故郷を忘れない孫
土曜日の朝。
悠斗は、静かな住宅街にある小さな家の前に立っていた。
年季の入った壁に、手入れされた小さな庭。そこでは、祖父が育てている野菜が朝の日差しを浴びていた。
決して立派な家ではない。
けれど、悠斗にとっては何よりも大切な場所だった。
ここで育ち、ここで何度も勉強し、アルバイトから帰ってきて疲れた体を休めてきた。
そして何より、ここには自分を育ててくれた人がいる。
「……久しぶりだな」
悠斗は小さく笑い、玄関の扉を叩こうと手を上げた。
しかし、その前に家の中から足音が聞こえてきた。
「今行く! そんなに何度も叩かなくても聞こえてるぞ!」
扉が勢いよく開き、白髪交じりの男性が顔を出した。
六十五歳になった水原健司。悠斗の祖父である。
「じいちゃん」
「何をぼさっと立ってるんだ。ほら、早く入れ。せっかくの朝の空気が逃げちまうだろうが!」
「まだ扉を開けたばかりだよ……」
「口答えする暇があるなら入れ!」
悠斗は苦笑しながら家の中へ入った。
室内は、以前とそれほど変わっていなかった。
家具はいつもの場所にあり、壁の時計は変わらず規則正しく時を刻んでいる。棚の上には、家族の写真がいくつか飾られていた。
けれど、以前とは違うところもあった。
台所のテーブルには食事の準備が整っており、冷蔵庫にも十分な食材が入っている。
部屋の隅に積まれていた請求書も、以前ほど多くない。
そして、長い間調子の悪かった暖房器具も新しいものに替わっていた。
悠斗は祖父を振り返った。
「暖房、買い替えたんだ?」
「ああ。古くなってたからな。とうとう調子が悪くなって、買い替えることにしたんだ」
「冷蔵庫の中も、ずいぶん充実してるね」
「当たり前だろう。いつまでも米と漬物だけで暮らせるか!」
「前は、それで十分だって言ってたのに」
「無駄遣いをしたくなかっただけだ!」
健司は腕を組んだ。
「今は必要なものを買えるんだから、何でもかんでも我慢する必要はないだろう」
悠斗は微笑んだ。
どこからお金が出ているのか、聞くまでもなかった。
西園寺蓮の身代わりとして働くようになってから、悠斗は以前のアルバイトでは考えられなかったほどの報酬を受け取っている。
最初に仕事を引き受けた理由は、祖父を助けるためだった。
毎月の生活費や食費、突然の出費を心配することなく、少しでも安心して暮らしてほしかった。
そして今、その願いは少しずつ現実になっていた。
「じいちゃんが元気そうでよかったよ」
悠斗がそう言うと、健司は彼をじっと見つめた。
「それで、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前のことを聞いてるんだ。話をそらすな」
健司は椅子を指差した。
「座れ。飯を用意するから、その間に最近のことを話せ」
「帰ってきたばかりなのに、もう尋問かよ……」
「お前の祖父だからな! 誰が聞いてやると思ってるんだ!」
悠斗は笑いながら椅子に座った。
健司は台所へ向かい、しばらくしてお茶と食事を運んできた。
「ほら、食え。少し痩せたんじゃないか?」
「じいちゃん、俺は百八十三センチあるんだよ。そんなに小さくないって」
「背の高さの話なんかしてない! 痩せたと言ってるんだ!」
「それも違うと思うけど……」
「おかわりはいるのか?」
「いる」
「なら、余計なことを言うな!」
悠斗は思わず笑った。
こうした何気ないやり取りが、ずっと恋しかった。
西園寺家の屋敷には、快適な生活環境も、豪華な食事も、何不自由ない暮らしもある。
東徹も、悠斗が困らないようにさまざまなことを教えてくれていた。
けれど、この家は違う。
椅子の座り方も、話し方も、食器の使い方も気にする必要がない。
ただの悠斗として過ごせる場所だった。
健司の孫である、水原悠斗として。
「そういえば、じいちゃん。最近の生活はどう?」
健司は悠斗の向かいに座った。
「かなり楽になったよ。必要だったものも買えるようになったし、毎月の出費をそこまで心配しなくてもよくなった」
「そうか。よかった」
「ただな、お前、あまり俺に金を送るんじゃないぞ」
悠斗は食べる手を止めた。
「どうして?」
「お前だって生活があるだろう。服も必要だし、食費もかかる。自分のためにも金を使え」
健司は真剣な表情で悠斗を見た。
「いいか、悠斗。お前がしてくれていることには感謝している。だが、自分を犠牲にするほど無理はするな」
悠斗は黙って祖父の話を聞いた。
健司は昔からそうだった。
どれだけ生活が苦しくても、自分より悠斗のことを優先してきた。
悠斗が幼かった頃、健司は彼の学費や食費を工面するために、いくつもの仕事を引き受けた。
疲れ切って帰宅した夜でも、悠斗の前では決して弱音を吐かなかった。
悠斗は、そのことを忘れていない。
「じいちゃんは、ずっと俺のために頑張ってくれただろ?」
「それとこれとは話が別だ」
「どうして?」
「俺はお前の祖父だからだ!」
「それ、理由になってないよ」
健司は口を開いたが、すぐには言い返せなかった。
悠斗は微笑んだ。
「俺は無理してるわけじゃないよ。じいちゃんを助けたいから、この仕事をしてるんだ。それに、この仕事のおかげで、今まで知らなかったこともたくさん学べてる」
「知らなかったこと? 金持ちの跡取りらしい振る舞いとかか?」
「まあ、それもあるけど……」
「どうだ、うまくできてるのか?」
悠斗は、西園寺家で過ごした最初の数週間を思い出した。
礼儀作法の授業。
東徹から何度も受けた指導。
あまりにも間抜けな失敗をして、今でも思い出すと恥ずかしくなる出来事。
「……何とか生き延びてるよ」
健司は大笑いした。
「はははっ! それはずいぶん大変そうだな!」
「笑い事じゃないって! 思ってた以上に難しいんだから!」
「お前が礼儀作法を勉強してるところ、一度見てみたかったなあ」
「見なくていいよ。徹さんが、じいちゃんの分まで厳しく指導してくれてるから」
「それは気の毒に」
「どうして徹さんに同情するんだよ! 苦労してるのは俺のほうだろ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
しばらくの間、食事をしながら会話が続いた。
健司は悠斗が屋敷でどのように過ごしているのか、きちんと食事を取っているのか、睡眠時間は足りているのか、誰かに嫌な思いをさせられていないかと、次々に質問した。
悠斗は、心配するようなことは何もないと説明した。
これまでとはまったく違う生活だが、周囲の人たちは彼を助けようとしてくれている。
徹も厳しいところはあるものの、今では信頼できる相手になっていた。
「そういえば、じいちゃん」
悠斗はお茶を一口飲んだ。
「最近、徹さんと話した?」
「東さんのことか?」
「うん」
健司は頷いた。
「数日前に電話をくれたよ。俺の様子を尋ねてくれたんだ」
「そうなんだ」
「それだけじゃない。何か必要なものがあったり、不自由していることがあったりしたら、遠慮なく言ってほしいとも言ってくれた」
悠斗は顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。困ったことがあれば、西園寺家が責任を持って対応するから、生活費のことも心配しないでほしいとまで言ってくれたよ」
健司は少し嬉しそうに笑った。
「もちろん、ありがたいと伝えておいた。今のところ、特に困っていることはないからな。お前が働いてくれているおかげで、必要なものは十分にそろっている」
悠斗の胸に、温かなものが広がった。
徹がそこまで気にかけてくれていたとは思わなかった。
彼が責任感の強い人間であることは知っている。だが、自分の仕事だけでなく、祖父の生活まで気にかけてくれていたことが、素直に嬉しかった。
「へえ……徹さんも、じいちゃんのことを心配してくれてたんだな」
「とても気遣いのできる人だな。話し方は少し堅いが、誠実な人だと思うよ」
「それは間違いないね」
悠斗は微笑んだ。
しかし、健司は突然、何かを思い出したような顔をした。
「そうだ。お前の屋敷での生活についても、いくつか教えてくれたぞ」
悠斗は嫌な予感を覚えた。
「……何を?」
健司は顎に手を当て、わざとらしく考えるふりをした。
「最近、お前の周りには女の子が三人もいるそうじゃないか」
悠斗の動きが止まった。
「……は?」
「ずいぶん仲良くしている娘たちが三人いると聞いたぞ」
「ちょ、ちょっと待って! じいちゃん、変な誤解をしないで!」
「誤解? 俺は何も言ってないぞ?」
健司は口元を押さえたが、笑いを隠しきれていなかった。
「昔はアルバイトばかりで、女の子と出かける暇もなかった孫が、今では三人もの娘たちに囲まれている。そりゃあ、気になるだろう?」
「誰とも付き合ってないから!」
「そうなのか?」
「そうだよ!」
「じゃあ、友達なのか?」
「そうだって!」
「なるほど……」
健司はゆっくり頷いた。
しかし、その笑顔は消えなかった。
「それで、その中に好きな娘はいるのか?」
「じいちゃん!」
悠斗の声が家中に響いた。
健司はとうとう我慢できなくなり、大笑いした。
「ははははっ! そんなに慌てるな! ちょっと聞いただけだろう!」
「聞かなくていいよ!」
「分かった、分かった」
健司は両手を上げて降参の仕草をした。
それでも、顔にはまだ楽しそうな笑みが残っていた。
悠斗はため息をつき、片手で顔を覆った。
最悪だ。
東徹の礼儀作法の授業も、西園寺家での厳しい生活も、桜井家や九条家との交流も、何とか乗り越えてきた。
なのに、自分の祖父にはまったく歯が立たない。
「まったく……徹さん、余計なことまで話しすぎだよ」
「そう言うな。お前のことを心配してくれているんだろう」
「心配?」
「ああ。仕事を頑張っていることも、少しずつ新しい生活に慣れてきたことも、周りの人たちと良い関係を築いていることも教えてくれた」
健司の表情が柔らかくなった。
「それに、お前は大変なことがあっても、周りの人たちに優しく接しているそうじゃないか」
悠斗は片手を顔から離した。
徹がそんな話まで祖父にしていたとは思わなかった。
厳しい人だが、いつも自分のことを見てくれている。
そして、自分の努力を認めてくれているのかもしれない。
「……徹さんも、悪い人じゃないんだよな」
「責任感のある、立派な人だと思うぞ」
「それはそうなんだけど……もう少し厳しくないと助かるんだけどな」
「しっかり教えてくれる人がいるのは、ありがたいことだ」
「じいちゃん、徹さんの味方ばかりするなよ……」
健司は再び笑った。
食事を終えた悠斗は、祖父と一緒に食器を片づけた。
その後、二人は家の外にある小さな庭へ出た。
朝の空気は心地よく、健司が育てている野菜の葉を太陽の光が照らしていた。
健司が植物の様子を確かめている間、悠斗は家を眺めた。
「そういえば、じいちゃん」
「今度は何だ?」
「もっと良い家に引っ越さない?」
健司の手が止まった。
悠斗は続けた。
「今なら、前より余裕もあるしさ。もっと住みやすい場所を探してもいいと思うんだ。修理の心配もしなくていいような家に」
健司はゆっくりと立ち上がった。
「嫌だ」
「考えるくらいしてもいいだろ?」
「考える必要もない。俺はここで十分だ」
健司は振り返り、家を見つめた。
「確かに小さいし、古くもなった。でも、ここでお前を育ててきたんだ。楽しかったことも、苦しかったことも、全部この家で経験した」
そして、悠斗に向き直った。
「俺は立派な屋敷に住みたいわけじゃない。今までどおり、安心して暮らせればそれで十分なんだ」
「でも、もっと快適に暮らせるよ」
「今だって十分快適だ!」
健司はきっぱりと言った。
悠斗は小さく笑った。
祖父が頑固なのは昔からだ。
特に、自分が大切にしているものを手放すことについては、簡単には譲らない。
「分かった。今は無理に勧めないよ」
「そうしろ」
悠斗はそれ以上、説得しなかった。
祖父がこの家に住み続けたいのなら、その気持ちを尊重したかった。
助けるというのは、相手の代わりに何もかも決めることではない。
自分が安心して暮らせるように、選択肢を増やしてあげることなのだ。
「じいちゃん」
「ん?」
「……幸せ?」
健司は悠斗を見た。
短い質問だった。
けれど、悠斗が真剣に尋ねていることは、その表情を見れば分かった。
健司は数秒間、黙っていた。
やがて、穏やかに笑った。
「ああ。幸せだよ」
悠斗の胸から、張り詰めていたものが少しずつ消えていった。
「……よかった」
「だが、ひとつだけ覚えておけ」
健司の声が、少しだけ真剣になった。
「どれだけ金を稼いでも、どんな人たちと付き合うようになっても、自分が誰なのかを忘れるな」
悠斗は黙って祖父の言葉を聞いた。
「礼儀作法を覚えてもいい。高い服を着てもいい。立派な屋敷で暮らすことになっても、それは構わない」
健司は悠斗の肩を軽く叩いた。
「だが、自分自身にとって、知らない誰かになってしまうな」
悠斗は、祖父から何度も聞かされてきた言葉を思い出した。
別人のふりをするのはいい。
だが、自分まで別人になるな。
仕事を引き受けたばかりの頃は、その意味を十分に理解できていなかった。
しかし今なら、少し分かる気がした。
悠斗の生活は大きく変わった。
これまで出会うことのなかった人々と知り合い、知らなかったことを学び、少しずつ大切な関係を築いてきた。
それでも、自分は悠斗だ。
この家で育った少年であり、健司の孫であり、家族を大切にしたいと思っている人間だ。
「……忘れないよ、じいちゃん」
悠斗が答えると、健司は満足そうに頷いた。
「よし。それなら、もう言うことはない」
「え、それだけ?」
「何だ? 三時間くらい説教してほしかったのか?」
「じいちゃんだったら、それくらいしても驚かないけど」
「こら!」
悠斗は笑い、健司もつられて笑った。
やがて、帰る時間が近づいた。
玄関先で、悠斗は祖父に別れを告げた。
「また近いうちに来るよ」
「ああ。待ってるぞ」
「何か必要なものがあったら、すぐに連絡してね」
「分かった。だが、お前もちゃんと自分のことを考えるんだぞ」
「分かってるよ」
健司は悠斗を見つめ、穏やかな笑顔を浮かべた。
「それと、もしあの三人のうち誰かに誘われて出かけることになったら、相手を泣かせるような真似はするなよ」
「じいちゃん!」
「はははっ! 冗談だ、冗談!」
「全然面白くない!」
「なら、どうして顔が赤いんだ?」
悠斗は口を開いたが、何も言い返せなかった。
そして、逃げるように背を向けた。
「じゃあ、また!」
「おう! 気をつけて帰れよ!」
歩き始めた悠斗の背中に、健司の笑い声が届いた。
悠斗も、思わず笑みを浮かべた。
祖父は元気だった。
以前のように生活費の心配ばかりをする必要もなくなり、食事も必要なものも十分にそろっている。
久しぶりに、心から安心できた。
自分が引き受けた仕事には責任がある。
いつまでこの生活を続けることになるのかも、まだ分からない。
それでも、今は頑張ろうと思えた。
祖父を助けることができた。
そして、自分自身も少しずつ成長している。
これから先、何が起きても、ここで過ごした時間を忘れることはないだろう。
悠斗は小さな家をもう一度振り返った。
「……また来るよ、じいちゃん」
庭の葉が、朝の風にそっと揺れた。
悠斗は微笑み、再び歩き始めた。
自分が帰ってこられる場所がある。
自分を待ってくれている人がいる。
それだけで、これからも前に進んでいける気がした。




