西園寺蓮として迎える最初の日
西園寺蓮としての初登校
目を覚ました瞬間から、今日は特別な一日になると分かっていた。
鏡の前に立った俺は、自分の顔をじっと見つめる。
黒い髪。
空色の瞳。
整った制服。
そして、見慣れないほど上品に整えられた身なり。
そこに映っているのは、水原悠斗ではなかった。
西園寺蓮。
今日から俺が名乗る名前だった。
「……本当に、蓮にしか見えないな」
二週間前まで茶色だった髪は黒く染められ、蜂蜜色だった瞳には青いコンタクトレンズが入っている。
顔立ちも体格も、身長もほとんど同じ。
違っていたのは髪と瞳の色だけだった。
だからこそ、こうして外見を整えてしまえば、本当に別人になったような気がする。
「若様、お時間です」
部屋の外から神崎さんの声が聞こえた。
「分かりました。今行きます」
返事をしてから、俺はもう一度鏡を見る。
昨日まで何度も練習した。
歩き方。
姿勢。
言葉遣い。
人との距離感。
食事の作法。
西園寺家のこと。
蓮の学校生活。
覚えなければならないことは山ほどあった。
それでも、学校へ行くということだけは、どれだけ練習しても不安が消えなかった。
何しろ、俺がこれから会うのは、蓮のことを昔から知っている人たちなのだ。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「俺は西園寺蓮だ」
正確には、偽物だけど。
それでも今は、本物の蓮として振る舞わなければならない。
俺は部屋を出た。
廊下では神崎さんが待っていた。
いつもの黒いスーツに身を包み、相変わらず隙のない姿をしている。
俺を見ると、神崎さんは小さく頷いた。
「外見に関しては問題ありません」
「本当ですか?」
「ええ。遠目から見れば、若様本人と区別するのは難しいでしょう」
「よかった……」
「ただし」
「……はい」
「その安心した顔は、少々庶民的です」
「そこまで言います!?」
「冗談です」
神崎さんが珍しく口元を緩めた。
……この人、最近少しだけ冗談を言うようになった気がする。
「学校では、無理に完璧に振る舞おうとする必要はありません」
「でも、蓮らしくしないと……」
「若様を完全に再現する必要はありません」
神崎さんは静かに言った。
「周囲から見て不自然にならない程度に振る舞えば十分です」
「……分かりました」
「それと、ひとつだけ」
神崎さんの表情が真剣になる。
「決して、ご自身が本物の西園寺蓮だと思い込まないでください」
「……え?」
「あなたは水原悠斗です。今回の役目は、若様の代わりを務めること。しかし、自分自身まで捨てる必要はありません」
その言葉を聞いた瞬間、祖父の顔が頭に浮かんだ。
『別人のふりをするのは構わん。だが、自分まで別人になるな』
祖父にも同じことを言われた。
俺は小さく笑った。
「……分かっています」
「それなら結構です」
こうして俺は、人生で初めて、自分とは違う誰かとして学校へ向かった。
玄関を出ると、いつもの黒塗りの車が待っていた。
「……これにも、まだ慣れないな」
車に乗り込む。
シートは柔らかく、車内は静かだった。
俺が以前通っていた学校へ行くときは、電車や徒歩が当たり前だった。
それが今では、専属の運転手付きの車。
生活が変わりすぎている。
窓の外を眺めながら、俺は祖父のことを考えた。
今頃、何をしているだろう。
ちゃんと朝飯を食べただろうか。
無理していないだろうか。
スマートフォンを取り出し、短いメッセージを送る。
『今から学校。行ってきます』
すぐに返信が来た。
『気をつけて行け。無理だけはするな』
たったそれだけの文章だった。
でも、それだけで少し安心した。
「……よし」
俺はスマートフォンをしまう。
今度こそ、ちゃんとやろう。
祖父のためにも。
そして、俺を信じてくれた蓮のためにも。
しばらくすると、車が減速した。
窓の外を見る。
巨大な校舎が見えてきた。
「……ここが」
西園寺蓮が通う高校。
全国でも有数の名門校だった。
広大な敷地。
整えられた庭園。
最新設備を備えた校舎。
正門には高級車が何台も停まっている。
運転手に付き添われて登校する生徒も珍しくない。
「……世界が違う」
思わず本音が漏れた。
車が止まる。
「到着いたしました」
「ありがとうございます」
俺は車から降りた。
その瞬間だった。
周囲の視線が一斉に集まる。
「西園寺じゃない?」
「本当に来たんだ」
「事故に遭ったって聞いてたけど……」
「やっぱり、あれが西園寺グループの跡取りか」
小さな声が聞こえてくる。
俺は緊張しながらも、できるだけ平静を装って歩き出した。
神崎さんに教えられた通り、周囲をキョロキョロ見回さない。
背筋を伸ばす。
歩幅を一定にする。
視線は前へ。
「……できてるよな?」
誰にも聞こえないように呟く。
そのときだった。
「蓮!」
背後から、明るい声が聞こえた。
俺の足が止まった。
振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
長い淡い茶色の髪。
肩から背中にかけて流れる髪が、春の風に揺れている。
赤みのある茶色の瞳。
明るく柔らかな表情。
身長は俺よりかなり低く、俺が覚えている資料では百五十七センチ。
そして何より、その少女は俺を見るなり、まっすぐこちらへ走ってきた。
「蓮!」
少女は嬉しそうに笑った。
俺は一瞬、言葉を失った。
誰だ?
……いや。
分かっている。
資料で見た。
桜井陽菜。
西園寺家と深い関係を持つ桜井家の令嬢。
そして――
蓮の幼馴染。
「久しぶり!」
陽菜は俺の目の前で立ち止まった。
「……久しぶり」
俺は何とか返事をする。
陽菜は嬉しそうに笑った。
「本当に学校に来られたんだね」
「うん」
「退院したわけじゃないんだよね?」
「……まあ、まだ治療中だから」
「そっか」
陽菜は少しだけ心配そうな顔をした。
「無理してない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
陽菜は俺の顔をじっと見る。
……近い。
近すぎる。
俺は思わず後ろへ下がりそうになった。
しかし、そんなことをすれば不自然だ。
何とか耐える。
「……何?」
「ううん」
陽菜は首を傾げた。
「なんか、変」
「え?」
心臓が跳ねた。
「変って?」
「なんだろう……」
陽菜は俺を見つめたまま、少し考える。
「蓮、前より柔らかくなった?」
「……」
「昔はもっと、こう……」
陽菜は腕を組んで考え込む。
「近寄りにくい感じがあったんだけど」
「そうなの?」
「うん」
「事故に遭って、考え方が変わったのかもしれない」
俺はとっさにそう答えた。
陽菜は少し驚いた顔をした。
「……そっか」
そして、優しく笑った。
「でも、私は今のほうが好きかも」
「……え?」
「え?」
陽菜も一瞬固まった。
「……今の、聞かなかったことにして」
顔を赤くしながら、陽菜が目を逸らす。
俺も何を言えばいいのか分からなかった。
「う、うん……」
気まずい。
初対面ではない。
だけど、俺にとっては初対面だ。
そんな相手と、幼馴染のように接しなければならない。
難易度が高すぎる。
「そうだ!」
陽菜が突然顔を上げた。
「お昼、一緒に食べようよ」
「昼?」
「うん。昔みたいに」
「……昔みたいに?」
「覚えてるでしょ?」
陽菜が笑う。
俺の頭の中は真っ白だった。
覚えていない。
当然だ。
俺は水原悠斗なのだから。
「……もちろん」
苦し紛れに答える。
「よかった!」
陽菜は嬉しそうだった。
「じゃあ、あとで迎えに行くね」
「うん」
「約束だからね」
陽菜はそう言うと、先に校舎へ入っていった。
俺はその背中を見送る。
「……危なかった」
最初から最大の難関が現れた。
しかも、あの子は本物の蓮を昔から知っている。
下手なことを言えば、すぐに違和感を持たれる。
俺は小さく息を吐いた。
「……でも」
陽菜が最後に見せた笑顔を思い出す。
どこか懐かしそうで、嬉しそうだった。
きっと本物の蓮が戻ってきたことを、本当に喜んでいるのだろう。
俺はその気持ちを裏切りたくなかった。
だからこそ、もっと慎重にならなければならない。
「よし……」
俺は校舎へ向かって歩き始めた。
今日から始まる、偽物の御曹司としての高校生活。
その最初の日。
俺はまだ知らなかった。
この幼馴染との関係が、これから少しずつ変わっていくことを。
そして――
陽菜が、俺の中にある「本物の蓮とは違う何か」に、少しずつ気づいていくことも。




