居場所と呼びたい人
電子工学部の廃部が取り消されてから、一週間が経った。
放課後の部室には、以前よりも賑やかな声が響いていた。
「えっと……まずは、この部品をここにつなげてみてください」
「こうかな?」
「はい! あっ、でも、向きが反対なので……こっちに直すと大丈夫です」
栞は机を囲む一年生たちに説明しながら、手元の回路を指差した。
以前の彼女なら、誰かに話しかけるだけでも緊張していた。相手の表情を気にしすぎて、言いたいことがうまく言葉にならないことも多かった。
けれど、今は違う。
まだ少し緊張することはあっても、自分から声をかけ、分からないことを教え、相手の質問にも答えられるようになっていた。
「おおっ、光った!」
小さなランプが点灯すると、藤沢匠が嬉しそうに声を上げた。
短めの焦げ茶色の髪を少し乱しながら、匠は回路を興味深そうに眺めている。
「簡単な回路なのに、本当に動くんだな。これをもっと複雑にしたら、いろんなことができるんじゃないか?」
「はい! 部品を増やしたり、センサーを組み合わせたりすれば、できることも増えていきます」
「へえ……! それは面白そうだ!」
匠は目を輝かせた。
彼は蓮と陽菜のクラスである一年一組の生徒だ。好奇心が強く、興味を持ったことにはすぐに挑戦したくなる性格をしている。
電子工学部のポスターを見て興味を持ち、見学に来たときにロボットの動きを見て入部を決めた。
「じゃあ、俺は前に話したライントレースロボットを作ってみたいな。床に引いた線に沿って走るやつ!」
「いいですね! センサーを使えば実現できますよ」
「よし、決まりだ!」
匠は勢いよく頷いた。
その隣では、中村康平が古いラジオを慎重に分解していた。
短い黒髪に、落ち着いた茶色の瞳。匠とは対照的に物静かで、何かを始める前にはじっくり考えるタイプだった。
「水野さん。この部品って、まだ使えるのかな?」
「どれですか?」
「ここにある、小さな部品なんだけど……」
栞が覗き込むと、康平は取り外した部品を指差した。
「ああ、それなら状態を確認してからですね。見た目だけでは分からないこともあるので、テスターで測ってみましょう」
「なるほど。そういう道具も使うんだね」
「はい。よかったら、一緒にやってみますか?」
「うん。ぜひ教えてほしい」
康平は穏やかに微笑んだ。
彼は栞と同じ一年三組の生徒だ。古い家電や電子機器を分解して仕組みを調べるのが好きだったが、これまでは独学で知識を集めているだけだった。
部活動に参加することにも少し抵抗があったものの、栞が丁寧に説明してくれるおかげで、少しずつ自分から質問できるようになっていた。
「栞ちゃん、こっちはどうすればいい?」
明るい声を上げたのは、橘優奈だった。
肩まで伸びた金髪を半分だけまとめ、小さなリボンをつけている。緑色の瞳を輝かせながら、優奈は机の上に置かれたロボットの外装を見つめていた。
「この部分、もう少し可愛くできないかな? せっかくなら、見た目にもこだわりたいんだけど」
「見た目ですか?」
「うん! 機能が大事なのは分かってるけど、見た目も素敵だったら、もっと愛着が湧くと思うの」
優奈は楽しそうに笑った。
彼女も栞と同じ一年三組の生徒で、細かい作業や手作りのものが好きだった。電子工作そのものにはまだ詳しくないものの、デザインや装飾には興味があり、機械にも自分なりの工夫を加えてみたいと考えている。
「なるほど……確かに、外装を工夫するのも楽しそうですね」
「でしょ? 私、こういうのを考えるのが好きなんだ!」
優奈が嬉しそうに笑うと、栞も自然と笑顔になった。
以前の自分なら、部員たちがそれぞれ違うことを言い出したら、どうまとめればいいのか分からず困っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
匠には匠の興味があり、康平には康平の得意なことがあり、優奈には優奈にしかできない工夫がある。
そして、秋山美緒もまた、自分の好きなことを見つけようとしていた。
九条麗華と同じ一年二組のクラスメイトで、電子工学部に最初に入部した生徒だ。
「栞さん、ここの配線って、こういうふうにつないでも大丈夫ですか?」
美緒が小さな回路を手にして尋ねた。
「えっと、そこは……はい、そのつなぎ方で大丈夫です。ただ、電源を入れる前に、もう一度だけ確認しましょう」
「分かりました!」
美緒は真剣な表情で配線を確かめた。
やがて、回路につながったランプが点灯する。
「やった! できました!」
「よかったですね、美緒さん!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その様子を少し離れた場所から眺めていた蓮は、穏やかな表情を浮かべていた。
「水野、ずいぶん頼もしくなったな」
「えっ?」
突然声をかけられ、栞は振り返った。
「最初に会ったときは、誰かと話すだけでも緊張していただろう?」
「そ、それは……今だって緊張しますよ」
「そうなのか?」
「そうです!」
栞は頬を膨らませた。
「でも……前よりは、少しだけ平気になりました」
そう言って、彼女は新しく入った三人と美緒を見つめた。
「みんなが話しかけてくれるから、私も頑張ろうって思えるんです」
「なら、よかった」
蓮は穏やかに微笑んだ。
それ以上、余計なことは言わなかった。
ただ、栞の努力を認めるように笑ってくれた。
それだけで、栞の胸は温かくなった。
やがて、活動時間の終わりが近づいた。
「よし、今日はここまでにしようか」
蓮が時計を確認して声をかけると、部員たちはそれぞれ作業道具を片づけ始めた。
「明日はロボットのセンサーを試すぞ!」
「僕はラジオの部品をもう少し調べてみるよ」
「私は外装のデザインを考えてくるね!」
「私も、今日の回路をもう一度作ってみます!」
匠、康平、優奈、美緒が、それぞれ次の活動について話している。
その声を聞きながら、栞は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
もう、この部室には自分一人しかいないわけではない。
ここには、自分と同じように何かを好きだと思う人たちがいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「みんな、今日はありがとうございました。また明日もよろしくお願いします!」
栞が頭を下げると、四人は笑顔で返事をした。
「こちらこそ、よろしく!」
そうして、新しい部員たちは部室を後にした。
最後に陽菜と麗華も帰り支度を始めたが、二人は扉の前で足を止めた。
「栞ちゃん、本当に頑張ったね」
陽菜が嬉しそうに微笑んだ。
「最初に会ったときと比べると、驚くくらい変わったわね」
麗華も満足そうに頷く。
「そんな……私なんて、まだまだです」
栞は少し照れくさそうに視線を落とした。
「謙遜しなくてもいいのよ。あなたが努力してきたことは、私たちが一番よく知っているもの」
麗華の言葉に、栞は以前から心に引っかかっていたことを思い出した。
「あの……陽菜さん、麗華さん」
「どうしたの?」
「実は、聞いておきたいことがあるんです」
二人は不思議そうに顔を見合わせた。
「このクラブが廃部になりそうだったとき……お二人とも、もし部員が集まらなかったら、自分たちも入部しようって考えてくれていたんですよね?」
陽菜と麗華は一瞬、驚いたような表情を浮かべた。
「蓮くんから聞いたの?」
「はい。少しだけ……」
栞は二人を見つめた。
「私のために、そこまで考えてくれていたんだって知って……すごく嬉しかったです。本当に、ありがとうございました」
「そんなの、気にしなくていいよ。私たちは友達なんだから!」
陽菜は当たり前のことのように答えた。
麗華も静かに頷く。
「ええ。あなたが大切にしている場所なら、私たちだって守りたいと思うわ」
「……はい」
栞は微笑んだ。
けれど、すぐに表情を引き締めた。
「でも、私……それでも、お二人に入部してもらうことは望んでいなかったんです」
「栞ちゃん……?」
陽菜が不思議そうに首を傾げた。
「誤解しないでください。お二人が私を可哀想だと思っていたなんて、少しも考えていません。そんな理由じゃないって、ちゃんと分かっています」
栞は言葉を選びながら続けた。
「ただ……私は、自分で変わりたかったんです」
自分の気持ちを口にするのは、今でも少し勇気が必要だった。
それでも、きちんと伝えたかった。
「ずっと、人と話すのが苦手でした。友達が欲しくても、どうやって話しかければいいのか分からなくて……失敗するのが怖くて、何もしないまま諦めてしまうこともありました」
栞は自分の手を見つめた。
「でも、今回は違いました。自分から声をかけて、電子工学部のことを知ってもらって、新しい部員を集めることができました。だから……自分の力で、ここを守りたかったんです」
少しだけ、声が震えた。
けれど、栞は最後まで言葉を続けた。
「みなさんに助けてもらうばかりじゃなくて、自分自身も変わりたかったんです」
陽菜はしばらく栞を見つめていたが、やがて柔らかく笑った。
「うん。栞ちゃんらしいね」
「えっ……?」
「私たちが入部していたら、それはそれで楽しかったと思うよ。でも、栞ちゃんが自分で頑張りたいって思っていたことも、すごく大切だと思う」
陽菜は栞の手をそっと握った。
「だから、これからも頑張ってね。困ったときは、いつでも頼っていいんだから」
「陽菜さん……」
「一人で頑張ることと、一人きりで頑張ることは違うもの」
麗華が穏やかに言葉を添えた。
「あなたは、自分で一歩を踏み出した。そのことに、私たちは誇りを感じているわ」
栞は二人の言葉を胸に刻むように、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
今度は、涙をこらえる必要もなかった。
嬉しかった。
自分の努力を認めてくれる人がいる。
自分の気持ちを理解してくれる友達がいる。
それだけで、これからも頑張れる気がした。
「じゃあ、また明日ね、栞ちゃん!」
「ええ。また明日、栞さん」
「はい! また明日!」
陽菜と麗華が帰ると、部室には蓮と栞だけが残った。
窓から差し込む夕日が、机の上の工具や電子部品を柔らかく照らしている。
栞は片づけを終えると、ふと蓮のほうを向いた。
「西園寺くん」
「ん?」
「あの……もう少しだけ、話してもいいですか?」
「もちろん」
蓮は手を止めて、栞のほうへ向き直った。
栞は一度深呼吸してから、先ほど陽菜と麗華に話したことを、もう一度自分の言葉で伝えた。
「陽菜さんと麗華さん、私が部員を集められなかったら、自分たちも入部するつもりだったそうです」
「ああ。二人とも、本気で考えていたみたいだな」
「はい……」
栞は少しだけ微笑んだ。
「すごく嬉しかったです。でも、私は……二人に入部してもらう前に、自分でできることを全部やってみたかったんです」
「うん」
「誰かに助けてもらうのが嫌だったわけじゃありません。みなさんが私を心配してくれていることも、ちゃんと分かっています」
栞は胸の前で両手を握った。
「ただ、自分が変わるために始めたことだから……最後まで、自分の力で挑戦してみたかったんです」
蓮は静かに頷いた。
「水野は、十分に頑張ったと思うよ」
「……本当ですか?」
「ああ。新しい部員を集めて、みんなに電子工作の楽しさを伝えて、今ではこうして部活をまとめている。簡単にできることじゃない」
蓮は少しだけ笑った。
「俺は、水野が自分で一歩ずつ進んでいくところを見てきたからな」
その言葉に、栞は目を見開いた。
自分の頑張りを、ずっと見ていてくれた。
うまく話せずに落ち込んだときも、誰かに拒絶されて傷ついたときも、勇気を出して話しかけたときも。
蓮は、いつも自分を見ていてくれた。
「……ありがとうございます」
栞は小さく頭を下げた。
「西園寺くんがいてくれたから、私は変わることができました」
「俺だけじゃない。陽菜も麗華も、美緒たちもいるだろ?」
「はい。みんな、大切な友達です」
栞は微笑んだ。
それから、ほんの少しだけ迷ったあと、再び口を開いた。
「あの……西園寺くん」
「どうした?」
「ひとつ、お願いしてもいいですか?」
「俺にできることなら」
栞は頬を赤くしながら、蓮の顔を見上げた。
「これから……私のことを『栞』って呼んでもらえませんか?」
蓮は少し驚いたように瞬きをした。
「栞?」
「は、はい……!」
自分の名前が彼の口から聞こえただけで、心臓が大きく跳ねた。
栞は慌てて言葉を続ける。
「もちろん、急に距離を縮めたいとか、そういう意味だけじゃなくて……でも、私は西園寺くんと、もっと仲良くなりたいんです。だから、苗字じゃなくて名前で呼んでもらえたら……嬉しいなって」
最後のほうは、声が小さくなってしまった。
それでも、伝えることはできた。
蓮は栞の表情を見て、優しく微笑んだ。
「もちろん、栞」
「……っ!」
栞は思わず両手で口元を覆った。
顔が熱い。
たった二文字の名前なのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
「ど、どうして、そんなに自然に呼べるんですか……」
「え? 呼んでほしいって言ったのは栞だろ?」
「そ、そうですけど……!」
蓮は不思議そうに首を傾げた。
その様子がおかしくて、栞は少しだけ笑ってしまう。
やっぱり、この人はずるい。
自分ばかりが緊張しているようで、少し悔しかった。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、もっと近くにいたいと思ってしまう。
栞は胸の高鳴りを落ち着かせるように深呼吸した。
そして、もうひとつのお願いを口にする。
「それから……私も、蓮くんって呼んでもいいですか?」
今度は、蓮が少しだけ目を丸くした。
「俺のことも?」
「はい……。あのとき、思わずそう呼んでしまったことがあって……」
栞は以前、傷ついた気持ちを抑えられず、彼の名前を口にしてしまったことを思い出した。
あのときは必死だった。
自分でも、どうしてそんな呼び方をしたのか分からなかった。
けれど、今は違う。
自分の意思で、彼を名前で呼びたいと思っている。
「……蓮くんって呼ぶの、私にとっては大切なことなんです」
栞はまっすぐに蓮を見つめた。
「だから……呼んでもいいですか?」
蓮は一瞬だけ考えるように視線を上げたあと、穏やかに笑った。
「もちろん。許可なんていらないよ。栞が呼びたいように呼んでくれればいい」
「……ありがとうございます」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
そして、少し恥ずかしそうに、けれどはっきりと口にする。
「……蓮くん」
「うん?」
「これからも、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ、よろしくな、栞」
夕暮れの部室に、二人の穏やかな声が響いた。
それは、これまでと何も変わらない会話のようでいて、栞にとっては特別な瞬間だった。
苗字ではなく、名前で呼び合う。
ほんの少しだけ、二人の距離が近づいた。
それだけで、明日が今まで以上に楽しみになった。
栞は部室を見回した。
机の上には、今日使った工具や部品が並んでいる。
棚には、みんなで作った小さなロボットが置かれていた。
そして、明日になれば、匠も康平も優奈も美緒も、またここへやって来る。
新しい部員たちと一緒に、どんなものを作ろう。
どんなことを学ぼう。
これから、どんな思い出が増えていくのだろう。
考えるだけで、胸が弾んだ。
かつての栞にとって、電子工学部は誰にも気を遣わず、自分の好きなものに没頭できる唯一の場所だった。
けれど、今は違う。
ここには、自分の話を聞いてくれる人がいる。
一緒に笑ってくれる友達がいる。
そして、名前を呼ぶだけで嬉しくなる、大切な人がいる。
もう、この場所は一人きりで閉じこもるための場所ではない。
誰かと一緒に成長し、喜びを分かち合える場所になったのだ。
「……明日も、頑張ろう」
栞が小さく呟く。
「そうだな」
蓮は笑顔で頷いた。
二人は並んで部室を出た。
扉が閉まる直前、栞はもう一度だけ振り返った。
夕日に照らされた部室は、いつもより少し温かく見えた。
ここが、自分の居場所。
自分が自分らしくいられる、大切な場所。
そして、これからも守っていきたい場所。
栞は小さく微笑み、蓮の隣を歩き始めた。
新しい友達と、新しい目標。
そして、少しだけ近づいた大切な人との距離。
彼女の物語は、これからも続いていく。
けれど、もう以前のように、未来を怖がる必要はなかった。
自分の一歩が、誰かとのつながりを生み出すことを知ったから。
そして何より、自分には帰ってこられる場所があるのだから。
電子工学部で始まった、小さな変化。
それはいつしか、栞の世界を大きく変えるものになっていた。




