新しい一歩
栞は、電子工学部の部室で一枚の紙を見つめていた。
そこには、初心者向けの活動計画が丁寧にまとめられている。
先日、ロボットに興味を示してくれた女子生徒が、もう一度部室を訪ねてくれることになったのだ。
「水野、準備は順調か?」
隣から声をかけられ、栞は顔を上げた。
「は、はい。前に来てくれた子が、電子工作を初めて体験することになるので……難しいことをいきなり説明するより、簡単なものから始めたほうがいいと思って」
「いい考えじゃない。最初から難しいことを教えられても、困ってしまうものね」
麗華が活動計画に目を通し、感心したように頷いた。
「うんうん! 栞ちゃんが楽しそうに教えてくれたら、きっと相手も楽しくなるよ!」
陽菜も笑顔で応援する。
三人の言葉を聞きながら、栞は少しだけ背筋を伸ばした。
以前の自分なら、誰かに何かを教えるなんて考えただけで緊張していたはずだ。
それでも今は、ほんの少しだけ違う。
自分の好きなものを、誰かと共有してみたい。
そう思えるようになったのは、ここにいる三人のおかげだった。
「……頑張ります」
栞が小さく答えると、蓮は穏やかに頷いた。
「水野なら大丈夫だ。自分の好きなものを、いつもどおり話せばいい」
「西園寺くん……はい!」
栞は胸の前で小さく拳を握った。
そのとき、部室の扉が控えめにノックされた。
「し、失礼します……」
扉の向こうから顔を覗かせたのは、一人の女子生徒だった。
柔らかな栗色の髪は肩まで伸び、毛先が内側に軽くカールしている。眉の少し上で切り揃えられた前髪の右側には、小さな赤い髪留めがあった。琥珀色の瞳が、部室の中を興味深そうに見回している。
彼女は九条麗華と同じクラスの一年生だった。
「秋山さん!」
麗華が声をかけると、少女はほっとしたように表情を緩めた。
「九条さん。ここで合ってたんだね」
「ええ。電子工学部の部室よ。今日は見学に来てくれたの?」
「うん。前にポスターを見て、ちょっと気になってて……それで、この前、ロボットを見せてもらったっていう話を聞いたから」
少女は栞のほうへ視線を向けた。
「水野さん、だよね? 私、秋山美緒っていいます。同じ一年生です。よろしくお願いします!」
「あっ、は、はい! 水野栞です。よろしくお願いします……!」
栞は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
勢いよく頭を下げすぎて、机の端に置いてあった工具箱に肘がぶつかりそうになる。
「わっ……!」
「危ない!」
蓮がとっさに工具箱を押さえた。
「す、すみません!」
「大丈夫だ。工具箱も無事だよ」
「工具箱の心配をされている気がします……」
栞が小さく呟くと、陽菜が思わず吹き出した。
「ふふっ、栞ちゃん、落ち着いて!」
「お、落ち着いてます……!」
そう言いながらも、栞の頬は赤くなっていた。
美緒はそんなやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「なんだか、楽しそうな部活だね」
その言葉に、栞は少し驚いた。
楽しい。
自分にとっては大切な場所だけれど、ほかの人から見てもそう感じてもらえるのだろうか。
「……あ、ありがとうございます。よかったら、こっちに来てください。簡単なロボットを動かしてみましょう」
「本当に? やってみたい!」
美緒は目を輝かせて、栞の隣へ移動した。
栞はロボットを机の上に置き、操作方法を説明する。
「これは、モーターの回転を利用して動く仕組みになっていて……最初は、このスイッチを入れるだけで大丈夫です。細かい仕組みは、動かしてから説明しますね」
「へえ……! じゃあ、押してみてもいい?」
「は、はい!」
美緒がスイッチを押すと、小さなロボットが机の上をゆっくりと進み始めた。
「わっ、動いた!」
「はい! この部分に電気が流れると、モーターが回転して……」
説明を始めた途端、栞の声が少しずつ弾んでいく。
「それで、ここの部品を変えると速度も調整できるんです。あと、センサーを追加すれば、障害物を避けるようにもできて……!」
「すごい! そんなことまでできるんだ!」
美緒は栞の話を真剣に聞いていた。
いつもなら、人と話すときには相手の反応ばかり気にしてしまう。
今、自分の話を聞いてくれている美緒が退屈していないか。変なことを言っていないか。そんな不安が、頭の片隅に浮かぶこともあった。
それでも、美緒は楽しそうに質問を続けてくれた。
「この部品は何に使うの?」
「これは抵抗器です。電流が流れすぎないように調整するためのもので……」
「なるほど! じゃあ、こっちの部品は?」
「それはコンデンサーです。電気を一時的に蓄えたり、回路の状態を安定させたりする働きがあって……」
話しているうちに、栞の緊張は少しずつ薄れていった。
好きなものについてなら、伝えたいことがたくさんある。
そして、それを聞いてくれる人がいる。
そのことが、栞には何より嬉しかった。
やがて、美緒は動き続けるロボットを眺めながら、にっこりと笑った。
「水野さんって、本当に電子工作が好きなんだね」
「えっ……?」
「説明しているとき、すごく楽しそうだったから。私、まだ詳しくないけど、もっと知りたくなっちゃった」
栞は一瞬、言葉を失った。
自分の好きなものが、誰かに伝わった。
それだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
けれど、今度は恥ずかしさだけではなかった。
「もしよかったら、また来てください。簡単な工作もできますし、分からないことがあったら、私に聞いてください」
栞は美緒の目を見て、精一杯の笑顔を浮かべた。
美緒は嬉しそうに頷いた。
「うん! また来るね。今日はありがとう、栞さん!」
「は、はい! 待ってます!」
美緒が帰ったあと、栞はしばらく扉を見つめていた。
「……また来るって、言ってくれました」
「うん! よかったね、栞ちゃん!」
陽菜が嬉しそうに栞の肩を叩く。
「あなたが自分の言葉で、ちゃんと魅力を伝えられたからよ」
麗華も微笑んだ。
「無理に誰かを誘おうとする必要はないの。興味を持った人が、自分から参加したいと思える場所にしていけばいいわ」
「九条さん……陽菜さん……」
栞は二人を見つめたあと、蓮にも視線を向けた。
「西園寺くんも……ありがとうございました」
「俺は何もしていない。頑張ったのは水野だろ」
蓮はいつもどおり、何でもないことのように答えた。
その言葉に、栞の胸が温かくなる。
以前の自分なら、誰かに話しかけることすらできなかった。
それなのに今は、初めて会った相手に自分の好きなものを説明し、また来てほしいと伝えることができた。
ほんの小さな一歩かもしれない。
けれど、栞にとっては大きな変化だった。
それから数日間、美緒は何度も部室を訪れるようになった。
最初はロボットを動かすだけだったが、次第に簡単な回路の組み立てにも挑戦するようになった。
栞は美緒の隣で、ひとつひとつ丁寧に説明した。
「ここは、向きを間違えないように気をつけてください」
「こうかな?」
「そうです! あとは、ここをつなげれば……」
小さなランプが点灯すると、美緒は顔を輝かせた。
「やった! 光った!」
「はい! ちゃんと動きましたね!」
二人は顔を見合わせて笑った。
そんな光景を見ていた陽菜は、嬉しそうに蓮へ囁いた。
「栞ちゃん、すごく変わったね」
「ああ。最初に会ったときより、ずっと自信がついたと思う」
「ふふっ。蓮くんがそばにいてくれたことも、大きいんじゃない?」
「そうなのか?」
蓮は首を傾げた。
「……本当に、そういうところは変わらないんだから」
陽菜は呆れたように笑った。
その隣では、麗華も小さくため息をついていた。
二人の反応がよく分からない蓮は、ただ不思議そうに首を傾げるばかりだった。
そんなある日の放課後。
電子工学部の部室に、生徒会から一枚の書類が届けられた。
部員不足による廃部の検討について、正式に取り消すという通知だった。
「……え?」
書類を受け取った栞は、何度も内容を読み返した。
活動計画が提出され、見学者が継続して訪れるようになったこと。そして、今後も活動を続けられる見込みが立ったこと。
それらが認められ、廃部の手続きは取り消されたのだ。
「こ、これ……本当に……?」
「本当よ、栞ちゃん!」
陽菜が書類を覗き込み、満面の笑みを浮かべた。
「やったじゃない!」
「よかったわね、水野さん」
麗華も穏やかな声で祝福する。
美緒も嬉しそうに手を叩いた。
「これで、これからもここで活動できるんだね!」
栞は書類を胸元でぎゅっと握りしめた。
ずっと守りたかった場所。
誰にも気を遣わず、自分の好きなものに夢中になれる場所。
もう失ってしまうかもしれないと思っていた場所が、これからも残る。
「……ありがとうございます」
栞は顔を上げた。
「皆さんが一緒に頑張ってくれたから、ここまで来られました。私一人だったら、きっと途中で諦めていたと思います」
「私たちは友達でしょ? 当然だよ!」
陽菜が笑顔で答えた。
「それに、私たちもこの部室が好きになったもの」
麗華もそう言って頷く。
美緒も元気よく手を挙げた。
「私も、もっと電子工作を覚えたい! これからもよろしくお願いします!」
「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
栞は深く頭を下げた。
目の奥が熱くなったけれど、今度は涙をこらえようとは思わなかった。
嬉しいときには、嬉しいと言っていい。
誰かに頼ってもいい。
自分の好きなものを、誰かと一緒に楽しんでもいい。
ここにいるみんなが、それを教えてくれたのだから。
夕方。
陽菜と麗華、美緒が帰ったあと、部室には蓮と栞だけが残っていた。
窓から差し込む夕日が、机の上の工具や電子部品を柔らかく照らしている。
栞は片づけを終えると、ふと蓮のほうを向いた。
「西園寺くん」
「ん?」
「あの……これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ。これからも頑張ろう、水野」
いつもと変わらない、穏やかな返事だった。
それなのに、栞は胸の奥が温かくなるのを感じた。
この人と出会えてよかった。
この人が自分のことを友達だと言ってくれて、そばにいてくれたから、少しずつ変わることができた。
そして今は、もっと一緒にいたいと思っている。
その気持ちが何なのか、栞にはまだはっきり分からなかった。
けれど、無理に答えを出す必要はない。
焦らずに、少しずつ進めばいい。
栞は部室を見回した。
ここは、自分が好きなものを好きだと言える場所。
失いたくない、大切な居場所。
そして、そこには大切な友達がいる。
「……明日も、頑張ろう」
小さく呟いた栞の声に、蓮が笑顔で頷いた。
「そうだな」
夕暮れの部室に、二人の穏やかな声が響いた。
栞の新しい一歩は、まだ始まったばかりだった。




