無理して笑わなくていい
放課後、蓮と栞は二人で電子工学部の部室へ向かっていた。
部室の扉を開けると、まだ誰も来ていなかった。陽菜と麗華はそれぞれ用事があるらしく、今は二人きりだった。
栞は鞄から取り出したファイルを机の上に置いた。
「明日のために、資料を確認しておきますね……」
いつもより小さな声だった。
蓮は扉を閉め、そんな栞の様子を静かに見つめた。
廊下で、彼女の目に涙が浮かんでいたことを覚えている。
あの生徒たちが口にした言葉も、栞がそれを聞いてどれほど傷ついたのかも、蓮には分かっていた。
けれど、彼女がこれまでどんな思いを抱えてきたのかまでは知らない。
「栞」
「は、はい?」
「さっきのあいつらの言葉……気にするな、なんて簡単には言えないけど」
栞の手が止まった。
「……はい」
「ただ、あいつらの言っていることが間違っていると分かっていても、傷つくことはあると思うんだ」
蓮は少しだけ距離を縮めた。
「だから、無理に平気なふりをしなくてもいい」
栞はファイルの端をぎゅっと握った。
「……私は、大丈夫です」
小さな声だった。
まるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
蓮はすぐには返事をしなかった。
「そっか。でも、今ここには俺しかいないからさ。話したくないことまで話す必要はないけど、俺の前でまで無理をする必要もないよ」
その言葉を聞いた瞬間、栞の唇がわずかに震えた。
今まで、ずっと我慢してきた。
中学時代、周囲の会話に入れなかったこと。
話しかけようとしても、何を言えばいいのか分からず、結局何も言えなかったこと。
自分の好きな電子工学の話をすると、相手が困ったような顔をすること。
そのたびに、自分は普通ではないのかもしれないと思った。
だから、なるべく目立たないようにした。
誰かに嫌われないように、変な子だと思われないように。
本当は友達が欲しかったのに、傷つくのが怖くて、自分から距離を取ることさえあった。
そんな自分を変えたくて、今年こそは頑張ろうと思った。
電子工学部を通じて、誰かとつながりたいと思った。
それなのに。
『誰も入りたがらない部活』
『友達もいないくせに』
あの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「……私」
栞の声が震えた。
「私、ただ……」
「栞?」
「ただ、部活を……なくしたくなかっただけなのに……」
ぽたり、と涙が落ちた。
ファイルの表面に、小さな染みができる。
栞は慌てて目元を拭った。
「ご、ごめんなさい。こんなことで泣くつもりじゃ……」
しかし、涙は止まらなかった。
一度こぼれた感情は、もう押し戻せなかった。
「私、ずっと……友達が欲しかったんです……!」
声が裏返る。
「でも、どうやって話しかければいいのか分からなくて……何を話せばいいのかも分からなくて……。みんなが楽しそうに話しているのを見ると、私が入ったら迷惑なんじゃないかって……」
栞は顔を覆った。
「電子工学の話なら、いくらでもできるんです。好きなことだから、話したいことがたくさんあって……でも、みんなには難しいって言われたり、変な顔をされたりして……」
言葉を重ねるたびに、胸の奥にしまい込んでいたものがあふれてくる。
「だから、部活を作れば……同じことが好きな人に会えるかもしれないって思ったんです。誰かと一緒に作ったり、考えたり、失敗して笑ったり……そういうことが、したかったんです……!」
涙で視界がにじんだ。
「でも、誰も来なくて……。せっかく蓮くんや陽菜さん、麗華さんが手伝ってくれているのに、私がちゃんとできなかったら……みんなも嫌になっちゃうんじゃないかって……」
「栞……」
「私、また一人になるのが怖いんです……!」
その瞬間、栞の足から力が抜けた。
倒れそうになった彼女を、蓮は慌てて支えた。
「おっと……!」
栞は蓮の制服をつかんだまま、彼の胸に顔を埋めた。
「うっ……ひっく……!」
もう、止められなかった。
肩を震わせながら、栞は声を上げて泣いた。
蓮は一瞬戸惑ったものの、すぐに彼女の背中へそっと腕を回した。
無理に泣き止ませようとはしなかった。
大丈夫だと繰り返すことも、気にするなと励ますこともしなかった。
ただ、彼女が泣き終わるまで、そこにいることを選んだ。
「……ごめんなさい……」
しばらくして、栞が途切れ途切れに呟いた。
「どうして謝るんだ?」
「だって……制服が……」
「制服?」
蓮は自分の胸元を見た。
栞の涙で、制服の一部が濡れていた。
「……ああ」
「す、すみません……! 私、こんなに泣くつもりじゃ……」
「いいよ。服なら洗えば済むし」
あまりにもあっさりした返事に、栞は顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、蓮を見つめる。
「……蓮くんって、時々ひどいことを言いますね」
「えっ、今のどこが!?」
「私、すごく恥ずかしいんですけど……」
「いや、服の心配をしなくていいって意味だったんだけどな……」
蓮は困ったように頭をかいた。
「……まあ、少しでも笑ってくれたならよかった」
栞は目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
泣き腫らした顔に浮かんだ、かすかな笑顔。
それを見て、蓮もようやくほっとしたように息をついた。
「……蓮くん」
「ん?」
「私、友達ができても……ずっと不安だったんです」
栞はまだ蓮の制服をつかんだまま、ゆっくりと話し始めた。
「私が変なことを言ったら、嫌われるんじゃないかって。電子工学の話ばかりしたら、みんなに飽きられるんじゃないかって……。だから、いつも相手の顔色ばかり気にしていました」
「そっか」
「でも……蓮くんは、私の話を聞いてくれました。難しい話ばかりなのに、途中でやめろって言わなかったし……部活を助けるって言ってくれたし……」
栞は胸元の制服をそっと握り直した。
「それに、今日も……私のために怒ってくれました」
蓮は少し照れくさそうに視線をそらした。
「友達が悪く言われていたら、嫌な気分になるだろ。だから、言っただけだよ」
「……友達」
栞はその言葉を小さく繰り返した。
友達。
自分がずっと欲しかったもの。
ようやく手に入れた、大切なつながり。
「……私、今のままでもいいんでしょうか?」
「今のまま?」
「人と話すのが苦手で、すぐに緊張して……好きなことになると、周りが見えなくなってしまって……。それでも、みんなと一緒にいていいんでしょうか?」
蓮は少しだけ考えた。
そして、迷うことなく答えた。
「もちろん」
「……本当に?」
「うん。栞は栞だから」
栞は目を見開いた。
「君が電子工学を好きなことも、話すのが苦手なことも、全部ひっくるめて栞だろ。無理に別の人間にならなくてもいいと思う」
蓮は穏やかな声で続けた。
「もちろん、苦手なことを少しずつ練習するのはいいことだと思う。でも、それは今の栞を否定するためじゃない。もっと自分の好きなことを楽しんだり、誰かと仲良くなったりするためだろ?」
「……はい」
「だったら、焦らなくていいよ。俺たちもいるんだから」
栞の目に、再び涙が浮かんだ。
けれど、今度の涙は先ほどとは少し違っていた。
苦しくて、悔しくて、どうしようもなかった涙。
それとは違う、胸の奥がじんわりと温かくなるような涙だった。
「……ありがとうございます」
栞はゆっくりと蓮から離れた。
目元をハンカチで押さえ、何度か深呼吸をする。
まだ鼻声だったが、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「……もう、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。……たぶん」
「たぶんか」
「だ、だって……こんなに泣いたの、久しぶりなんですから……!」
栞は恥ずかしそうに頬を赤くした。
蓮は小さく笑った。
「そっか。じゃあ、今日は無理せずに帰ろう。資料の確認は明日でもできるし」
「でも、明日の準備が……」
「みんなでやればいいよ。栞一人で全部抱え込む必要はないんだから」
栞は机の上のファイルを見つめた。
今までなら、迷惑をかけたくなくて、何でも一人でやろうとしていたかもしれない。
けれど、今は違った。
一緒に考えてくれる人がいる。
自分の話を聞いてくれる人がいる。
失敗しても、すぐに見捨てたりしない人がいる。
それが、こんなにも心強いことだなんて知らなかった。
「……蓮くん」
「うん?」
栞は少し迷ったあと、まっすぐ彼を見つめた。
「……出会えてよかったです」
蓮は一瞬きょとんとした。
そして、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「俺も、栞に出会えてよかったよ」
その言葉を聞いた瞬間、栞の胸が大きく跳ねた。
どうしてだろう。
ただ友達に優しくしてもらっただけなのに。
ただ、つらいときにそばにいてくれただけなのに。
彼の言葉が、こんなにも嬉しい。
彼の笑顔を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
彼に、自分の好きなものを知ってほしい。
そして、いつか自分も、彼がつらいときにそばにいられる人になりたい。
そんな気持ちが、栞の中で少しずつ形になり始めていた。
まだ、その感情に名前をつけることはできない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
西園寺蓮という少年は、もう栞にとって、ただの友達ではなくなり始めていた。
「……あの、蓮くん」
「ん?」
「明日も……一緒に部活、頑張りましょうね」
栞は少し照れながら、それでも笑顔で言った。
「もちろん」
蓮が頷く。
その何気ない返事が、栞にはたまらなく嬉しかった。
部室の窓から、夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
まだ部員は少ない。
部活が存続できるかどうかも、確実ではない。
それでも、栞はもう一人ではなかった。
そして彼女の心には、新しい感情が、小さな芽を出し始めていた。




