蓮を知りすぎている幼なじみ
第二話 幼馴染は、誰よりも蓮を知っている
入学初日の朝。
西園寺蓮として学校へ来た俺は、教室の自分の席に座りながら、深く息を吐いた。
……なんとか、ここまでは大丈夫だった。
校門で桜井陽菜と会ったときは、本当に心臓が止まるかと思った。
陽菜は、蓮の幼馴染。
それも、ただの幼馴染ではない。
小さい頃からずっと一緒に過ごしてきたらしく、俺が事前に渡された資料にも、陽菜についてかなり詳しく書かれていた。
好きな食べ物。
苦手なもの。
家族構成。
西園寺家との関係。
そして――蓮との思い出。
それでも、実際に本人と話してみると、紙に書かれた情報だけでは全然足りないことが分かった。
「……やっぱり、難しいな」
俺は小さく呟いた。
その直後。
「何が難しいの?」
「うわっ!」
突然、隣から声がした。
振り向くと、陽菜が俺の顔を覗き込んでいた。
「な、何でもない」
「そう?」
陽菜は首を傾げる。
そして、そのまま俺の隣の席に座った。
「……何してるの?」
「何って、話してるんだけど?」
「いや、なんで俺の隣に……」
「昔からそうだったじゃん」
「昔から?」
「うん」
陽菜は当たり前のように頷いた。
「私、蓮の隣にいること多かったでしょ?」
「……そうなんだ」
「やっぱり覚えてないんだ」
陽菜の表情が少しだけ曇った。
俺は慌てて言葉を探す。
「いや……その……事故の後だから」
「あ……」
陽菜は何かに気づいたような顔をした。
そして、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめん。そうだよね」
「うん」
「頭を強く打ったって聞いてたし……」
その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。
頭を強く打った。
それが、今の俺にとっては都合のいい話だった。
本当の事故のことを、学校では詳しく知られていない。
陽菜も知らない。
蓮が事故で両脚に重傷を負い、現在も歩くことができないという事実も。
その治療が長期に及ぶ可能性があることも。
西園寺家が国内だけでなく海外の治療法まで探していることも。
すべて、家族とごく一部の関係者しか知らない。
学校で知られているのは、
「西園寺蓮が事故に遭い、しばらく学校へ通えなかった」
それだけだった。
そして陽菜は、事故の際に蓮が頭を強く打ったため、記憶や性格に少し変化があるのだと思っているらしい。
……それなら。
今の俺の不自然な言動も、ある程度は説明できる。
「うん……事故のせいで、少し混乱してるのかもしれない」
俺は慎重に答えた。
陽菜は心配そうに俺を見る。
「やっぱり、そうなんだ」
「たぶん」
「無理しないでね」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
陽菜はしばらく俺の顔を見つめていた。
そして、ふっと笑う。
「でも……」
「?」
「前より話しやすくなったかも」
「え?」
「昔の蓮って、もっと無口だったし」
「そうなの?」
「うん。私が何を話しても、『そうだな』とか『別に』とか、そればっかり」
「……」
それは想像できる。
資料にあった蓮の性格も、確かに落ち着いていて、必要以上に自分から話すタイプではなかった。
「でも今は、ちゃんと話してくれる」
陽菜は嬉しそうに笑った。
「だから……私は今の蓮も好きだよ」
「……!」
俺は思わず固まった。
陽菜は自分が何を言ったのか気づいたらしく、頬を少し赤くした。
「……変な意味じゃないからね?」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
俺まで緊張してしまう。
まだ朝なのに、もう疲れてきた。
その後も、陽菜は俺のそばにいた。
休み時間になると、昔の話をしてくる。
「ねえ、覚えてる?」
「何を?」
「小学生の頃、二人で西園寺家の庭から抜け出したこと」
「……」
もちろん知らない。
「……ごめん。やっぱり思い出せない」
「そっか」
陽菜は少し寂しそうに笑った。
けれど、すぐに表情を明るくする。
「じゃあ、私が教えてあげる」
「え?」
「私たちの昔のこと」
陽菜は楽しそうに話し始めた。
子供の頃、二人で庭を走り回ったこと。
蓮が木に登って降りられなくなったこと。
陽菜が勝手に西園寺家の厨房へ入り込んで、二人でお菓子を盗み食いしたこと。
どれも俺の知らない思い出だった。
だけど、話を聞いているうちに、少しずつ楽しくなってきた。
「それでね、蓮ったら――」
陽菜が笑う。
俺も思わず笑った。
「……俺って、意外と子供っぽかったんだな」
「でしょ?」
陽菜が嬉しそうに頷く。
「昔は今よりずっと子供っぽかったよ」
「今の蓮は?」
「今は……」
陽菜は俺を見つめる。
「ちょっと大人になった感じ」
「事故のせいかな」
「うん。たぶんそうだと思う」
陽菜はそう言った。
疑っている様子はない。
むしろ、事故によって何かが変わったのだと納得しているようだった。
俺は少しだけ胸が痛くなった。
違う。
事故のせいじゃない。
俺が蓮じゃないからだ。
だけど、それを言うことはできない。
昼休みになると、陽菜が俺のところへやって来た。
「蓮、お昼行こう」
「どこで食べるの?」
「いつものところ」
「いつもの……?」
陽菜は一瞬きょとんとした。
「……あ」
俺はしまったと思った。
「ごめん」
陽菜はすぐに納得した。
「そっか。まだ思い出せないんだよね」
「うん」
「じゃあ、今日は私が案内する」
そう言って陽菜は俺を連れて教室を出た。
向かったのは、校舎の少し奥にある静かな中庭だった。
人が少なく、木々に囲まれた場所。
陽菜はベンチに座る。
「ここ」
「ここで食べてたの?」
「うん。昔からね」
「へえ……」
俺も隣に座った。
陽菜は弁当を開く。
「はい」
「え?」
陽菜が小さなおかずを俺に差し出してきた。
「食べる?」
「いや、いいよ」
「昔は食べてたじゃん」
「……そうなの?」
「そうだよ」
俺は少し迷ってから受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
おかずを食べる。
普通に美味しい。
「美味しい?」
「うん」
「よかった」
陽菜は嬉しそうに笑った。
そして、しばらく二人で食事をした。
会話は、特別なものではなかった。
学校のこと。
先生のこと。
昔のこと。
最近見たテレビのこと。
そんな何気ない話ばかりだった。
でも、不思議と居心地がよかった。
俺は今まで、陽菜と会ったことがない。
それなのに、こうして話していると、昔から知っているような感覚になってくる。
……いや。
正確には、俺が知っているわけじゃない。
陽菜が、俺に蓮のことを教えてくれているのだ。
昼食が終わる頃、陽菜の表情が少しだけ変わった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「事故のこと……怖かった?」
俺は答えに迷った。
「……怖かったと思う」
本当の俺が経験した事故ではない。
でも、蓮本人にとっては間違いなく怖い出来事だったはずだ。
「そうだよね」
陽菜は俯いた。
「私も……怖かった」
「陽菜が?」
「うん」
少しだけ沈黙が流れる。
「事故に遭ったって聞いたとき、何が起きたのか分からなくて……」
陽菜は自分の手をぎゅっと握った。
「蓮がもう学校に来られないかもしれないって思った」
俺は何も言えなかった。
「だから、今日来てくれて……本当に嬉しかった」
陽菜は顔を上げる。
そして、いつもの明るい笑顔を見せた。
「おかえり、蓮」
その言葉が胸に刺さった。
俺は本物の蓮ではない。
それなのに。
この少女は、俺を見て安心している。
「……ただいま」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
陽菜は嬉しそうに笑った。
「うん」
それだけだった。
昼休みが終わり、二人で教室へ戻る。
廊下を歩きながら、俺は考えていた。
陽菜は俺を疑っているわけではない。
事故によって蓮の性格や記憶に多少の変化が起きた。
今は、そう考えている。
だから俺の不自然な部分も、なんとか受け入れてくれている。
でも――
「この子、本当に蓮のことをよく知ってるな……」
俺が小さく呟くと、陽菜が振り返った。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
陽菜は少し笑った。
「変なの」
そう言って、また前を向く。
その横顔を見ながら、俺は思った。
これからも、きっとたくさんの質問をされる。
昔のことを聞かれることもあるだろう。
蓮の好きなものを聞かれることもあるだろう。
俺の知らない思い出を、陽菜から聞くことも増えるはずだ。
だからこそ――
もっと蓮のことを知らなければならない。
そして何より。
陽菜を騙していることを、忘れてはいけない。
俺が本物の蓮ではないという事実を。
一方その頃。
陽菜は教室へ戻りながら、隣を歩く「蓮」を横目で見ていた。
確かに、以前とは違う。
話し方も。
表情も。
人との接し方も。
でも――
「……事故の後だから、仕方ないよね」
陽菜は小さく呟いた。
頭を強く打ったと聞いている。
だから、きっとそのせいだ。
それに。
「今の蓮のほうが、ちょっと好きかも」
自分でも気づかないほど小さな声だった。
その言葉は、悠斗には届かなかった。
こうして二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていった。




