からの思い出がたくさんある。
問題は、悠斗がその場にいなかったということだ。
「お祭り?」
「そう! 屋台がいっぱい並んでいて、ゲームもたくさんあったでしょ? 蓮、そこで大きな景品を取るんだって、すごく張り切っていたんだよ」
悠斗は内心で冷や汗を流した。
何を取ろうとしていたのか。成功したのか。それとも失敗したのか。
何一つ分からない。
「それで……どうなったんだ?」
できるだけ自然に聞き返すと、陽菜は楽しそうに笑った。
「すごく時間がかかったんだよ! もう少しでお祭りが終わっちゃうんじゃないかって、私、心配したんだから」
「そ、そうだったのか……」
「でも、最後にはちゃんと取れたんだよね。それで、蓮が私にくれたの」
悠斗は思わず黙り込んだ。
陽菜は懐かしそうに目を細めている。
「小さなぬいぐるみだったんだけど、ずっと大切にしていたんだ。今はもう手元にないけど、すごく嬉しかったな」
悠斗は胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
本物の蓮は、幼い頃から陽菜を大切にしてきたのだろう。
自分には知らない、二人だけの思い出がたくさんある。
「……大切な思い出なんだな」
悠斗がそう答えると、陽菜は嬉しそうに頷いた。
「うん。蓮と一緒に過ごした時間は、私にとって大切なものだから」
その言葉を聞いて、悠斗は改めて自分の立場を思い出した。
彼女が信頼しているのは、自分の顔をした別の人間ではない。
西園寺蓮という、幼い頃から一緒に過ごしてきた大切な友人なのだ。
「……蓮?」
「えっ?」
陽菜の声に、悠斗は我に返った。
「今日、少し静かじゃない? 何かあった?」
「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」
陽菜は不思議そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。
「そっか。まあ、いいけど。こうして一緒にご飯を食べられるだけでも、私は嬉しいから」
陽菜は飲み物に口をつけた。
悠斗は、そんな彼女を見ながら静かに頷いた。
「俺も、陽菜とこうして過ごせて嬉しいよ」
その言葉に、陽菜はぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を伏せる。
「……そっか」
小さな声だった。
けれど、頬が赤くなっているのは、悠斗にも分かった。
食事を終えた二人は、午後から娯楽施設へ向かった。
ゲームセンターには、音楽ゲームやレースゲーム、景品を獲得するためのクレーンゲームなど、さまざまな機械が並んでいた。
その中で、陽菜が足を止めたのは、かわいらしいぬいぐるみが並んだクレーンゲームだった。
「見て、蓮! このウサギ、すごくかわいい!」
機械の中には、クリーム色の身体にピンク色のリボンをつけたウサギのぬいぐるみが入っていた。
「そんなに気に入ったのか?」
「うん!」
陽菜は目を輝かせた。
「……取ってくれたら嬉しいな、なんて」
最後の言葉は、少しだけ小さかった。
悠斗は思わず笑った。
「なるほど。俺への挑戦ってわけか」
「え? そんなつもりじゃ……」
「よし、任せろ。こういうのは得意なんだ」
悠斗は自信満々に硬貨を投入した。
しかし、五回挑戦しても、ぬいぐるみはほとんど動かなかった。
陽菜は口元を押さえて笑いをこらえている。
「……何がおかしいんだ?」
「だって、さっき得意だって言ったのに……」
「この機械がおかしいんだよ。絶対にそうだ」
「ふふっ。負けた人はみんなそう言うんだよ」
「まだ負けてない!」
悠斗は再び機械に向き直った。
今度こそ、と狙いを定める。
クレーンが下がり、ぬいぐるみの耳をつかんだ。
持ち上がった。
二人は息をのんだ。
しかし、出口のすぐ近くまで来たところで、ぬいぐるみは再び落下した。
「……あああっ!」
「ふふっ、蓮の顔!」
陽菜はついに我慢できなくなり、声を上げて笑った。
その笑顔を見て、悠斗も思わず笑ってしまう。
結局、さらに何度か挑戦した末、悠斗はようやくぬいぐるみを獲得することができた。
「よしっ! 取れた!」
悠斗はぬいぐるみを取り出すと、陽菜に差し出した。
「ほら。陽菜にあげるよ」
「……えっ? 私に?」
「ああ。そんなに欲しそうにしていたからな」
陽菜は両手でぬいぐるみを受け取った。
頬を赤く染め、胸元にぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、蓮……!」
その笑顔を見た瞬間、悠斗は何度も挑戦した甲斐があったと思った。
けれど、陽菜はぬいぐるみを見つめながら、どこか懐かしそうな表情を浮かべていた。
「どうしたんだ?」
「ううん。何でもないよ。ただ……小さい頃のことを思い出しただけ」
陽菜は顔を上げ、もう一度笑った。
「大切にするね」
悠斗は頷いた。
自分には共有できない思い出がある。
それでも、今この瞬間に陽菜が喜んでくれたことだけは、確かなものだった。
夕方になり、二人はショッピングモールの正面入り口へ戻ってきた。
陽菜は買い物袋とウサギのぬいぐるみを抱えていた。
「今日は本当に楽しかった!」
「俺もだよ」
二人が歩道へ出ると、そこには二台の高級車が停まっていた。
一台は桜井家の車で、もう一台は西園寺家の黒塗りの車だった。
陽菜の運転手は車のそばで待機しており、悠斗の姿を見つけた徹も、すぐに運転席から降りてきた。
「お帰りなさいませ、蓮様」
「ただいま、徹。待たせてごめん」
「いえ、ほんの数分前に到着したところです」
陽菜は徹を見てから、蓮へ視線を戻した。
「じゃあ、徹さんが迎えに来てくれたんだね」
「ああ。いつも送り迎えをしてくれているんだ」
「そっか。頼れる人がいてくれるのは、いいことだね」
陽菜は微笑んだ後、自分の車へ目を向けた。
「私もそろそろ帰らなくちゃ。今日はここでお別れだね」
悠斗は頷いた。
「そうだな。また月曜日に」
陽菜はすぐには動かなかった。
胸元のぬいぐるみを抱きしめ、少しだけ恥ずかしそうに悠斗を見上げる。
「今日はありがとう、蓮。一緒に過ごせて、本当に嬉しかった」
「お礼なんていらないよ。俺も楽しかったから」
「それでも、ちゃんと言いたかったの」
陽菜はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「また一緒に出かけようね?」
悠斗は微笑んだ。
「ああ。いつでも誘ってくれ」
「……約束だよ?」
陽菜の声には、いつもより少しだけ真剣な響きがあった。
悠斗は彼女の顔を見つめ、はっきりと答えた。
「約束する」
その瞬間、陽菜の表情がぱっと明るくなった。
「うん! じゃあ、また月曜日ね!」
「ああ。またな」
陽菜は手を振りながら車へ向かい、運転手に迎えられて後部座席へ乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、彼女はもう一度だけこちらを振り返り、笑顔で手を振った。
悠斗も手を振り返す。
やがて桜井家の車は、夕暮れの街へと走り去っていった。
「蓮様、お車はこちらです」
徹に声をかけられ、悠斗は我に返った。
「ああ、ありがとう」
車に乗り込むと、悠斗は背もたれに身体を預けた。
今日一日を振り返る。
陽菜の笑顔。
昔の思い出を語る声。
ぬいぐるみを受け取ったときの、嬉しそうな表情。
楽しい時間だった。
けれど同時に、悠斗は自分の立場について、改めて考えさせられていた。
陽菜が信頼しているのは、自分ではなく蓮だ。
彼女が見せてくれた笑顔も、何気ない言葉も、すべては幼い頃からの友人である蓮に向けられたものだった。
自分がその信頼を裏切るようなことだけは、絶対にしたくない。
(……あの笑顔は、守らないとな)
悠斗は窓の外へ目を向けた。
本物の蓮が日本へ戻ってきたとき、何が起こるのかは分からない。
今まで築いてきた関係がどう変わるのかも、まだ想像できなかった。
それでも、今は自分にできることをするしかない。
蓮の代わりとして過ごす日々の中で、誰かを傷つけないように。
そして、信頼してくれる人たちの気持ちを大切にするために。
車窓に映る自分の顔を見つめながら、悠斗は小さく息を吐いた。
ふと、クレーンゲームで何度も失敗したときの陽菜の笑い声を思い出す。
思わず、口元が緩んだ。
今日という一日は、きっと陽菜にとっても楽しい思い出になっただろう。
そして、悠斗にとっても。
ただ、その気持ちが何を意味するのかは、まだ分からなかった。




