そばにいてほしい人
その夜、栞は自分の部屋でベッドの端に座り、クッションを胸に抱きしめていた。
着替えも済ませ、あとは眠るだけのはずなのに、頬の熱がなかなか引かない。
「……何やってるの、私……!」
栞はクッションに顔を埋めた。
放課後、蓮の前で泣いてしまった。
それだけでも十分恥ずかしいのに、彼の制服を涙で濡らし、ずっと胸に顔を押しつけたまま、今まで誰にも話せなかったことまで打ち明けてしまったのだ。
それなのに、蓮は嫌な顔ひとつしなかった。
最後まで話を聞いてくれた。
無理に泣き止ませようともせず、ただそばにいてくれた。
『俺の前でまで無理をする必要もないよ』
その言葉を思い出した瞬間、栞の心臓がまた大きく跳ねた。
「……西園寺くん」
いつものように、彼の名字を小さく口にする。
けれど、昨日のことを思い出した途端、栞はぴたりと動きを止めた。
「……待って」
目を見開く。
「私……蓮くんって呼んだ!?」
栞は勢いよく起き上がり、クッションを顔に押しつけた。
「な、なんで名前で呼んじゃったの!? しかも、あんなに自然に……!」
これまで、ずっと彼のことを「西園寺くん」と呼んでいた。
友達になってからも、その呼び方は変わらなかった。
彼と話すと緊張してしまう自分にとって、名字で呼ぶことは、ほんの少しだけ距離を保つためのものでもあった。
それなのに、昨日は違った。
泣きながら彼に抱きしめられ、無理をしなくていいと言われたとき。
気づけば、彼の名前が口からこぼれていた。
そして、不思議なことに。
嫌ではなかった。
むしろ、思い出すだけで胸の奥が温かくなる。
「……私、どうしちゃったんだろう」
栞はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
西園寺蓮は友達だ。
電子工学の話を聞いてくれて、部活を救うために協力してくれて、ほかの生徒から悪く言われたときには、自分のために怒ってくれた。
感謝するのは当然だ。
それだけのことなのだから、こんなに意識する必要はない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、蓮の声や心配そうな表情、そして自分を支えてくれた腕の温もりを思い出すたび、胸が落ち着かなくなった。
「……一緒にいると、嬉しいんだよね」
口に出してから、栞は慌ててクッションに顔を埋めた。
「い、今のは違うから……!」
誰もいない部屋で、ひとり言い訳をする。
明日も彼と話したい。
部活の進捗を見せたい。
自分の考えた装置について、もっと知ってほしい。
技術的な話を全部理解してもらえなくても、彼が自分の話を聞いてくれるだけで嬉しかった。
そして、もう一度、あの穏やかな笑顔を見たい。
「……そんなの、変だよ」
栞は寝返りを打ち、枕に顔を押しつけた。
「今日はもう寝る! これ以上考えない!」
そう決めたものの、すぐに眠れるはずもなかった。
目を閉じるたびに、蓮の言葉がよみがえる。
『栞は栞だから』
その言葉を思い出すたび、自然と頬が緩んでしまうのだった。
***
翌朝。
栞はいつもより少し早く登校した。
昨夜は思っていたほど眠れなかった。授業中も、ふとした瞬間に昨日の出来事を思い出してしまい、何度か慌ててノートに視線を戻した。
放課後になれば、電子工学部の活動が待っている。
そう考えると楽しみな一方で、蓮と顔を合わせるのが少し恥ずかしかった。
それでも、部活の準備をしなければならない。
栞は教室で荷物をまとめると、電子工学部の部室へ向かった。
扉を開け、鞄を机の上に置く。
「今日は、資料の確認をして……展示する装置の動作もチェックして……」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、ノートを取り出した。
そのときだった。
「栞!」
聞き慣れた明るい声が響いた。
振り返ると、陽菜が部室に入ってくるところだった。
その隣には麗華もいる。
「ひ、陽菜さん? 九条さん?」
陽菜は栞の前まで来ると、心配そうに顔をのぞき込んだ。
「昨日のこと、蓮から聞いたよ」
栞の手が止まる。
「さ、西園寺くんから……?」
「うん。昨日、何人かの生徒が栞のことをからかっていたんでしょ?」
陽菜の眉がきゅっと寄った。
「大丈夫? 嫌なことを言われたんだよね?」
あまりにも真っすぐな問いかけに、栞はすぐに答えられなかった。
「わ、私は……もう大丈夫です。そんなに大したことじゃ……」
「大したことだよ!」
陽菜は思わず声を上げた。
それから、少し驚いたように口を閉じ、声の調子を落とす。
「……ごめん。でも、友達がそんなことを言われたら、私だって腹が立つよ」
陽菜は頬を膨らませた。
「人と話すのが苦手だからって、友達が少ないからって、馬鹿にしていい理由にはならないもん。それに、栞は部活を残すために、すごく頑張ってるじゃない!」
その言葉に、栞は目を伏せた。
自分が頑張っていることを、誰かがちゃんと見てくれていた。
それだけで、胸が少し温かくなる。
「陽菜の言うとおりよ」
今度は麗華が口を開いた。
いつもどおり落ち着いた声だったが、その瞳にははっきりとした怒りが浮かんでいた。
「人の性格や交友関係を理由に、相手を傷つけるようなことを言うべきではないわ」
麗華は栞をまっすぐに見つめた。
「あなたが恥じる必要なんてない。もし彼らがまた嫌がらせをしたり、部活動の妨害をしたりするようなら、生徒会に相談しましょう。そんなことが、あなたの努力を邪魔する理由になっていいはずがないもの」
栞は二人の顔を交互に見た。
どうして、こんなにも自分のことを心配してくれるのだろう。
「でも……私のせいで、二人に迷惑をかけるわけには……」
「迷惑なんかじゃないよ!」
陽菜は即座に否定した。
それから、少しだけ申し訳なさそうに声を落とした。
「ごめんね。でも……栞が傷ついたって聞いたら、放っておけなかったの」
陽菜はそっと手を伸ばし、机の上に置かれていた栞の手を握った。
「栞。私たち、あなたのことを友達だと思ってるんだよ。だから、心配するのは当たり前でしょ?」
栞の胸が、きゅっと締めつけられた。
友達。
その言葉を聞くたびに、胸の奥が温かくなる。
けれど、麗華が続けて口を開いたことで、栞は再び顔を上げた。
「そうね。あなたが一人で抱え込む必要はないわ」
麗華は少し考えるように間を置き、それから柔らかな表情を浮かべた。
「それと、栞。ひとつお願いがあるのだけれど」
「お、お願い……ですか?」
「ええ。陽菜のことは名前で呼んでいるでしょう? 私のことも、名前で呼んでくれないかしら」
「……えっ?」
栞は目を丸くした。
「れ、麗華さん……って、呼んでもいいんですか?」
「もちろんよ。私たちは友達なのだから」
麗華は迷いなく答えた。
「あなたにそう呼んでもらえたら、私も嬉しいわ」
栞はしばらく言葉を失った。
九条麗華。
成績優秀で、品があって、いつも堂々としている女の子。
そんな彼女が、自分と友達になりたいと思ってくれている。
しかも、自分のほうから名前で呼んでほしいと言ってくれたのだ。
「……わ、分かりました。れ、麗華さん……」
少しぎこちなく名前を口にすると、麗華は満足そうに微笑んだ。
「ええ。それでいいわ」
「やった! これで三人とも名前で呼び合えるね!」
陽菜が嬉しそうに声を弾ませた。
「陽菜、あなたが勝手に決めることではないでしょう」
「えー? だって、麗華もそうしてほしかったんでしょ?」
「そ、それは……そうだけれど」
珍しく麗華が少し言葉に詰まった。
その様子がおかしくて、栞は思わず小さく笑った。
けれど、二人に視線を戻した瞬間、笑顔が少しだけ揺らいだ。
「……それに、栞」
陽菜が優しく声をかける。
「私たちの前では、無理して元気なふりをしなくてもいいんだよ。悲しいときは悲しいって言っていいし、困ったときは頼ってくれていいんだから。友達って、そういうものでしょ?」
栞は唇をきゅっと結んだ。
目の奥が熱くなる。
中学時代、ずっと欲しかったもの。
誰かと仲良くなりたいと思いながら、どうすればいいのか分からなかった。
自分の好きなことを話せば、相手に変な顔をされるのではないかと怖かった。
だから、なるべく目立たないようにしていた。
本当は、誰かに自分の話を聞いてほしかった。
自分の好きなものを、一緒に楽しんでほしかった。
そして今、目の前にいる二人は、そんな自分を受け入れてくれている。
無理に話題を合わせなくてもいい。
いつも笑顔でいなくてもいい。
うまく話せなくても、友達でいてくれる。
「……私……」
栞はうつむいた。
ぽたり、と涙が机の上に落ちた。
「えっ!? し、栞!? どこか痛いの!?」
陽菜が慌てて身を乗り出す。
「ち、違います……!」
栞は急いで涙を拭った。
けれど、次から次へとあふれてくる。
「ただ……嬉しくて……」
声が震えた。
「こんなふうに心配してもらえるのが……友達だからって、言ってもらえるのが……すごく、嬉しいんです……」
陽菜の表情が柔らかくなった。
「……そっか」
彼女は立ち上がると、栞のそばへ回り込み、優しく抱きしめた。
「だったら、泣いてもいいよ」
「ひ、陽菜さん……!」
「友達の特別サービス! ぎゅーってしてあげる!」
「と、特別サービスって……」
栞は戸惑いながらも、そっと陽菜の肩に額を寄せた。
麗華はそんな二人を見て、小さくため息をついた。
「陽菜、何でもかんでも特別サービスにすればいいというものではないでしょう」
「でも、元気が出るでしょ?」
「それは……否定しないけれど」
麗華が少しだけ視線をそらす。
そのやり取りが可笑しくて、栞は涙を浮かべたまま笑った。
麗華も彼女の様子を見て、ふっと表情を和らげた。
「また笑ってくれてよかったわ、栞」
「……ありがとうございます。陽菜さん、麗華さん」
栞は二人を見つめながら、ゆっくりと頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます」
「お礼なんていらないよ!」
陽菜が明るく答える。
「それより、部活を頑張ろう! 新しい部員が入ってくれたら、みんなでお祝いしようね!」
「まだ入部希望者が見つかっていないでしょう?」
麗華が冷静に指摘した。
「だから、今からお祝いの計画を立てておくの!」
「……あなたは本当に前向きね」
「でしょ!」
二人のやり取りに、栞はまた笑った。
部活が存続できるかどうか、まだ分からない。
知らない人に声をかけるのも、相変わらず怖い。
それでも、今は以前ほど不安ではなかった。
自分を信じてくれる友達がいる。
困ったときに手を差し伸べてくれる友達がいる。
そして、そんな自分を否定せず、涙を流すことさえ受け入れてくれた少年がいる。
もう、一人で全部を抱え込む必要はないのだ。
***
陽菜と麗華が準備を始めると、栞も机に戻り、ノートを開いた。
新入部員を勧誘するための展示内容。
ロボットの動作確認。
説明用の資料。
やるべきことは、まだたくさんある。
栞はノートの隅に、展示する予定の作品名を書き込んだ。
そのすぐ下に、何気なく別の名前を書いてしまう。
西園寺蓮。
「…………」
栞は固まった。
昨夜の記憶が、一気によみがえる。
彼に抱きしめられたこと。
涙が止まらなくなったこと。
そして、思わず彼を名前で呼んでしまったこと。
「……だ、駄目!」
栞は慌ててノートを閉じ、周囲を見回した。
幸い、陽菜も麗華もこちらを見ていない。
ほっと息をつく。
それでも、胸の中に浮かんだ笑顔は消えなかった。
蓮に、昨日のことをお礼として伝えたい。
陽菜と麗華が心配してくれたことも話したい。
そして、これからも一緒に部活を頑張りたい。
考えれば考えるほど、彼に伝えたいことが増えていく。
どうして、こんなにも彼のことが気になるのだろう。
どうして、彼が自分をどう思っているのか、知りたくなってしまうのだろう。
栞はノートを胸に抱き、そっと目を伏せた。
まだ、この感情に名前をつけることはできない。
ただ、ひとつだけ分かることがあった。
西園寺蓮は、もう栞にとって、ただの友達ではなくなり始めている。
そして、心の奥では、ひとつの願いが少しずつ大きくなっていた。
――これからも、ずっと彼のそばにいたい。
部室の窓から、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
栞は小さく息を吸い、再びノートを開いた。
今度こそ、部活の準備に集中しよう。
そう思いながらも、彼女の頬には、しばらく消えそうにない笑みが浮かんでいた。




