世界の向こうにいる友人
月曜日の放課後。
授業を終えた悠斗は、西園寺家の屋敷へと戻ってきた。
週末には祖父の健司を訪ね、久しぶりにゆっくりと話をすることができた。
別れ際に祖父からかけられた言葉が、今も頭の中に残っている。
『別人のふりをするのはいい。だが、自分まで別人になるな』
悠斗は思わず小さく笑った。
「心配しないで、じいちゃん。俺は自分を見失ったりしないよ」
「何かおっしゃいましたか、悠斗様?」
不意に聞こえた声に、悠斗は振り返った。
そこには、いつものように姿勢を正した徹が立っていた。
「いや、何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」
「そうですか。ところで、雅宏様が悠斗様とお話ししたいとのことです。書斎でお待ちになっています」
「俺に?」
「はい。学校からお戻りになったら、すぐに来てほしいとのことでした」
悠斗はすぐに背筋を伸ばした。
「分かった。今から行くよ」
制服から動きやすい服に着替えた悠斗は、雅宏の書斎へ向かった。
扉をノックすると、中から返事が聞こえた。
「どうぞ」
部屋に入ると、雅宏が机の向こう側で書類に目を通していた。
彼は顔を上げると、悠斗に座るよう促した。
「来てくれてありがとう、悠斗」
「いえ、問題ありません」
悠斗は椅子に腰を下ろした。
西園寺家での生活にもずいぶん慣れてきたが、雅宏と話すときには、今でも少し緊張してしまう。
何しろ、彼は本物の蓮の父親なのだ。
任された役目をきちんと果たさなければならないという思いは、今も変わらなかった。
雅宏は手元の書類を脇へ置いた。
「学校での様子について、少し話を聞きたくてね」
「何か問題でもありましたか?」
「いや、むしろ逆だ。君の成績や学校での振る舞いについて、良い報告を受けている。それに、桜井家や九条家の人たちとも、うまく付き合えているそうだね」
悠斗は少しだけ肩に力を入れた。
「ああ……はい。皆さん、とても親切にしてくれています」
「それはよかった。蓮の代わりを務めるのは簡単ではないはずだ。それでも、君は予想以上にうまく適応してくれている」
「まだ、蓮の暮らしていた世界について分からないことも多いです。時々、何か間違えてしまうんじゃないかと不安になります」
「それは当然だよ。最初から何もかも上手にできる人間はいない。大切なのは、努力を続けること。そして、君がこの仕事を引き受けた理由を忘れないことだ」
悠斗は真剣な表情で頷いた。
「忘れていません」
雅宏はしばらく悠斗を見つめた後、穏やかな表情になった。
「実は、もう一つ話しておきたいことがあるんだ」
「何でしょうか?」
「今週末、蓮に会いにアメリカへ行く予定なんだ。向こうで担当医たちから、リハビリの進み具合について詳しい話を聞くことになっている」
悠斗は静かに耳を傾けた。
雅宏は続けた。
「君も一緒に来ないか?」
「……えっ?」
思いがけない提案に、悠斗は目を見開いた。
「俺も、行っていいんですか?」
「もちろん。蓮も電話では学校の話をよく聞いてくるが、やはり直接会えたら喜ぶだろう」
悠斗の胸が高鳴った。
蓮と直接会うのは久しぶりだった。
時々電話で話すことはあったものの、実際に顔を合わせるのとは違う。
何より、アメリカで治療を受けている蓮が今どうしているのか、悠斗はずっと気になっていた。
「ぜひ行かせてください!」
思わず身を乗り出して答えた悠斗を見て、雅宏はわずかに笑った。
「では、決まりだな。土曜日の朝に出発する。私のプライベートジェットで向かい、蓮としばらく過ごしてから戻ってくる予定だ」
「ありがとうございます。本当に嬉しいです」
「礼を言う必要はないよ。君も今回の件に深く関わっている。それに、これまで西園寺家のために尽くしてくれたのだから、蓮の様子を知る機会があってもいいはずだ」
悠斗は深く頭を下げた。
「蓮に会ったら、いろいろ話してきます」
「そうしてくれ。……ただし、君は他人のことを心配しすぎるところがあるからね。あまり無理はしないように」
「そ、そんなことありませんよ」
「そうかな?」
雅宏は意味ありげな笑みを浮かべた。
悠斗は苦笑いを浮かべるしかなかった。
こうして、悠斗のアメリカ行きが決まった。
そして土曜日。
まだ朝の空気が冷たい時間帯に、悠斗は雅宏とともにプライベートジェットの待つ空港へ向かった。
目の前にある機体を見上げ、悠斗は思わず足を止めた。
今まで飛行機に乗ったことすらない自分が、まさかプライベートジェットで海外へ行くことになるなんて。
想像すらしていなかった。
「飛行機に乗るのは初めてかい?」
隣にいた雅宏が尋ねた。
「はい。飛行機自体が初めてです」
雅宏は少しだけ驚いたように悠斗を見た。
「そうか……。君と蓮は顔も体格もそっくりだが、これまで歩んできた人生はまったく違うんだな」
悠斗は思わず視線を落とした。
自分の生い立ちが、何か問題になるのではないか。
そんな不安が一瞬、胸をよぎった。
しかし、雅宏は気にする様子もなく続けた。
「自分の過去を恥じる必要はないよ。違う環境で育ったからといって、君の価値が下がるわけではない」
「……ありがとうございます」
悠斗はその言葉を胸に刻んだ。
やがて二人は機内へ入り、飛行機はゆっくりと滑走路を進み始めた。
窓の外の景色が流れ、機体が空へと舞い上がる。
悠斗は窓の向こうに広がる景色を眺めながら、これから会う蓮のことを考えていた。
飛行中、雅宏は蓮の治療について詳しく話してくれた。
現在、蓮は脚の筋力を取り戻し、少しずつ動かせる範囲を広げるためのリハビリに取り組んでいる。
ただし、回復には長い時間が必要であり、どこまで元のように動けるようになるかは、まだ分からないという。
「蓮はよく頑張っているよ。ただ、痛みや思うように動けないことへの苛立ちを感じる日もあるようだ」
悠斗は膝の上で両手を握りしめた。
「……落ち込んでいるんですか?」
「時々ね。蓮は昔から、何でも自分一人で解決しようとするところがある。自分の思いどおりにならないことを受け入れるのは、簡単ではないのだろう」
悠斗には、その気持ちがよく分かった。
蓮はいつも落ち着いていて、何事にも冷静に対応する。
しかし、それは決して悩みがないという意味ではない。
弱いところを人に見せるのが苦手で、困ったことがあっても自分の中に抱え込んでしまう。
そんな一面があることを、悠斗は知っていた。
「会ったときは、今までどおりに接したいです」
悠斗は顔を上げた。
「無理に励ましたり、弱い人間みたいに扱ったりしたくありません。いつもと同じように話して、くだらないことで笑い合えたら、それでいいと思っています」
雅宏はしばらく悠斗を見つめた後、静かに頷いた。
「蓮にとっても、それが一番嬉しいことかもしれないね」
数時間後、飛行機はアメリカの空港へ到着した。
空港から車で移動し、二人が向かったのは蓮がリハビリを受けている医療施設だった。
設備の整った建物に入り、案内された部屋の前で雅宏が軽くノックする。
「蓮、私だ」
「どうぞ」
聞き慣れた声が返ってきた。
悠斗は雅宏の後ろに続いて部屋へ入った。
窓際には、動きやすい服装の蓮が座っていた。脚には毛布が掛けられている。
蓮は二人を見ると、驚いたように目を見開いた。
「父さん? どうしたの?」
そして、その後ろにいる人物に気づく。
「……悠斗?」
「よう、蓮!」
悠斗が笑顔で手を上げると、蓮はしばらく呆然としていた。
やがて、久しぶりに見る穏やかな笑みを浮かべた。
「まさか、本当に来るとは思わなかった」
「なんだよ。来ちゃ悪かったか?」
「そんなことは言っていない。ただ、驚いただけだよ」
悠斗は蓮のそばにあった椅子を引き、腰を下ろした。
雅宏は二人の様子を見て、安心したように微笑んだ。
「二人でゆっくり話すといい。私は担当の先生たちと話をしてくる」
「分かったよ」
蓮が答えると、雅宏は部屋を出ていった。
二人きりになった部屋で、悠斗は改めて蓮の顔を見た。
「調子はどうだ?」
「まあ、悪くはないよ。ただ、この生活にも少し飽きてきたところかな」
「飽きた?」
悠斗は目を丸くした。
「アメリカにいるんだぞ? もっと楽しそうなことがあるだろ」
「そういう意味じゃない。毎日リハビリをして、休んで、またリハビリをする。その繰り返しだからね」
「……ああ」
悠斗はすぐには言葉を返せなかった。
想像していた以上に、退屈で、もどかしい日々なのかもしれない。
蓮は自分の脚へ視線を落とした。
「医師たちは少しずつ進歩していると言ってくれる。でも、まだ思うようには動かせない。何も変わっていないように感じる日もあるんだ」
その表情から、いつもの余裕が少しだけ消えた。
「この状態が、あとどれくらい続くのか……時々、分からなくなる」
悠斗は黙って話を聞いた。
大丈夫だと、きっと元に戻れると、簡単に言うことはできなかった。
医師たちでさえ、将来のことを断言できないのだから。
だからこそ、悠斗は正直に答えた。
「どれくらい時間がかかるのか、俺には分からない。完全に元どおりになるかどうかだって、今は分からない」
「……おいおい。励ます気はあるのか?」
蓮が呆れたように言った。
「待て、最後まで聞けよ!」
悠斗は慌てて手を振った。
「今日、思うように動けなかったからって、今までの努力が無駄になるわけじゃないだろ。少しでも前に進めたなら、それでいい。もし進めない日があったとしても、これまで積み重ねたものが消えるわけじゃないんだから」
蓮は静かに悠斗を見つめた。
「それに、いつも平気なふりをする必要もないと思う。悔しいなら悔しいって言えばいいし、腹が立つなら怒ったっていい。リハビリが退屈なら、思い切り文句を言えばいい」
「……君が全部聞いてくれるのかい?」
「まあ、そこまで暇じゃないけどな」
「おい」
蓮が吹き出した。
悠斗もつられて笑う。
久しぶりに、二人で何も気にせず笑い合えた気がした。
「お前、意外とひどいことを言うな」
「誰かさんの影響かな」
「誰のことだろうね」
二人は顔を見合わせ、再び笑った。
しばらくして、蓮が尋ねた。
「ところで、学校はどう?」
「結構うまくいってるよ。ただ、思った以上に手のかかる人たちがいてさ」
「人たち?」
「……いや、何でもない」
蓮は目を細めた。
「今の反応は怪しいな」
「怪しくない!」
「じゃあ、どうして目をそらしたんだい?」
「お前が余計なことを考えるからだろ!」
蓮は楽しそうに笑った。
「なるほど。僕がいない間、ずいぶん楽しい学校生活を送っているようだね」
「だから、そういう意味じゃないって!」
「分かっているよ。冗談さ」
悠斗は頭を抱えた。
久しぶりに会ったというのに、蓮は相変わらずだった。
そんなやり取りをしながら、二人は学校での出来事や授業、教師たちの話をした。
悠斗は自分の正体が露見しないよう気をつけながら、蓮が楽しめるようにいろいろな話を聞かせた。
時間が過ぎるのは、あっという間だった。
ふと、蓮が窓の外へ目を向けた。
「そういえば、そろそろリハビリの時間なんだ」
「そうなのか? 俺も見に行っていいか?」
「構わないけど、退屈だと思うよ」
「長い時間かけて会いに来たんだ。お前が頑張ってるところを見たいんだよ」
蓮は少し驚いた顔をした後、静かに頷いた。
「……分かった。でも、うまくいかなくても笑わないでくれよ」
「笑わないって」
リハビリは専用の訓練室で行われた。
室内には歩行訓練用の平行棒や、身体の動きを支えるための設備が整っている。
担当の理学療法士に支えられながら、蓮は平行棒の前に立った。
まずは簡単な運動から始め、脚の動きや筋力を確かめていく。
その後、療法士の補助を受けながら、ゆっくりと身体を起こした。
蓮は集中した表情で、自分の脚に力を込める。
しかし、思うように身体を支えられず、脚が小さく震えた。
「無理をしないでください。少しずついきましょう」
療法士の声に、蓮は頷いた。
一度休憩を挟み、呼吸を整えてから、もう一度挑戦する。
今度は、先ほどよりも少し長く身体を起こした姿勢を保つことができた。
やがて訓練が終わり、蓮は疲れた様子で車椅子へ戻った。
それは、劇的な変化とは呼べない小さな進歩だった。
けれど、悠斗には分かった。
蓮がどれだけ努力して、その数秒を積み重ねたのか。
部屋へ戻り、二人きりになったところで、蓮が尋ねた。
「それで、どうだった?」
「すごかったよ」
悠斗は即答した。
「大げさだな。ほんの少し立っていただけだよ」
「何が悪いんだ? さっき、自分では何も進んでいないように感じる日もあるって言ってただろ。今日は少し長く立てた。それだけでも、前に進んでいるってことじゃないか」
蓮は視線を落とした。
「……そうだね」
しばらくして、彼の顔に小さな笑みが浮かんだ。
「ありがとう、悠斗」
「気にするなよ」
「いや、本当にそう思っているんだ」
蓮はまっすぐに悠斗を見た。
「君が来てくれて、嬉しかった」
悠斗の胸が温かくなった。
「俺も、会えてよかったよ」
帰りの時間が近づくまで、二人は再びいろいろな話をした。
そして、悠斗が飲み物を取って蓮に渡したとき、蓮がふと口を開いた。
「ねえ、悠斗」
「ん?」
「何でも一人で抱え込まないでくれよ」
悠斗の手が止まった。
蓮は穏やかな声で続けた。
「君が僕の代わりに学校へ通ってくれていることは分かっている。きっと、僕には想像できないくらい気を遣っているんだろうね」
「……まあ、多少はな」
「それに、君自身にも悩みがあるはずだ。僕の名前を使っているからといって、何もかも完璧にやらなきゃいけないと思わなくていいんだよ」
悠斗は手元のグラスを見つめた。
数日前、祖父から言われた言葉が頭に浮かぶ。
自分まで別人になるな。
そして今、蓮もまた、自分を気遣ってくれている。
「分かってるよ。でも、引き受けたからには、ちゃんと最後までやり遂げたいんだ」
「それは僕も同じだよ。だからこそ、君には自分自身を大切にしてほしい」
蓮は柔らかく微笑んだ。
「君まで倒れたら、次に僕の愚痴を聞いてくれる人がいなくなってしまうからね」
「結局、それが目的かよ!」
悠斗が思わず声を上げると、蓮は楽しそうに笑った。
「もちろん。僕にとっては重要な問題だからね」
「そんな仕事、引き受けた覚えはないぞ!」
「もう遅いよ。君は立派な愚痴聞き係だ」
「勝手に任命するな!」
二人は再び笑い合った。
その笑い声を聞きながら、悠斗は心の底から安堵していた。
蓮は、今も蓮のままだ。
困難な状況に置かれていても、いつもの冗談を言い、いつものように笑っている。
もちろん、これからも苦しい日々は続くだろう。
それでも、蓮は諦めていない。
帰る前、悠斗はもう一度、蓮に声をかけた。
「また会いに来るよ」
「楽しみにしている」
「次に会うときは、今日より少しでも進歩しているといいな」
蓮は自分の脚へ目を向け、それから悠斗を見た。
「そうだね。少しずつ頑張るよ」
悠斗は満足そうに頷いた。
部屋を出た後、雅宏とともに医療施設の建物を後にする。
車へ向かう途中、悠斗は一度だけ振り返った。
蓮には、まだ長い道のりが残されている。
どこまで回復できるのか、今は誰にも分からない。
それでも、今日の小さな進歩を目の当たりにした悠斗は、希望を捨てたくないと思った。
「また来ような、蓮」
小さく呟き、悠斗は前を向いた。
すべての問題が、一度に解決するわけではない。
時には立ち止まり、思うように進めない日もあるだろう。
それでも、少しずつ歩みを進めることはできる。
そして、その道のりを一緒に歩いてくれる人がいるのなら。
きっと、前へ進む力になるはずだ。
悠斗は窓の外に広がる景色を眺めながら、次に蓮と会える日を楽しみにしていた。




