私の人生が普通ではなくなった日
俺は、自分の人生が特別なものだと思ったことは一度もなかった。
水原悠斗、十五歳。
身長は一八三センチ。
同年代の中では少し背が高いほうだが、それ以外はどこにでもいる普通の高校生だ。
茶色の髪は特別手入れをしているわけでもなく、少し癖がある。瞳は蜂蜜を思わせる色をしているが、自分ではそれを気にしたこともない。
服も、靴も、持ち物も高級品とは無縁。
そんな俺が暮らしているのは、祖父と二人で住む古い一軒家だった。
決して広くはない。
壁にはところどころ年季が入り、台所に置かれた家電もかなり古い。
それでも、俺にとっては大切な家だった。
両親が俺の前からいなくなったのは、俺がまだ幼い頃だ。
二人がなぜ俺を置いていったのか。
詳しい理由を知っているわけではない。
ただ、あの二人が俺を育てることを選ばなかったことだけは分かっている。
そんな俺を引き取って育ててくれたのが、祖父だった。
水原健司、六十五歳。
白髪の混じった短い髪に、少し皺の増えた顔。
身長は俺よりずっと低いが、六十五歳とは思えないほど背筋が伸びている。
普段は質素な服を着ていて、必要以上に物を欲しがらない。
頑固で、口数もそれほど多くない。
それでも、俺にとっては誰よりも大切な人だった。
だから俺は、学校が終わった後にアルバイトをしている。
少しでも祖父の負担を減らすためだ。
「水原くん、これを倉庫に運んでくれる?」
「はい。分かりました」
その日も、俺はいつも通りアルバイト先のスーパーで働いていた。
制服代わりのエプロンを身につけ、段ボールを一箱ずつ運んでいく。
時計を見る。
もうすぐアルバイトの終了時間だった。
今日は家に帰ったら、祖父の夕食を手伝う予定だ。
いつも通りの一日。
いつも通りの生活。
俺はそれで十分だと思っていた。
「よし……これで最後だな」
最後の段ボールを棚に置き、腰を伸ばす。
その時だった。
「……すまない」
背後から、低く落ち着いた声が聞こえた。
「はい?」
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
身長は俺と同じくらいの一八三センチほど。
黒髪は短く整えられ、乱れたところが一つもない。
黒いスーツも完璧に着こなしていて、姿勢はまっすぐ。
無駄な動きが一切なく、立っているだけなのに妙な威圧感があった。
ただ怖いというわけではない。
むしろ、その立ち姿には落ち着きと品があった。
一目見ただけで、普通の会社員ではないことが分かる。
男は俺の顔をじっと見つめていた。
まるで何かを確認しているようだった。
「君の名前を聞いてもいいだろうか?」
「……水原悠斗ですけど」
「年齢は?」
「十五歳です」
男の目がわずかに細くなる。
「そうか……」
何だ、この人。
俺は少し警戒しながら尋ねた。
「俺に何か用ですか?」
「失礼。突然こんなことを聞いてしまって申し訳ない」
男は丁寧に頭を下げた。
その動作さえ無駄がない。
「私は神崎徹と申します」
「神崎さん……?」
「はい」
神崎と名乗った男は、懐から名刺を取り出して俺に差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『西園寺家 筆頭執事』
「……西園寺家?」
その名前には聞き覚えがあった。
というより、日本でその名を知らない人のほうが少ないだろう。
西園寺グループ。
金融、不動産、ホテル、製造業など、数多くの企業を傘下に持つ巨大企業グループ。
日本を代表する財閥系企業の一つとして、ニュースでも頻繁に名前を聞く。
そして、その西園寺家には一人の跡取り息子がいる。
西園寺蓮。
俺と同じ十五歳。
黒い髪に、印象的な青い瞳。
俺とは何もかも違う世界で生きている少年だ。
……そう思っていた。
「どうして、そんな人が俺に?」
神崎さんはすぐには答えなかった。
代わりに、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「これを見ていただけますか?」
画面に表示された写真を見た瞬間。
俺は言葉を失った。
「…………え?」
そこに写っていたのは、一人の少年だった。
黒く艶のある髪。
透き通るような青い瞳。
整った顔立ち。
上質な制服を着て、背筋を伸ばして立っている。
そして――
「……俺?」
思わず口からそんな言葉が漏れた。
もちろん、俺ではない。
髪の色が違う。
瞳の色も違う。
服装だってまったく違う。
それなのに。
眉の形。
目元。
鼻筋。
口元。
輪郭。
顔全体のバランス。
そして、一八三センチある身長と体格まで。
まるで、自分の写真を加工して色だけ変えたようだった。
「彼は西園寺蓮様です」
神崎さんが静かに言った。
「君と同じ十五歳です」
俺は写真と神崎さんの顔を交互に見た。
「……本当に、俺と同じくらいの身長なんですか?」
「はい。身体的な特徴も驚くほど一致しています」
「いや……こんなことあります?」
思わず苦笑する。
「たまたま顔が似てるだけじゃ……」
「私も最初はそう考えました」
神崎さんは真剣な表情を崩さない。
「ですが、調べれば調べるほど、単なる偶然とは思えなくなりました」
その言葉に、背筋が少しだけ寒くなった。
「……それで、俺に何の用なんですか?」
神崎さんは数秒だけ黙った。
そして、まっすぐ俺の目を見た。
「西園寺蓮様の身代わりになっていただきたいのです」
「…………」
意味が分からなかった。
「……すみません。もう一度お願いします」
「西園寺蓮様の身代わりです」
「いやいやいや!」
俺は思わず両手を振った。
「無理ですよ!」
「そうおっしゃると思っていました」
「だって俺、普通の高校生ですよ?」
「存じています」
「金持ちでもないですし」
「存じています」
「テーブルマナーだって、ちゃんと習ったことなんてありません」
「それも存じています」
「じゃあ、なんで俺なんですか!?」
神崎さんは少しだけ視線を落とした。
そして、静かに口を開いた。
「蓮様が事故に遭われたからです」
その瞬間、空気が変わった。
「……事故?」
「はい」
神崎さんの表情から、先ほどまでのわずかな柔らかさが消える。
「高校入学を目前に控えたある日、蓮様は歩行中に自動車にはねられました」
「……」
「幸い、命に別状はありませんでした。しかし、両脚に大きな損傷を負い、現在は自力で歩くことができません」
俺は何も言えなかった。
「西園寺家では現在、国内外を問わず、蓮様が受けられる最善の治療を探しています」
「治るんですか?」
思わず聞いてしまった。
神崎さんはすぐには答えなかった。
「……医師からは、回復の可能性はあると聞いています」
「じゃあ……」
「ですが、どれほどの時間が必要になるのかは分かりません」
神崎さんは淡々と説明を続けた。
「数か月で済む可能性もあります。しかし、数年単位の治療になる可能性もあります」
「……」
「そのため、蓮様は高校へ通うことができません」
俺は画面の中の少年を見る。
さっきまで自分とそっくりだと思っていた顔。
今は、その顔が少し違って見えた。
「では……どうして身代わりが必要なんですか?」
「西園寺家にとって、蓮様は次代の後継者です」
神崎さんは慎重に言葉を選んだ。
「これまで蓮様は、将来の後継者として公の場にも出てきました。今回の事故を公表すれば、世間や報道から過剰な注目を集めることになるでしょう」
つまり。
ただの高校生が事故に遭った、という話ではない。
「……跡取りだから」
「その通りです」
「だから、蓮さんが学校に行けないことを知られたくない」
「はい」
そして神崎さんは、俺に向かって深く頭を下げた。
「そこで、君にお願いしたいのです」
俺は黙り込んだ。
あまりにも現実離れした話だった。
普通なら断る。
絶対に断る。
そう思っていた。
けれど――
「もちろん、無償でお願いするつもりはありません」
神崎さんが告げた金額を聞いた瞬間。
俺は言葉を失った。
「……え?」
それは、俺がアルバイトを何年続けても手に入れられないような金額だった。
「この金額を、身代わりを務めていただく報酬としてお支払いします」
「……こんなに?」
「はい」
「本当に?」
「西園寺家の正式な契約としてお約束します」
俺の頭の中に、祖父の顔が浮かんだ。
古くなった家。
何度も修理して使っている家電。
節約のために、少し安い食材を選ぶ祖父。
俺がアルバイトをしても、生活が劇的に変わるわけではない。
でも、この金額なら。
祖父にもっと楽な生活をさせてあげられる。
「さらに、身代わりを務めている間は、西園寺家の屋敷で生活していただきます」
「屋敷……」
「衣食住に関する費用はこちらですべて負担します」
俺は名刺を握りしめた。
「……一晩、考えさせてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
神崎さんは静かに頷いた。
「ご家族と相談してください」
「……はい」
その日の夜。
俺は家に帰った。
玄関を開けると、いつもの匂いがする。
「おかえり」
居間から祖父の声が聞こえた。
「ただいま、じいちゃん」
夕食を済ませてから、俺は今日あったことをすべて話した。
祖父――水原健司は、黙って俺の話を聞いていた。
途中で口を挟むこともない。
俺が話し終えると、湯飲みをテーブルに置いた。
「……つまり、お前が金持ちの坊ちゃんの代わりになるということか」
「そういうこと」
「危険は?」
「事故とか、そういう意味ではないみたい」
「そうか」
祖父はしばらく考えていた。
「それで、お前はどうしたい?」
「俺は……」
正直に言えば、怖い。
知らない家。
知らない人間関係。
知らない学校。
そして、自分ではない誰かのふりをする。
そんな生活を想像しただけで、胃が痛くなりそうだった。
それでも。
「……やるよ」
祖父が顔を上げる。
「本当にいいのか?」
「うん」
俺はできるだけ明るく笑った。
「だって、そのお金があれば、じいちゃんの生活を楽にできるから」
祖父は何も言わなかった。
ただ、俺の顔をじっと見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
「うん」
「なら、やってこい」
「え?」
意外なほどあっさりした答えだった。
「ただし、一つだけ覚えておけ」
祖父の声が少しだけ低くなる。
「別人のふりをするのは構わん」
「……」
「だが、自分まで別人になるな」
俺は黙って祖父を見つめた。
「金持ちの家に住もうが、高級な服を着ようが、お前はお前だ」
その言葉が胸の奥に残った。
「……分かった」
俺は頷いた。
「行ってくるよ、じいちゃん」
「ああ」
それから数日後。
俺は再び西園寺家の門の前に立っていた。
目の前に広がる光景を見て、思わず言葉を失う。
「……でかすぎるだろ」
そこには、俺が今まで一度も見たことのないほど巨大な邸宅が建っていた。
広大な敷地。
綺麗に整えられた庭。
大きな鉄門。
そして、その奥に見える豪邸。
俺が今まで暮らしてきた家とは、何もかもが違う。
「ようこそお越しくださいました」
声に振り返る。
そこには、あの男――神崎徹が立っていた。
黒髪をきっちり整え、黒いスーツを一分の隙もなく着こなしている。
「本日から、私があなたをサポートいたします」
「よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、神崎さんは満足そうに頷いた。
「では、まず屋敷へ入りましょう」
「はい」
一歩踏み出す。
その瞬間。
俺の普通の人生は、本当の意味で終わった。
この先に待っているのは、俺の知らない世界。
名門高校。
大富豪の家。
そして――
俺と同じ顔をした少年の人生だった。
まだ、この時の俺は知らなかった。
この屋敷で出会う人々が、俺の人生そのものを変えてしまうことを。
そして。
三人の少女との出会いが、俺の「偽物の高校生活」を、想像もしなかった方向へ変えていくことを。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
悠斗の「偽物の御曹司」としての奇妙な高校生活は、まだ始まったばかりです。
これから彼がどんな人たちと出会い、何を経験し、そして三人の少女たちとの関係がどう変わっていくのか。
ぜひ悠斗たちの物語を、最後まで一緒に見届けていただけたら嬉しいです。
これからも応援よろしくお願いします!




