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彼女のことを悪く言うな

放課後。


俺は図書館に本を返してから、電子工学部の部室へ向かうつもりだった。


陽菜はあとで合流すると言っていたし、麗華は自分の教室で課題を片付けているはずだ。


廊下には、まだ帰宅していない生徒たちの姿があった。


そんな中、階段の近くから男子生徒たちの声が聞こえてきた。


「なあ、あの子のことなんだけどさ」


「電子工学部の水野だろ?」


「そうそう。あいつ、何がしたいんだろうな」


俺は足を止めた。


聞き覚えのある名前だった。


「昨日も勧誘してたけど、見ててちょっと気の毒になったよ」


「どうして?」


「だって、人とまともに話せないんだぜ? こっちが質問しても、目を合わせられないし、声も小さいし。あんな調子で誰が入部するんだよ」


三人の男子生徒が笑った。


「中学の頃から友達がいなかったって話も聞いたぞ」


「だから部員も集まらないんじゃないか?」


「そもそも、自分の友達も作れないのに、どうして他人を部活に誘えるんだろうな」


再び笑い声が響く。


俺は、その場から動けなくなった。


水野栞。


大人しくて、人と話すのが苦手な少女。


けれど、電子工学の話になると、まるで別人のように目を輝かせる。


自分で作ったロボットについて、一生懸命に説明してくれる。


何度失敗しても諦めず、どうすればうまく動くのか考え続ける。


そんな栞の姿を、俺は知っていた。


だからこそ、目の前の会話が許せなかった。


「……おい」


俺は三人に向かって声をかけた。


男子生徒たちが振り返る。


「何だよ?」


「今、水野の話をしていたよな?」


「だったら何だ?」


一人が不機嫌そうに眉をひそめた。


「別に、お前には関係ないだろ」


「関係あるかどうかは、俺が決めることじゃない」


俺は三人をまっすぐ見た。


「ただ、聞いていて気分が悪かった。それだけだ」


「はあ?」


「何がそんなに面白いんだ?」


俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「人と話すのが苦手なことか? 友達が少ないことか? それとも、自分が好きなものを一生懸命に続けていることか?」


三人は顔を見合わせた。


「いや、俺たちは別に……」


「ただの冗談だよ」


「冗談?」


俺は思わず聞き返した。


「本人が聞いたら傷つくと分かっていても、冗談で済ませるのか?」


「そこまで大げさに考えることじゃないだろ」


一人が肩をすくめた。


「そもそも、あいつが勝手に気にするだけじゃないか」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが切り替わった。


「……そうか」


俺は一度、息を吐いた。


「お前たちは、自分が何を言っているのか分かっていないんだな」


「何だと?」


「水野が人と話すのが苦手なのは、お前たちも知っているんだろ?」


三人は黙った。


「それでも、あいつは変わろうとしている。苦手なことから逃げずに、勇気を出して知らない人に話しかけているんだ」


俺は栞の姿を思い浮かべた。


初めて部室で会ったとき、彼女は床に散らばったコードに絡まっていた。


それでも、自分の作った装置について説明し始めると、止まらなくなった。


あのときの彼女は、本当に楽しそうだった。


「俺は、水野が頑張っていることを知っている」


「……」


「それなのに、お前たちは何も知らないまま、勝手にあいつを笑っている」


俺は三人を見据えた。


「自分たちができることを、他人も簡単にできると思うなよ」


一人の男子生徒が、苛立ったように声を上げた。


「だから、何なんだよ! お前、あいつの何なんだ?」


「……友達だ」


俺は迷わず答えた。


三人が一瞬、言葉を失う。


「友達……?」


「そうだ。水野は俺の友達だ」


そのとき、別の男子生徒が俺の顔をじっと見つめた。


そして、突然、表情を変えた。


「……待て。お前、もしかして……」


俺は黙って見返した。


「西園寺蓮……なのか?」


その名前が出た瞬間、残りの二人も驚いたように目を見開いた。


「えっ、西園寺グループの?」


「本当にあの西園寺なのか?」


一人は急に姿勢を正し、もう一人は気まずそうに視線を逸らした。


「……まさか、水野と知り合いだったなんて」


「知らなかったんだ。悪かったよ」


先ほどまでの態度が嘘のように、三人の声が小さくなる。


その様子を見て、俺は眉をひそめた。


「……おい」


「は、はい?」


「今、何を気にしているんだ?」


「いや、その……西園寺家の人間と揉めるのは、さすがに……」


「そういうことか」


俺は小さく息を吐いた。


「だったら、よく聞いてくれ」


三人の目を見ながら、はっきりと言った。


「ここでは、西園寺の名前なんて関係ない」


男子生徒たちが黙り込む。


「友達を守るときに、家柄なんて関係ないんだ」


自分でも、驚くほど自然に言葉が出てきた。


西園寺家の跡取りとして、何かを言ったつもりはない。


ただ、友達を笑いものにする人間を、そのまま見過ごしたくなかった。


「俺が西園寺家の人間だから、態度を変えるのか?」


「そ、それは……」


「もし俺が普通の生徒だったら、今の話を聞いても笑っていたのか?」


誰も答えなかった。


「水野は、電子工学部を残すために必死に頑張っている。自分が苦手なことにも挑戦して、少しずつ前に進もうとしているんだ」


俺は、できるだけ落ち着いて言葉を続けた。


「お前たちは、あいつがどれだけ努力しているのか知っているのか?」


三人は俯いた。


「知らないだろうな」


俺は首を横に振った。


「だったら、勝手に決めつけるな」


一人が、小さな声で反論した。


「でも、本当に人と話すのが苦手なのは事実だろ……」


「だから何だ?」


俺はすぐに答えた。


「人と話すのが苦手だったら、馬鹿にしていいのか? 友達が少なかったら、笑っていいのか?」


男子生徒は口を閉じた。


「人には、それぞれ得意なことも苦手なこともある。お前たちだって、何もかも完璧にできるわけじゃないだろ」


俺は一歩だけ近づいた。


「水野は、苦手だからって何もしないでいるわけじゃない。怖くても、失敗しても、それでも頑張っているんだ」


栞が初めて自分から他の生徒に声をかけたときのことを思い出す。


震える声で挨拶をして、それでも最後まで説明しようとしていた。


あの小さな一歩が、どれほど大きなものだったのか。


少なくとも、俺は知っている。


「俺には、それを笑うことなんてできない」


廊下が静まり返った。


「水野が電子工学部を好きなのは、誰かに認められるためじゃない。あいつ自身が、本当に好きだからだ」


俺は三人を見つめた。


「だから、興味がないなら放っておけばいい。入部したくないなら、そう言えばいい。それだけの話だ」


そして、最後に告げた。


「でも、二度とあいつのことを悪く言うな」


三人はしばらく黙っていた。


やがて、一人が小さく頭を下げた。


「……悪かった」


別の一人も、気まずそうに続ける。


「俺たち、ちょっと調子に乗ってた。もう言わない」


最後の一人も、渋々ながら頷いた。


「……分かったよ」


俺は、彼らの言葉を聞いてから、ゆっくりと息を吐いた。


「ならいい」


それ以上、責めるつもりはなかった。


三人はその場を離れていく。


その背中を見送っていると、不意に背後から小さな声が聞こえた。


「……西園寺くん」


振り返る。


そこには、栞が立っていた。


胸にファイルを抱えたまま、驚いたような顔でこちらを見つめている。


「……水野?」


俺は思わず目を見開いた。


栞は、何も言わなかった。


ただ、俺を見つめていた。


その瞳が、少しずつ潤んでいく。


「……いつから、そこに?」


「……少し前からです」


栞は小さな声で答えた。


「……全部、聞いていました」


そう言って、彼女は視線を落とした。


俺は、さっきの会話を思い返した。


あの三人が栞を傷つけたこと。


そして、自分が彼らに何を言ったのか。


……そうか。


栞は、俺が自分を庇っていたことを、最初から聞いていたのか。


「……そっか」


俺は少しだけ困ったように笑った。


「……聞かせるつもりはなかったんだけどな」


「……どうしてですか?」


栞が顔を上げた。


「どうして……あんなことを言ってくれたんですか?」


その声は、かすかに震えていた。


俺は少し考えてから答えた。


「さっきも言っただろ。水野は俺の友達だから」


「……友達」


栞は、その言葉を繰り返した。


「……私が?」


「うん。ほかに誰がいるんだ?」


冗談めかして答えると、栞は一瞬だけ目を丸くした。


けれど、すぐに俯いてしまった。


「……でも、私……」


何かを言おうとして、口を閉じる。


その指先が、ファイルの端をぎゅっと握りしめた。


「……人と話すのも、上手じゃないですし……」


「知ってるよ」


「……っ」


栞の肩が小さく震えた。


しまった。


言い方を間違えただろうか。


そう思った俺は、慌てて言葉を続けた。


「でも、それがどうしたんだ?」


栞が顔を上げる。


「苦手なことがあるからって、友達になれないわけじゃないだろ?」


「……」


「俺だって、水野のことを全部知っているわけじゃない。だから、これからもっと知っていきたいと思ってる」


栞は何も答えなかった。


ただ、目を見開いたまま俺を見つめていた。


「……だから、あまり一人で抱え込むなよ」


俺はできるだけ優しく笑った。


「何かあったら、いつでも話してくれ」


栞の目から、涙が一筋こぼれた。


「あ……」


彼女は慌てて目元を拭う。


「す、すみません……!」


「えっ? いや、謝らなくていいって」


「で、でも……」


「泣きたいときだってあるだろ」


そう言うと、栞は何度も瞬きをした。


それから、ほんの少しだけ笑った。


「……ありがとうございます」


声はまだ震えていた。


それでも、さっきよりは確かに、温かい響きがあった。


俺は頷いた。


「うん」


そして、部室の方へ視線を向ける。


「ほら、行こう。みんなが待ってる」


「……はい」


俺たちは並んで歩き始めた。


しばらく、会話はなかった。


けれど、気まずさは感じなかった。


栞は何度か俺の方を見て、そのたびに慌てて視線を戻していた。


……何か言いたいことでもあるのだろうか。


そう思ったが、無理に聞くことはしなかった。


やがて、栞が小さな声で口を開いた。


「……西園寺くん」


「ん?」


「……私、頑張ります」


俺は彼女を見た。


「電子工学部を、絶対に残したいです」


栞はファイルを抱え直した。


「まだ、人と話すのは怖いです。今日みたいに、何も言えなくなってしまうこともあると思います」


そこで一度、言葉を切る。


「……でも、もう少しだけ、頑張ってみたいです」


俺は笑って頷いた。


「そうか。じゃあ、俺たちも一緒に頑張ろう」


「……はい!」


今度の返事は、さっきよりも少しだけ大きかった。


その声を聞いて、俺は安心した。


彼女がすぐに変わる必要はない。


人と話すのが苦手でもいい。


失敗してもいい。


少しずつ、自分のペースで前に進めばいい。


俺は、そう思った。


一方、栞は隣を歩く俺をそっと見上げていた。


『ここでは、西園寺の名前なんて関係ない』


『友達を守るときに、家柄なんて関係ないんだ』


その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


西園寺家の跡取りだから。


名門の家に生まれたから。


そんな理由ではなかった。


蓮は、ただ自分のことを友達だと言ってくれた。


そして、自分がいないところでも、悪く言われるのを黙って見過ごさなかった。


(……どうして)


栞は胸元に手を当てた。


(どうして、こんなに嬉しいんだろう……)


胸の奥が、じんわりと温かい。


同時に、少しだけ苦しい。


今まで、誰かにこんなふうに庇ってもらったことはなかった。


自分が傷ついても、何も言わずに我慢するしかないと思っていた。


それなのに、蓮は違った。


彼は、迷わず自分の隣に立ってくれた。


(……西園寺くん)


栞は、心の中で彼の名前を呼んだ。


そして、小さく息を吐いた。


まだ、この気持ちが何なのかは分からない。


けれど、ひとつだけ確かなことがあった。


蓮の言葉は、今日の自分を救ってくれた。


その事実を、きっといつまでも忘れないだろう。


栞はファイルを抱きしめ直し、ほんの少しだけ歩く速度を上げた。


隣にいる彼の背中を、もう少し近くで感じたかったから。


まだ名前のない感情を胸に抱きながら、栞は静かに前を向いた。

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