消えかけた電子工学部
放課後。
ここ数日、俺は電子工学部へ顔を出すことがすっかり習慣になっていた。
特に理由があるわけではない。
栞と話したり、新しい作品を見せてもらったりするためだ。
ただ、正直に言えば、栞の説明の半分くらいは今でも理解できていない。
「このレギュレーターをもっと容量の大きいものに交換すれば……」
「なるほど」
「電流が安定すると思います」
「そうなんだ」
もちろん、何も分かっていない。
それでも、最近は栞も俺が適当に相槌を打っているわけではないことを分かってくれているらしい。
最初の頃は、俺が部室に入るだけで少し緊張していた。
今では、
「こんにちは、西園寺くん」
と、普通に挨拶してくれる。
それだけでも、かなりの変化だった。
最近では電子工学以外の話をしてくれることもある。
猫が好きだとか。
冬のほうが集中しやすいとか。
好きな食べ物の話までしたことがある。
本当に些細な会話だ。
でも、栞にとっては大切な一歩なのだと思う。
そして、陽菜も時々、部室へ顔を出すようになった。
「水野さん、お菓子持ってきたよ」
「私に……ですか?」
「うん。それと、もう一人連れてきた」
「もう一人……?」
陽菜の後ろから、一人の少女が姿を見せた。
「……人を連れてきた、という言い方は少し変ではありませんか?」
「いいじゃん。ちゃんと連れてきたんだから」
「まったく……」
現れたのは、麗華だった。
「九条さん……?」
栞が驚いたように呟く。
「こんにちは、水野さん」
「こ、こんにちは……」
麗華は部室の中を見回した。
「ここが電子工学部ですか」
「はい……」
「以前から興味はありました」
「そうなんですか?」
栞の表情が少し明るくなる。
「ええ。実際に見るのは初めてですが」
陽菜が笑う。
「だから連れてきたの」
「私だけじゃなくて、九条さんにも見てもらったらいいかなって」
「なるほど」
麗華は頷いた。
「それに、蓮が最近ここへ通っていると聞きましたから」
「俺?」
「はい」
「別に、そんなに大したことじゃないよ」
「そうでしょうか?」
麗華が俺を見る。
「少なくとも、楽しそうには見えますよ」
「まあ、楽しいけど」
俺は栞を見る。
「水野の話はよく分からないけど、聞いてると面白いんだ」
「……ありがとうございます」
栞が小さく笑った。
陽菜も嬉しそうに笑う。
「じゃあ、水野さん。今日は何を作ってるの?」
「これです」
栞が机の上の基板を見せる。
「今、昨日のシステムを改良しています」
「へえ……」
陽菜が興味深そうに覗き込む。
「これ、何?」
「近接センサーです」
そこから栞の説明が始まった。
「このセンサーが対象物との距離を測って、それをコントローラーに送ります。それから――」
陽菜は真剣に話を聞いている。
麗華も興味深そうに基板を眺めていた。
俺はというと……。
「……」
やっぱり分からない。
「蓮」
「ん?」
「ちゃんと聞いていますか?」
麗華に指摘される。
「聞いてるよ」
「なら、今の説明を要約してください」
「……」
俺は沈黙した。
陽菜が吹き出す。
「やっぱり分かってないじゃん!」
「いや、頑張って聞いてたんだけど……」
栞が小さく笑った。
「大丈夫です。私もよく分からない説明をしてしまうので……」
「水野が悪いわけじゃないよ」
「ありがとうございます」
栞は再び基板へ視線を戻した。
そして、小さな部品を手に取る。
「この部品を交換してみます」
「そんな小さいの、よく扱えるな」
「慣れているので」
栞は机の引き出しから、細いフレームの眼鏡を取り出した。
「それ……眼鏡?」
「はい。小さい部品や細かい回路を扱うときに使っています」
眼鏡をかけた栞は、先ほどまでよりさらに真剣な表情になった。
「……」
俺は少しだけ見入ってしまった。
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
栞は気にせず、作業へ戻る。
細かな部品を慎重に取り付けていく。
その姿を見て、俺は思った。
本当に、電子工学が好きなんだな。
しばらくして、栞が作業を終えた。
「できました」
「おお」
陽菜が拍手する。
「すごい!」
「ありがとうございます」
栞は少し照れながら眼鏡を外した。
そのときだった。
「そういえば」
麗華が部室を見回した。
「この部には、他に部員はいないのですか?」
栞の表情が少し曇った。
「……いません」
「ずっと?」
「新学期が始まってから、ずっと一人です」
「一人で活動していたの?」
「はい」
陽菜が驚いた顔をする。
「それじゃ、ずっと一人だったんだ……」
「はい」
栞は淡々と答えた。
けれど、その声には少しだけ寂しさが混ざっていた。
「部員を募集しようとは思わなかったの?」
陽菜が尋ねる。
栞は視線を落とした。
「……どうすればいいのか分からなくて」
「どういうこと?」
「知らない人に声をかけるのが……苦手なんです」
栞は小さく息を吐いた。
「何を話せばいいのか分からないし……どうやって仲良くなればいいのかも……」
俺は栞を見る。
昨日までなら、それで終わっていたかもしれない。
でも今は違う。
「でも、俺とは話せるようになったよな」
栞が顔を上げる。
「……はい」
「電子工学の話なら?」
「……たくさん話せます」
「やっぱりそうか」
俺は笑った。
「じゃあ、人と話すことが嫌いなんじゃなくて……苦手なだけなんだな」
「……はい」
栞は小さく頷いた。
「なら、少しずつでいいんじゃないか?」
「少しずつ……?」
「うん」
俺は笑う。
「いきなりたくさんの人と話す必要はないよ」
栞は俺を見つめる。
「まずは一人からでいい」
「……一人?」
「そう」
栞は少しだけ俯いた。
「……その一人は、もういます」
「え?」
「西園寺くんです」
小さな声だった。
「もう……友達ですから」
俺は少し驚いた。
でも、すぐに笑った。
「そうだな」
「……はい」
栞も少しだけ笑った。
その様子を見ていた陽菜が、優しく微笑む。
一方、麗華は俺と栞を見ながら、何かを考えているようだった。
「……なるほど」
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
その日の帰り。
俺はまだ知らなかった。
数日後、この部室に大きな問題が訪れることを。
そして、その問題によって――
俺たちは、栞のために本格的に動くことになる。
それは、彼女にとって初めて、自分から誰かと向き合うための大きな一歩になるのだった。
数日後。
その日も、四人で電子工学部に集まっていた。
すると、突然、部室の扉がノックされた。
「はい?」
扉が開く。
そこに立っていたのは、制服をきちんと着こなし、腕に生徒会の腕章をつけた上級生だった。
「水野栞さんですか?」
栞が立ち上がる。
「は、はい」
「少し話があります」
「私に……ですか?」
「はい」
上級生は部室の中を見回した。
それから栞を見る。
「生徒会から、この部について伝えなければならないことがあります」
「……この部について?」
栞の表情が固くなる。
「はい」
上級生は書類を取り出した。
「電子工学部は、現在、生徒会による正式な存続審査の対象になっています」
「存続……審査?」
「新学期が始まってから、部員が増えていません」
栞は黙って俯いた。
「学校の規定では、一定数以上の部員がいない部は、活動を継続できません」
「……それじゃ」
栞の声が震える。
「どうなるんですか?」
上級生は静かに答えた。
「次回の審査までに新しい部員を確保できなければ――」
一度、言葉を区切る。
「電子工学部は廃部になります」
「……廃部」
栞の顔から血の気が引いた。
「まだ決定ではありません」
上級生は続ける。
「必要な人数を集めることができれば、活動を続けることは可能です」
「……人を集めれば……」
「はい」
それだけを伝えると、上級生は頭を下げた。
「それでは、失礼します」
扉が閉まる。
部室が静まり返った。
栞は動かなかった。
机の上に置かれた基板。
工具。
部品。
そして、自分がずっと大切にしてきたこの場所。
「……嫌です」
栞が小さく呟いた。
「ここを……なくしたくないです」
陽菜がすぐに栞のそばへ行く。
「水野さん……」
「ここは……私が唯一、安心していられる場所なんです」
栞は拳を握った。
「電子工作をしているときだけは……何も考えなくていいんです」
「……」
「だから……なくなってほしくない」
麗華が静かに立ち上がった。
「ならば、なくさなければいいのです」
「え……?」
麗華は栞を見る。
「まだ廃部が決まったわけではないのでしょう?」
「はい……」
「なら、諦める必要はありません」
陽菜も頷いた。
「うん。私たちが手伝うよ」
栞が驚いたように二人を見る。
「手伝って……くれるんですか?」
「もちろん」
陽菜が笑う。
「一人じゃないんだから」
栞はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと俺を見る。
「西園寺くん……」
「俺も手伝うよ」
「……どうして?」
「友達だから」
栞の目が少し潤んだ。
「……友達」
その言葉を確かめるように、栞は小さく呟いた。
俺は頷く。
「そう。だから一緒に部員を探そう」
「……はい」
栞は涙をこらえながら笑った。
陽菜が拳を握る。
「よし! 絶対に部活を守ろう!」
「陽菜、声が大きいです」
「ご、ごめん!」
思わず俺も笑ってしまう。
栞も、小さく笑った。
その笑顔は、初めて会ったときよりずっと自然だった。
けれど、俺たちはまだ知らなかった。
電子工学部の部員を集めるというのが、思っていた以上に難しいことを。
そして、そのためには――
栞自身が、今まで避けてきた「人と話すこと」に向き合わなければならないことを。




