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偽りの後継者の修行

西園寺家の屋敷は、外から見た時以上に広かった。


玄関を抜けた瞬間、俺は思わず足を止めた。


高い天井。


大きなシャンデリア。


磨き上げられた床。


壁には見たこともないような絵画が飾られ、広い階段が二階へと続いている。


「……ここ、本当に家なんですか?」


思わず口から出た言葉に、隣を歩く神崎さんが淡々と答えた。


「はい。西園寺家の本邸です」


「ホテルじゃなくて?」


「屋敷です」


「……そうですか」


俺は改めて周囲を見回した。


これまで暮らしてきた家なら、この玄関だけで何軒分になるだろう。


そんなことを考えていると、前方から数人の使用人が歩いてきた。


全員が綺麗に整えられた服装をしている。


そして俺の前で一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、若様」


「……」


俺は固まった。


若様。


今、俺のことをそう呼んだよな?


「……俺?」


思わず自分を指差す。


すると神崎さんが小さく頷いた。


「はい。今のあなたは西園寺蓮様ですから」


「いや、分かってますけど……」


頭では分かっている。


でも、実際にそう呼ばれると妙な気分だった。


俺は慌てて頭を下げた。


「えっと……ただいま?」


使用人たちの表情が一瞬だけ固まった。


神崎さんが咳払いをする。


「悠斗様」


「はい?」


「西園寺家の人間として帰宅した場合、『ただいま』だけでは少々くだけすぎています」


「……じゃあ、なんて言えば?」


「状況によります」


「状況によるんですか?」


「はい」


早くも頭が痛くなってきた。


どうやら俺の仕事は、思っていた以上に大変らしい。


「では、これから二週間」


神崎さんは淡々と告げた。


「蓮様として生活していただくための訓練を行います」


「二週間で?」


「はい」


「無理じゃないですか?」


「努力してください」


「即答……」


神崎さんは気にする様子もなく歩き始めた。


俺も慌てて後を追う。


まず案内されたのは、俺の部屋だった。


広い。


とにかく広い。


ベッドだけで、これまで使っていた布団を何枚並べられるのか分からない。


机も大きく、壁際には本棚が並んでいる。


そしてクローゼットを開けると、そこには大量の服が並んでいた。


「これ、全部俺が使うんですか?」


「はい」


「……高そう」


「値段は気にしないでください」


「気にしますよ!」


庶民にとって、値札のない服ほど怖いものはない。


しかし、感心している暇はなかった。


「では、始めましょう」


「え?」


「まずは姿勢です」


「姿勢?」


「はい」


神崎さんが俺の立ち方を見る。


「背筋を伸ばしてください」


「こうですか?」


「伸ばしすぎです」


「じゃあ……こう?」


「少し力を抜いてください」


「……」


「肩に力が入っています」


「……」


「悠斗様」


「はい」


「緊張しすぎです」


「だって無理ですよ!」


思わず声が大きくなる。


神崎さんは少しだけ目を細めた。


「それも直しましょう」


「そこも!?」


こうして、俺の地獄の訓練が始まった。


歩き方。


座り方。


立ち方。


人との距離。


挨拶。


言葉遣い。


食事の作法。


何かを受け取る時の手の位置。


視線の動かし方。


挙げればきりがない。


「歩く時はもう少しゆっくり」


「はい」


「今度は遅すぎます」


「……」


「自然に」


「自然って何ですか?」


「あなた自身が理解するものです」


「それが一番難しいんですけど!」


さらに、食事の作法まで始まった。


テーブルの上には、見たこともないほど大量の食器とナイフ、フォーク、スプーンが並べられている。


俺は目を細めた。


「……なんでこんなにあるんですか?」


「料理ごとに使うものが違います」


「これ全部覚えるんですか?」


「当然です」


「……」


目の前に並んだカトラリーを見ていると、学校のテストのほうが簡単に思えてきた。


「まず、このナイフを」


神崎さんが一本を指差す。


俺は手を伸ばした。


「これ?」


「違います」


「今、そこを指しましたよね!?」


「持ち方の話です」


「先に言ってください!」


神崎さんは少しだけため息をついた。


「先が思いやられますね」


「俺もそう思います……」


数時間後。


俺はソファに倒れ込んでいた。


「もう無理……」


「まだ半分も終わっていません」


「嘘でしょう……?」


「本当です」


「……」


この時、俺は初めて思った。


異世界の小説に出てくる執事って、だいたい有能すぎないか?


料理もできる。


掃除もできる。


護衛もできる。


主人の世話もできる。


しかも礼儀作法まで完璧。


俺の前にいる神崎さんも、そんな「何でもできる執事」の一人に見える。


「神崎さん」


「はい」


「……異世界の小説に出てくるような執事になってくれません?」


「意味が分かりません」


「何でもできる執事です」


「必要なことは一通りできます」


「……」


「料理もできます」


「え?」


「掃除もできます」


「え?」


「護身術もできます」


「……」


俺はゆっくり顔を上げた。


「もしかして、本当にそういうタイプですか?」


「何を言っているのか分かりません」


「いや……」


この人、本当に何者なんだ?


そんな疑問を抱きながらも、訓練は続いた。


そして夕方。


神崎さんに連れられて、俺は屋敷の奥にある部屋へ向かった。


「ここに蓮様がいらっしゃいます」


「……」


扉の前に立つ。


ここに、本物の西園寺蓮がいる。


俺は少し緊張しながら扉をノックした。


「どうぞ」


中から少年の声が聞こえた。


「失礼します」


扉を開ける。


そこには、一人の少年がいた。


大きな窓の近くに置かれた椅子に座っている。


黒い髪。


青い瞳。


整った顔立ち。


身長は座っているため正確には分からないが、俺と同じ一八三センチ。


身体つきも俺とほとんど変わらない。


違うのは、髪と瞳の色だけ。


写真で見た時以上に、自分と似ていることに驚いた。


少年も俺を見て、目を丸くしている。


「……本当にそっくりだ」


彼が呟いた。


「そっちもな」


思わずそう返してしまう。


少年は少し笑った。


「初めまして。西園寺蓮です」


「水原悠斗」


「知ってるよ」


「だよな」


少し変な感じだった。


自分と同じ顔をした人間と向かい合って話している。


まるで鏡が喋っているようだった。


ただし、鏡の中の俺はずいぶん上品だった。


「座って」


「うん」


俺が向かいの椅子に座る。


その時、蓮の足が目に入った。


彼は自分の力で立つことができない。


事故で両脚を負傷して以来、歩けなくなっている。


近くには車椅子が置かれていた。


俺は少しだけ視線を逸らした。


蓮は気づいたのか、苦笑した。


「気にしなくていいよ」


「……ごめん」


「謝ることじゃない」


蓮は窓の外を見た。


「今は治療に集中してるだけだから」


「治るんだよな?」


「医者は可能性があると言ってる」


「じゃあ……」


「時間はかかるかもしれないけどね」


蓮は穏やかに笑った。


「父さんが国内だけじゃなく、海外の治療法まで探してくれてる。だから、俺も諦めてない」


その言葉を聞いて、少し安心した。


俺が黙っていると、蓮が尋ねる。


「悠斗は、どうしてこの話を受けたの?」


「……金」


正直に答える。


「祖父のために使いたいんだ」


「お祖父さん?」


「俺を育ててくれた人」


蓮は静かに頷いた。


「そっか」


それ以上、余計なことは聞かなかった。


そのことが、少しありがたかった。


「俺も一つ聞いていい?」


「何?」


「俺の代わりをするの、怖くない?」


「怖いよ」


即答すると、蓮が少し驚いた顔をした。


「でも、やるって決めたから」


「……そっか」


蓮は笑った。


「ありがとう」


「なんで?」


「俺の代わりをしてくれるから」


「……まあ、仕事だからな」


「それでもだよ」


その笑顔を見ていると、少しだけ不思議な気持ちになった。


俺が勝手に想像していた「大金持ちの御曹司」は、もっと傲慢で、人を見下すような人間だと思っていた。


でも、目の前にいる蓮は違った。


普通の十五歳の少年だった。


「ところで」


蓮が少し楽しそうな顔をする。


「神崎さんの訓練、どうだった?」


「最悪」


「ふふっ」


「笑うなよ」


「ごめん。でも、神崎さんは厳しいから」


「蓮も?」


「もちろん」


「お前も苦労したんだな……」


「かなりね」


二人で顔を見合わせる。


そして、同時に笑った。


その瞬間。


少しだけ肩の力が抜けた。


俺はこの人なら、うまくやっていけるかもしれない。


そんな気がした。


その日の夜。


再び訓練を終えた俺は、自分の部屋の前にある鏡を見つめていた。


鏡に映っているのは、茶色い髪と蜂蜜色の瞳をした、いつもの俺。


まだ、この顔なら水原悠斗だ。


しかし、その数日後。


俺は再び鏡の前に立つことになる。


その時には、茶色い髪は黒く染められ、蜂蜜色の瞳には青いコンタクトレンズが入る。


俺の顔は、完全に西園寺蓮へと変わる。


「……本当に、俺がこれをやるのか」


鏡の中の自分を見ながら呟く。


その時、背後から神崎さんの声がした。


「はい」


「うわっ!」


「驚かせてしまいましたか?」


「いつからいたんですか!?」


「少し前からです」


「気配なさすぎません!?」


神崎さんは気にせず、一着の制服を差し出した。


「明日から学校で着ていただきます」


俺は制服を受け取った。


上質な生地。


綺麗に仕立てられたブレザー。


胸元には学校の校章。


「これが……」


「蓮様の制服です」


俺はそれをじっと見つめた。


いよいよ始まる。


俺が「西園寺蓮」として過ごす生活が。


ただの高校生だった俺が。


金持ちの世界に入り。


大企業の跡取り息子を演じ。


そして、名門高校へ通う。


「……やるしかないか」


俺は制服を抱えた。


翌日。


俺は初めて、本物の「西園寺蓮」と同じ姿で学校へ向かうことになる。


その先に、三人の少女が待っていることも知らずに。

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