好きなものを伝える勇気
放課後、電子工学部の部室はいつもより賑やかだった。
机の上には小型ロボットや電子基板、工具、配線などが並べられている。栞は新入部員を勧誘するための展示に向けて、必要なものを一つずつ確認していた。
陽菜は入口付近にポスターを貼り、麗華は活動内容をまとめた資料を確認している。そして蓮は、以前四人で組み立てた小型ロボットの動作を確かめていた。
「よし! これで完成!」
陽菜は貼り終えたポスターから数歩離れ、満足そうに頷いた。
「……少し曲がっているわよ」
麗華が冷静に指摘する。
「えっ!?」
陽菜は慌ててポスターに近づき、左右から眺め始めた。
「曲がってないよ! これは目を引くための芸術的な配置なの!」
「そういうことにしておくわ。ほかのポスターまで芸術的になっていないといいのだけれど」
「麗華、もっと芸術を理解する心を持とうよ!」
「あなたはもう少し、正確に貼る心を持ちなさい」
二人のやり取りを見て、栞は思わず笑みをこぼした。
以前の自分なら、こういう会話を遠くから眺めるだけだっただろう。
何を話せばいいのか分からず、どうやって輪の中に入ればいいのかも分からなかった。
けれど、今は違う。
こうして一緒に笑えることが、素直に嬉しかった。
しかし、机の上に置かれた小型ロボットに目を向けると、栞の表情は少しずつ曇っていった。
「……どうしたんだ、水野?」
ロボットの動作確認を終えた蓮が、栞の様子に気づいて声をかけた。
「い、いえ。明日の展示のことを考えていただけです」
「展示?」
「はい。もし誰も興味を持ってくれなかったら、今までの努力が無駄になってしまうんじゃないかって……」
栞は視線を落とした。
蓮は手に持っていたドライバーを机に置いた。
「入部してくれる人が必ずいるとは限らない。でも、だからといって、俺たちが何もしない理由にはならないだろ?」
「それは……そうですけど」
「少なくとも、興味を持ってもらえるように工夫することはできる。何を伝えるかも、どう見せるかも、まだ考えられるんじゃないかな」
栞は唇を結んだ。
「……簡単に言いますね」
口にしてから、はっとした。
「す、すみません! 今のは、その……!」
「気にしなくていいよ」
蓮は穏やかに笑った。
「不安なんだろ?」
「……はい」
栞は小さく頷いた。
「また、変な子だと思われたらどうしようって……。せっかく話しかけても、興味がないって言われたら……」
陽菜が栞のそばにやってきて、そっと手を握った。
「栞、最初から完璧にやろうとしなくてもいいんだよ。自分が好きなものを、みんなに見てもらえばいいんだから!」
「でも……また、変だって思われるかもしれません」
栞の声が小さくなる。
以前のように傷つくのは怖かった。
せっかく少しずつ前に進めるようになったのに、また誰かに否定されたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。
そんな不安が、心の奥に残っていた。
麗華は手にしていた資料を閉じた。
「水野さん、こちらを見てくれる?」
栞はゆっくりと顔を上げた。
「私は、あなたが話すのが苦手だからといって、あなた自身に問題があるとは思わないわ」
麗華は落ち着いた声で続けた。
「もちろん、あなたの好きなものに興味を持たない人もいるでしょう。説明が難しくて、すぐには理解できない人もいるかもしれない。でも、それはあなたが悪いということではないのよ」
「……私が悪いわけじゃない?」
「ええ。すべての人に好かれる必要はないもの。大切なのは、あなたが好きなものを一緒に楽しんでくれる人と出会うことではないかしら」
栞は目を見開いた。
好きなものを、一緒に楽しんでくれる人。
そんな人が本当にいるのだろうか。
「……出会えるでしょうか?」
「もちろん!」
陽菜がすぐに答えた。
「だって、私たちも栞の話を聞くのが楽しいもん!」
「陽菜さん……」
「最初は分からないこともあったけど、栞がどれだけ電子工学を好きなのかは伝わってきたよ。だから、もっといろいろ教えてほしいな!」
陽菜は満面の笑みを浮かべた。
「それに、私たちが全部理解できなくても、一緒に楽しむことはできるでしょ?」
「……そうですね」
栞の胸の奥に、温かなものが広がっていく。
蓮も微笑みながら頷いた。
「今回の展示だって、全員を入部させるためのものじゃない。誰か一人でも、これを見て面白そうだと思ってくれたら、それは大きな一歩だと思う」
栞は机の上の小型ロボットに視線を向けた。
自分が何度も失敗しながら、ようやく動かせるようになったロボット。
最初は部品の接続を間違え、思うように動かず、何度もやり直した。
それでも、少しずつ完成に近づいていくのが嬉しかった。
初めて思いどおりに動いたときの喜びは、今でも忘れられない。
自分が伝えたいのは、ただロボットの仕組みだけではない。
自分の手で何かを作り上げる楽しさ。
試行錯誤しながら、少しずつできることが増えていく喜び。
そして、完成したときの達成感。
そういう気持ちを、誰かと共有したかったのだ。
「……もう一度、頑張ってみます」
栞は顔を上げた。
「今度は、私がどれだけ電子工学を好きなのか、ちゃんと伝えられるように」
陽菜が嬉しそうに両手を握った。
「うん! その意気だよ!」
「ふふ。ようやく本来の調子が戻ってきたようね」
麗華も小さく微笑んだ。
「よし、じゃあ明日の準備を進めよう」
蓮の言葉を合図に、四人は再び作業に取りかかった。
「そうだ、陽菜。ポスターをもう一度確認しておいたほうがいいんじゃないか?」
「えっ!? 蓮くんまで曲がってるって言うの!?」
「いや、念のために……」
「絶対に曲がってないからね!」
「……陽菜、今度は本当に少し右にずれているわ」
「麗華まで!?」
陽菜の声が部室に響く。
栞は笑いながら、展示用の資料をまとめた。
明日、どれだけの人が足を止めてくれるかは分からない。
それでも、今度は自分の好きなものを隠さずに話してみよう。
そう思えるようになっていた。
***
翌日。
学校では、各部活動が新入部員を勧誘するための展示を行っていた。
電子工学部の展示スペースには、小型ロボットや電子回路、これまでに制作した作品が並べられている。
栞は机の向こう側に立ち、緊張した面持ちで周囲を見回していた。
陽菜は少し離れた場所で、通りかかる生徒たちに明るく声をかけている。
麗華は活動内容を記した資料を手に、興味を持ってくれた生徒に説明できるよう準備していた。
蓮は展示した装置の動作を確認しながら、栞の様子を見守っている。
しかし、最初のうちは、なかなか足を止めてくれる生徒はいなかった。
電子回路をちらりと見るだけで通り過ぎていく人。
ポスターを読んだあと、友達と話しながら立ち去る人。
興味がありそうに見えても、声をかける前にいなくなってしまう人。
そのたびに、栞の胸は少しずつ重くなった。
「……やっぱり、難しいのかな」
思わず呟いたとき、隣から声がした。
「まだ始まったばかりだろ、水野」
蓮だった。
「……はい」
「焦らなくていいよ。自分のペースでやればいい」
栞は彼を見つめた。
蓮はいつもと変わらない、穏やかな表情をしていた。
それを見ていると、不思議と少しだけ落ち着いた。
「ありがとうございます、西園寺くん」
「どういたしまして」
その何気ないやり取りだけで、栞の胸は温かくなった。
けれど、今は余計なことを考えている場合ではない。
栞は小さく息を吸い、再び前を向いた。
そのとき、一人の男子生徒が展示の前で足を止めた。
「これ、君たちが作ったの?」
彼は机の上の小型ロボットを指差した。
「は、はい!」
栞は驚きながらも、すぐに返事をした。
「へえ。どうやって動いてるんだ?」
その質問を聞いた瞬間、栞の表情が変わった。
電子工学についての質問。
自分が答えられること。
「えっと、このロボットはセンサーで周囲の情報を取得して、それを制御回路に送っているんです。それから、回路が受け取った信号に応じてモーターを動かす仕組みになっていて……」
説明を始めた栞の声に、少しずつ力がこもっていく。
「最初は障害物をうまく避けられなかったんですけど、センサーの位置と制御のタイミングを調整したら、ちゃんと方向を変えられるようになったんです!」
身振りを交えながら説明する栞。
普段の彼女からは想像できないほど、言葉が次々と出てきた。
蓮は少し離れた場所から、その様子を見つめていた。
人と話すことが苦手で、いつも緊張してしまう栞。
しかし、好きなものについて話しているときの彼女は、まるで別人のようだった。
いや、違う。
あれも、栞の一面なのだ。
今まで周囲の人が、それを知る機会を持てなかっただけなのかもしれない。
「すごいな。そんなにいろいろ考えて作ったんだ」
男子生徒が感心したように言った。
「は、はい! もし興味があれば、実際に動かしてみませんか?」
栞は勇気を出して提案した。
男子生徒は少し困ったように笑った。
「いや、俺はこういうの苦手だから。説明してくれてありがとう」
そう言って、彼はその場を離れていった。
栞の笑顔が、ほんの少しだけ曇った。
やっぱり、駄目だったのだろうか。
せっかく説明したのに、興味を持ってもらえなかった。
また、自分の好きなものは誰にも理解してもらえないのだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
しかし、すぐに昨日の蓮の言葉を思い出した。
『誰か一人でも、面白そうだと思ってくれたら、それは大きな一歩だと思う』
栞は小型ロボットを見つめた。
男子生徒は入部しなかった。
それでも、質問には答えられた。
自分の好きなものについて、知らない相手に説明できた。
最後には、自分から実際に動かしてみないかと誘うことまでできた。
「……私、ちゃんと話せた」
小さく呟く。
「うん。すごくよかったと思うよ」
すぐ近くから蓮の声が聞こえた。
「西園寺くん……」
「怖くても、ちゃんと自分から話しかけられただろ。昨日までの水野だったら、声をかける前に迷っていたかもしれない」
栞は目を見開いた。
確かに、以前の自分なら、相手から質問されても緊張してまともに答えられなかったかもしれない。
ましてや、自分から誘うことなどできなかっただろう。
「……ありがとうございます」
栞は頬を赤くしながら、そっと視線を落とした。
その瞬間、昨日のことが頭をよぎる。
泣いてしまった自分。
蓮に抱きしめられたこと。
そして、思わず彼を名前で呼んでしまったこと。
「……っ」
栞は慌てて顔を背けた。
「水野? どうかした?」
「な、何でもありません!」
「そうか?」
蓮は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
栞はほっと胸を撫で下ろした。
同時に、ほんの少しだけ残念な気持ちが胸をよぎったことには、気づかないふりをした。
***
それからも、展示は続いた。
陽菜は持ち前の明るさで生徒たちに声をかけ、麗華は活動内容を分かりやすく説明した。
蓮は装置の不具合がないかを確認しながら、必要に応じて栞を手伝った。
そして栞も、少しずつ自分から話しかけられるようになっていった。
全員が興味を持ってくれるわけではない。
説明を聞いてすぐに立ち去る人もいれば、電子工学は難しそうだと言って諦める人もいた。
それでも、栞は以前ほど落ち込まなくなっていた。
自分の好きなものを伝えること。
興味を持ってくれた人に、できる限り分かりやすく説明すること。
それができるだけでも、十分に意味があると思えるようになっていた。
やがて、展示の終了時間が近づいた頃。
一人の女子生徒が、遠慮がちに声をかけてきた。
「あの……まだ、入部希望者って募集していますか?」
栞は思わず顔を上げた。
「えっ?」
女子生徒は机の上に並んだ作品を見つめていた。
「私、電子機器には少し興味があるんです。でも、自分で作ったことはなくて……。ポスターを見て、ちょっとやってみたいと思ったんです」
一瞬、栞は言葉を失った。
自分の展示を見て、興味を持ってくれた人がいた。
しかも、実際に入部を考えてくれている。
「も、もちろんです!」
思わず大きな声が出た。
女子生徒が少し驚いたように目を瞬かせる。
「あっ、ご、ごめんなさい……!」
栞は慌てて頭を下げた。
しかし、女子生徒は笑顔を浮かべた。
「いえ。よかったです。じゃあ、明日、部活を見学しに来てもいいですか?」
「は、はい! ぜひ来てください!」
栞の顔がぱっと明るくなった。
女子生徒はもう一度笑顔を見せると、見学に来る約束をして帰っていった。
その背中を見送った栞は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……一人」
小さく呟く。
「一人、興味を持ってくれた……!」
陽菜が勢いよく振り返った。
「本当!? やったあ!」
両手を上げて喜ぶ陽菜。
「まだ正式に入部したわけではないけれど、見学に来てくれるのは大きな前進ね」
麗華も嬉しそうに微笑んだ。
蓮は栞のほうを向いた。
「どうだ、水野?」
栞は三人を見つめた。
今まで、ずっと怖かった。
誰も興味を持ってくれなかったらどうしよう。
また、変な子だと思われたらどうしよう。
自分の好きなものを話して、嫌な顔をされたらどうしよう。
そんな不安ばかりが頭の中を占めていた。
でも、実際に行動してみたら、少しだけ違う景色が見えた。
すべてがうまくいったわけではない。
それでも、自分の話を聞いてくれた人がいた。
そして、もう一度話を聞きたいと言ってくれた人もいた。
「……嬉しいです」
栞は胸元に手を当てた。
「本当に、嬉しいです……!」
声が少し震えた。
今度は、悲しみからではなかった。
自分が好きなものを誰かと共有できた喜び。
自分の努力が、少しだけ誰かに届いた喜び。
それらが胸の中で混ざり合い、温かな感情になってあふれていた。
「水野が頑張ったからだよ」
蓮が穏やかに言った。
「俺たちも手伝ったけど、実際に話して、自分の好きなものを伝えたのは水野自身だろ?」
栞は彼を見つめた。
「……はい」
「だから、自分のこともちゃんと褒めてやっていいと思う」
その言葉を聞き、栞は小さく笑った。
「……ありがとうございます、西園寺くん」
今度は、恥ずかしさで視線をそらさなかった。
蓮の笑顔を、まっすぐに見つめることができた。
そして、胸の奥でまた、あの温かな感情が広がっていく。
***
展示が終わり、四人は部室に戻って片づけを始めた。
見学に来てくれる生徒は一人だけかもしれない。
まだ、部活の存続が決まったわけではない。
それでも、昨日までとは違う。
栞は机の上のロボットを丁寧に箱へしまった。
「水野」
蓮に呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「今日はよく頑張ったな。水野が電子工学をどれだけ好きなのか、ちゃんと伝わったと思うよ」
栞は箱を胸に抱きしめた。
「……西園寺くんのおかげです」
「俺は少し手伝っただけだよ。頑張ったのは水野自身だ」
蓮は自然な笑顔で答えた。
「これからも、一緒に頑張ろう」
「……はい!」
栞は大きく頷いた。
もっと伝えたいことがあった。
昨日、話を聞いてくれて嬉しかったこと。
自分のために怒ってくれたことが、どれだけ心強かったか。
そして、今日もそばにいてくれたことが、どれほど嬉しかったか。
けれど、それらをすべて言葉にするには、まだ勇気が足りなかった。
だから、今は一つだけ伝えることにした。
「明日も……一緒に頑張りたいです」
蓮は少しも迷わず頷いた。
「もちろん」
その短い返事が、栞には何より嬉しかった。
二人が部室を出ると、夕方の光が廊下を照らしていた。
栞は蓮の少し後ろを歩きながら、その横顔をそっと見つめた。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
自分の好きなものを知ってほしいし、彼の好きなものについても知りたい。
そして、彼が困っているときには、自分も力になりたい。
まだ、その感情に名前をつけることはできない。
けれど、もう気づき始めていた。
西園寺蓮は、自分にとって特別な存在になりつつある。
電子工学部を救うために、これからも努力していこう。
そう決意する一方で、栞の心にはもう一つの願いが芽生えていた。
部活が存続できたあとも。
この展示が終わったあとも。
彼と一緒にいられる時間が、ずっと続いてほしい。
栞は小さく息を吸い、再び前を向いた。
今はまだ、その願いを口にすることはできない。
それでも、少しずつ前に進んでいけばいい。
自分の好きなものを伝える勇気を得たように。
いつか、自分の心に芽生えたこの気持ちにも、正直になれる日が来るかもしれない。
そんなことを考えながら、栞は蓮の隣を歩き続けた。




