↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/56

居場所と呼びたい人

 電子工学部の廃部が取り消されてから、一週間が経った。


 放課後の部室には、以前よりも賑やかな声が響いていた。


「えっと……まずは、この部品をここにつなげてみてください」


「こうかな?」


「はい! あっ、でも、向きが反対なので……こっちに直すと大丈夫です」


 栞は机を囲む一年生たちに説明しながら、手元の回路を指差した。


 以前の彼女なら、誰かに話しかけるだけでも緊張していた。相手の表情を気にしすぎて、言いたいことがうまく言葉にならないことも多かった。


 けれど、今は違う。


 まだ少し緊張することはあっても、自分から声をかけ、分からないことを教え、相手の質問にも答えられるようになっていた。


「おおっ、光った!」


 小さなランプが点灯すると、藤沢匠が嬉しそうに声を上げた。


 短めの焦げ茶色の髪を少し乱しながら、匠は回路を興味深そうに眺めている。


「簡単な回路なのに、本当に動くんだな。これをもっと複雑にしたら、いろんなことができるんじゃないか?」


「はい! 部品を増やしたり、センサーを組み合わせたりすれば、できることも増えていきます」


「へえ……! それは面白そうだ!」


 匠は目を輝かせた。


 彼は蓮と陽菜のクラスである一年一組の生徒だ。好奇心が強く、興味を持ったことにはすぐに挑戦したくなる性格をしている。


 電子工学部のポスターを見て興味を持ち、見学に来たときにロボットの動きを見て入部を決めた。


「じゃあ、俺は前に話したライントレースロボットを作ってみたいな。床に引いた線に沿って走るやつ!」


「いいですね! センサーを使えば実現できますよ」


「よし、決まりだ!」


 匠は勢いよく頷いた。


 その隣では、中村康平が古いラジオを慎重に分解していた。


 短い黒髪に、落ち着いた茶色の瞳。匠とは対照的に物静かで、何かを始める前にはじっくり考えるタイプだった。


「水野さん。この部品って、まだ使えるのかな?」


「どれですか?」


「ここにある、小さな部品なんだけど……」


 栞が覗き込むと、康平は取り外した部品を指差した。


「ああ、それなら状態を確認してからですね。見た目だけでは分からないこともあるので、テスターで測ってみましょう」


「なるほど。そういう道具も使うんだね」


「はい。よかったら、一緒にやってみますか?」


「うん。ぜひ教えてほしい」


 康平は穏やかに微笑んだ。


 彼は栞と同じ一年三組の生徒だ。古い家電や電子機器を分解して仕組みを調べるのが好きだったが、これまでは独学で知識を集めているだけだった。


 部活動に参加することにも少し抵抗があったものの、栞が丁寧に説明してくれるおかげで、少しずつ自分から質問できるようになっていた。


「栞ちゃん、こっちはどうすればいい?」


 明るい声を上げたのは、橘優奈だった。


 肩まで伸びた金髪を半分だけまとめ、小さなリボンをつけている。緑色の瞳を輝かせながら、優奈は机の上に置かれたロボットの外装を見つめていた。


「この部分、もう少し可愛くできないかな? せっかくなら、見た目にもこだわりたいんだけど」


「見た目ですか?」


「うん! 機能が大事なのは分かってるけど、見た目も素敵だったら、もっと愛着が湧くと思うの」


 優奈は楽しそうに笑った。


 彼女も栞と同じ一年三組の生徒で、細かい作業や手作りのものが好きだった。電子工作そのものにはまだ詳しくないものの、デザインや装飾には興味があり、機械にも自分なりの工夫を加えてみたいと考えている。


「なるほど……確かに、外装を工夫するのも楽しそうですね」


「でしょ? 私、こういうのを考えるのが好きなんだ!」


 優奈が嬉しそうに笑うと、栞も自然と笑顔になった。


 以前の自分なら、部員たちがそれぞれ違うことを言い出したら、どうまとめればいいのか分からず困っていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 匠には匠の興味があり、康平には康平の得意なことがあり、優奈には優奈にしかできない工夫がある。


 そして、秋山美緒もまた、自分の好きなことを見つけようとしていた。


 九条麗華と同じ一年二組のクラスメイトで、電子工学部に最初に入部した生徒だ。


「栞さん、ここの配線って、こういうふうにつないでも大丈夫ですか?」


 美緒が小さな回路を手にして尋ねた。


「えっと、そこは……はい、そのつなぎ方で大丈夫です。ただ、電源を入れる前に、もう一度だけ確認しましょう」


「分かりました!」


 美緒は真剣な表情で配線を確かめた。


 やがて、回路につながったランプが点灯する。


「やった! できました!」


「よかったですね、美緒さん!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 その様子を少し離れた場所から眺めていた蓮は、穏やかな表情を浮かべていた。


「水野、ずいぶん頼もしくなったな」


「えっ?」


 突然声をかけられ、栞は振り返った。


「最初に会ったときは、誰かと話すだけでも緊張していただろう?」


「そ、それは……今だって緊張しますよ」


「そうなのか?」


「そうです!」


 栞は頬を膨らませた。


「でも……前よりは、少しだけ平気になりました」


 そう言って、彼女は新しく入った三人と美緒を見つめた。


「みんなが話しかけてくれるから、私も頑張ろうって思えるんです」


「なら、よかった」


 蓮は穏やかに微笑んだ。


 それ以上、余計なことは言わなかった。


 ただ、栞の努力を認めるように笑ってくれた。


 それだけで、栞の胸は温かくなった。


 やがて、活動時間の終わりが近づいた。


「よし、今日はここまでにしようか」


 蓮が時計を確認して声をかけると、部員たちはそれぞれ作業道具を片づけ始めた。


「明日はロボットのセンサーを試すぞ!」


「僕はラジオの部品をもう少し調べてみるよ」


「私は外装のデザインを考えてくるね!」


「私も、今日の回路をもう一度作ってみます!」


 匠、康平、優奈、美緒が、それぞれ次の活動について話している。


 その声を聞きながら、栞は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


 もう、この部室には自分一人しかいないわけではない。


 ここには、自分と同じように何かを好きだと思う人たちがいる。


 そのことが、たまらなく嬉しかった。


「みんな、今日はありがとうございました。また明日もよろしくお願いします!」


 栞が頭を下げると、四人は笑顔で返事をした。


「こちらこそ、よろしく!」


 そうして、新しい部員たちは部室を後にした。


 最後に陽菜と麗華も帰り支度を始めたが、二人は扉の前で足を止めた。


「栞ちゃん、本当に頑張ったね」


 陽菜が嬉しそうに微笑んだ。


「最初に会ったときと比べると、驚くくらい変わったわね」


 麗華も満足そうに頷く。


「そんな……私なんて、まだまだです」


 栞は少し照れくさそうに視線を落とした。


「謙遜しなくてもいいのよ。あなたが努力してきたことは、私たちが一番よく知っているもの」


 麗華の言葉に、栞は以前から心に引っかかっていたことを思い出した。


「あの……陽菜さん、麗華さん」


「どうしたの?」


「実は、聞いておきたいことがあるんです」


 二人は不思議そうに顔を見合わせた。


「このクラブが廃部になりそうだったとき……お二人とも、もし部員が集まらなかったら、自分たちも入部しようって考えてくれていたんですよね?」


 陽菜と麗華は一瞬、驚いたような表情を浮かべた。


「蓮くんから聞いたの?」


「はい。少しだけ……」


 栞は二人を見つめた。


「私のために、そこまで考えてくれていたんだって知って……すごく嬉しかったです。本当に、ありがとうございました」


「そんなの、気にしなくていいよ。私たちは友達なんだから!」


 陽菜は当たり前のことのように答えた。


 麗華も静かに頷く。


「ええ。あなたが大切にしている場所なら、私たちだって守りたいと思うわ」


「……はい」


 栞は微笑んだ。


 けれど、すぐに表情を引き締めた。


「でも、私……それでも、お二人に入部してもらうことは望んでいなかったんです」


「栞ちゃん……?」


 陽菜が不思議そうに首を傾げた。


「誤解しないでください。お二人が私を可哀想だと思っていたなんて、少しも考えていません。そんな理由じゃないって、ちゃんと分かっています」


 栞は言葉を選びながら続けた。


「ただ……私は、自分で変わりたかったんです」


 自分の気持ちを口にするのは、今でも少し勇気が必要だった。


 それでも、きちんと伝えたかった。


「ずっと、人と話すのが苦手でした。友達が欲しくても、どうやって話しかければいいのか分からなくて……失敗するのが怖くて、何もしないまま諦めてしまうこともありました」


 栞は自分の手を見つめた。


「でも、今回は違いました。自分から声をかけて、電子工学部のことを知ってもらって、新しい部員を集めることができました。だから……自分の力で、ここを守りたかったんです」


 少しだけ、声が震えた。


 けれど、栞は最後まで言葉を続けた。


「みなさんに助けてもらうばかりじゃなくて、自分自身も変わりたかったんです」


 陽菜はしばらく栞を見つめていたが、やがて柔らかく笑った。


「うん。栞ちゃんらしいね」


「えっ……?」


「私たちが入部していたら、それはそれで楽しかったと思うよ。でも、栞ちゃんが自分で頑張りたいって思っていたことも、すごく大切だと思う」


 陽菜は栞の手をそっと握った。


「だから、これからも頑張ってね。困ったときは、いつでも頼っていいんだから」


「陽菜さん……」


「一人で頑張ることと、一人きりで頑張ることは違うもの」


 麗華が穏やかに言葉を添えた。


「あなたは、自分で一歩を踏み出した。そのことに、私たちは誇りを感じているわ」


 栞は二人の言葉を胸に刻むように、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 今度は、涙をこらえる必要もなかった。


 嬉しかった。


 自分の努力を認めてくれる人がいる。


 自分の気持ちを理解してくれる友達がいる。


 それだけで、これからも頑張れる気がした。


「じゃあ、また明日ね、栞ちゃん!」


「ええ。また明日、栞さん」


「はい! また明日!」


 陽菜と麗華が帰ると、部室には蓮と栞だけが残った。


 窓から差し込む夕日が、机の上の工具や電子部品を柔らかく照らしている。


 栞は片づけを終えると、ふと蓮のほうを向いた。


「西園寺くん」


「ん?」


「あの……もう少しだけ、話してもいいですか?」


「もちろん」


 蓮は手を止めて、栞のほうへ向き直った。


 栞は一度深呼吸してから、先ほど陽菜と麗華に話したことを、もう一度自分の言葉で伝えた。


「陽菜さんと麗華さん、私が部員を集められなかったら、自分たちも入部するつもりだったそうです」


「ああ。二人とも、本気で考えていたみたいだな」


「はい……」


 栞は少しだけ微笑んだ。


「すごく嬉しかったです。でも、私は……二人に入部してもらう前に、自分でできることを全部やってみたかったんです」


「うん」


「誰かに助けてもらうのが嫌だったわけじゃありません。みなさんが私を心配してくれていることも、ちゃんと分かっています」


 栞は胸の前で両手を握った。


「ただ、自分が変わるために始めたことだから……最後まで、自分の力で挑戦してみたかったんです」


 蓮は静かに頷いた。


「水野は、十分に頑張ったと思うよ」


「……本当ですか?」


「ああ。新しい部員を集めて、みんなに電子工作の楽しさを伝えて、今ではこうして部活をまとめている。簡単にできることじゃない」


 蓮は少しだけ笑った。


「俺は、水野が自分で一歩ずつ進んでいくところを見てきたからな」


 その言葉に、栞は目を見開いた。


 自分の頑張りを、ずっと見ていてくれた。


 うまく話せずに落ち込んだときも、誰かに拒絶されて傷ついたときも、勇気を出して話しかけたときも。


 蓮は、いつも自分を見ていてくれた。


「……ありがとうございます」


 栞は小さく頭を下げた。


「西園寺くんがいてくれたから、私は変わることができました」


「俺だけじゃない。陽菜も麗華も、美緒たちもいるだろ?」


「はい。みんな、大切な友達です」


 栞は微笑んだ。


 それから、ほんの少しだけ迷ったあと、再び口を開いた。


「あの……西園寺くん」


「どうした?」


「ひとつ、お願いしてもいいですか?」


「俺にできることなら」


 栞は頬を赤くしながら、蓮の顔を見上げた。


「これから……私のことを『栞』って呼んでもらえませんか?」


 蓮は少し驚いたように瞬きをした。


「栞?」


「は、はい……!」


 自分の名前が彼の口から聞こえただけで、心臓が大きく跳ねた。


 栞は慌てて言葉を続ける。


「もちろん、急に距離を縮めたいとか、そういう意味だけじゃなくて……でも、私は西園寺くんと、もっと仲良くなりたいんです。だから、苗字じゃなくて名前で呼んでもらえたら……嬉しいなって」


 最後のほうは、声が小さくなってしまった。


 それでも、伝えることはできた。


 蓮は栞の表情を見て、優しく微笑んだ。


「もちろん、栞」


「……っ!」


 栞は思わず両手で口元を覆った。


 顔が熱い。


 たった二文字の名前なのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。


「ど、どうして、そんなに自然に呼べるんですか……」


「え? 呼んでほしいって言ったのは栞だろ?」


「そ、そうですけど……!」


 蓮は不思議そうに首を傾げた。


 その様子がおかしくて、栞は少しだけ笑ってしまう。


 やっぱり、この人はずるい。


 自分ばかりが緊張しているようで、少し悔しかった。


 けれど、嫌ではなかった。


 むしろ、もっと近くにいたいと思ってしまう。


 栞は胸の高鳴りを落ち着かせるように深呼吸した。


 そして、もうひとつのお願いを口にする。


「それから……私も、蓮くんって呼んでもいいですか?」


 今度は、蓮が少しだけ目を丸くした。


「俺のことも?」


「はい……。あのとき、思わずそう呼んでしまったことがあって……」


 栞は以前、傷ついた気持ちを抑えられず、彼の名前を口にしてしまったことを思い出した。


 あのときは必死だった。


 自分でも、どうしてそんな呼び方をしたのか分からなかった。


 けれど、今は違う。


 自分の意思で、彼を名前で呼びたいと思っている。


「……蓮くんって呼ぶの、私にとっては大切なことなんです」


 栞はまっすぐに蓮を見つめた。


「だから……呼んでもいいですか?」


 蓮は一瞬だけ考えるように視線を上げたあと、穏やかに笑った。


「もちろん。許可なんていらないよ。栞が呼びたいように呼んでくれればいい」


「……ありがとうございます」


 栞は嬉しそうに微笑んだ。


 そして、少し恥ずかしそうに、けれどはっきりと口にする。


「……蓮くん」


「うん?」


「これからも、よろしくお願いします」


「ああ。こちらこそ、よろしくな、栞」


 夕暮れの部室に、二人の穏やかな声が響いた。


 それは、これまでと何も変わらない会話のようでいて、栞にとっては特別な瞬間だった。


 苗字ではなく、名前で呼び合う。


 ほんの少しだけ、二人の距離が近づいた。


 それだけで、明日が今まで以上に楽しみになった。


 栞は部室を見回した。


 机の上には、今日使った工具や部品が並んでいる。


 棚には、みんなで作った小さなロボットが置かれていた。


 そして、明日になれば、匠も康平も優奈も美緒も、またここへやって来る。


 新しい部員たちと一緒に、どんなものを作ろう。


 どんなことを学ぼう。


 これから、どんな思い出が増えていくのだろう。


 考えるだけで、胸が弾んだ。


 かつての栞にとって、電子工学部は誰にも気を遣わず、自分の好きなものに没頭できる唯一の場所だった。


 けれど、今は違う。


 ここには、自分の話を聞いてくれる人がいる。


 一緒に笑ってくれる友達がいる。


 そして、名前を呼ぶだけで嬉しくなる、大切な人がいる。


 もう、この場所は一人きりで閉じこもるための場所ではない。


 誰かと一緒に成長し、喜びを分かち合える場所になったのだ。


「……明日も、頑張ろう」


 栞が小さく呟く。


「そうだな」


 蓮は笑顔で頷いた。


 二人は並んで部室を出た。


 扉が閉まる直前、栞はもう一度だけ振り返った。


 夕日に照らされた部室は、いつもより少し温かく見えた。


 ここが、自分の居場所。


 自分が自分らしくいられる、大切な場所。


 そして、これからも守っていきたい場所。


 栞は小さく微笑み、蓮の隣を歩き始めた。


 新しい友達と、新しい目標。


 そして、少しだけ近づいた大切な人との距離。


 彼女の物語は、これからも続いていく。


 けれど、もう以前のように、未来を怖がる必要はなかった。


 自分の一歩が、誰かとのつながりを生み出すことを知ったから。


 そして何より、自分には帰ってこられる場所があるのだから。


 電子工学部で始まった、小さな変化。


 それはいつしか、栞の世界を大きく変えるものになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。