友達のいない少女
翌日。
昨日、知り合った水野栞のことが、なぜか少し気になっていた。
別に、何か特別なことがあったわけではない。
ただ、少し変わった子だと思ったのだ。
俺と話しているときはかなり緊張していたのに、電子工作の話になった瞬間、まるで別人のように話し始めた。
そして、なぜか俺には、彼女がずっと一人でいることに慣れすぎているような気がしていた。
昼休み。
陽菜と一緒に昼食を食べながら、俺は昨日の電子工学部のことを思い出した。
「なあ、陽菜」
「ん?」
「電子工学部って知ってる?」
「電子工学部?」
陽菜は首を傾げた。
「うん。昨日、そこで一人の女の子と知り合ったんだ」
「女の子?」
陽菜の箸が一瞬止まった。
「誰?」
「水野栞っていう子」
「水野……?」
陽菜は少し考える。
「たしか、別のクラスだったと思う」
「たぶんそうだと思う」
「それで、どうして知り合ったの?」
俺は昨日の出来事を簡単に説明した。
「……つまり、たくさんのケーブルに絡まってたんだ」
「そう」
「それで蓮が助けたんだ?」
「うん」
「それから電子工学の話をしたの?」
「まあ……話したのは、ほとんど彼女だけど」
陽菜が小さく笑う。
「蓮、何か理解できた?」
「全然」
「やっぱり!」
二人で笑う。
けれど、陽菜はふと何かを考えるような顔をした。
「それで、その子のことをどうして聞くの?」
「なんとなく」
俺は弁当を見ながら答えた。
「ただ……かなり一人でいるみたいだったから」
「一人?」
「うん」
陽菜の表情が少し変わった。
「だったら、もう一度話しかけてあげればいいんじゃない?」
「そう思う?」
「もちろん」
陽菜は机に肘をついた。
「いい子だと思ったなら、話しかけない理由なんてないでしょ」
そう言ったあと、陽菜は少し考え込んだ。
「あ……」
「どうした?」
「……私、今、自分から蓮に『別の女の子を助けてあげて』って言った?」
「うん」
陽菜は自分の額を軽く押さえた。
「私って、もしかしてすごく馬鹿なんじゃ……」
そんなことを考えていると、ふと昔の記憶が蘇った。
まだ小学生だった頃。
陽菜は、他の子供たちの輪に入れず、一本の木の後ろに隠れていた。
「陽菜、そんなところに隠れてないで、一緒に行こうよ」
「でも……恥ずかしい」
蓮は、そんな陽菜に手を差し出した。
「大丈夫。俺も一緒にいるから」
陽菜は少し迷ったあと、その手を取った。
そして蓮と一緒に、少しずつ他の子たちのところへ歩いていった。
現在。
陽菜は目の前にいる蓮を見つめた。
(……あの頃も、蓮は私を助けてくれたっけ)
(今度は私が、誰かを助ける番なのかも)
陽菜は小さく笑った。
(……まあ、そういうこともあるよね)
それが自然なことなのだと、自分に言い聞かせるように。
放課後。
俺は再び電子工学部へ向かった。
昨日はかなり騒がしかったが、今日は静かだった。
扉は閉まっている。
俺は軽くノックした。
「……はい?」
中から栞の声が聞こえた。
「水野」
扉を開ける。
栞が顔を上げた。
「さ、西園寺くん?」
「うん」
「どうしてここに?」
「ちょっと水野に会いに来た」
栞は完全に固まった。
「……私に?」
「そう」
「どうして?」
「昨日のことが少し気になって」
俺は周囲を見回した。
部室は昨日とほとんど変わっていない。
机の上には工具。
たくさんの配線。
基板。
よく分からない部品。
「何か新しいものを作ってるの?」
その瞬間、栞の目が輝いた。
「はい」
彼女は小さな基板を手に取った。
「昨日のシステムを改良しようと思っていて、この接続を変えて、さらにもう一つセンサーを追加すれば、もっと正確に反応できると思うんです」
「なるほど」
分からない。
全然分からない。
それでも俺は真剣な顔で頷いた。
「難しそうだな」
「難しいです」
「一人でできるの?」
栞の動きが止まった。
「……はい」
「いつも一人なの?」
少しの沈黙。
「……はい」
その答え方は、昨日とは少し違っていた。
誇らしそうでもない。
寂しそうでもない。
ただ、それが当たり前だというような言い方だった。
「他に部員はいないの?」
栞は首を横に振る。
「いません」
「いつから?」
「新学期が始まってからずっとです」
「じゃあ……この部活って、水野一人なの?」
「はい」
俺は改めて部室を見回した。
そこでようやく、この部屋の意味が少し分かった気がした。
「部員を探そうとは思わなかったの?」
栞は視線を落とした。
「……どうやって探せばいいのか分からないんです」
「分からない?」
「知らない人に……どう話しかければいいのか」
声が少し小さくなる。
「どうやって会話を始めればいいのかも分かりません」
俺はすぐには答えられなかった。
昨日、俺とは普通に話していた。
ただし、それは電子工作の話だったからだ。
「でも、昨日は俺と結構話してたよな」
「それは……」
栞が顔を上げる。
「電子工学の話だったからです」
「なるほど」
それなら納得できる。
「じゃあ、人と話すのが嫌いなわけじゃないんだな」
「……はい」
「ただ、人と話すのが苦手なんだ」
栞は小さく頷いた。
「はい」
俺は彼女の向かい側に座った。
「じゃあ、少しずつでいいんじゃないか?」
「……何をですか?」
「他の人と話すこと」
栞は目を丸くする。
「他の人……」
「いきなり大勢じゃなくていい」
俺は笑った。
「まずは一人からでいい」
栞はしばらく俺を見つめていた。
「……西園寺くん?」
「ん?」
「その一人って……」
「俺」
「……」
栞は少しだけ俯いた。
「もう……友達だと思ってます」
「え?」
小さな声だった。
「今、何て?」
「な、何でもありません!」
栞の顔が赤くなる。
「でも、まあ……」
俺は笑った。
「じゃあ、俺たちは友達ってことでいいんじゃない?」
栞はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり笑った。
「……はい」
その日、俺たちは特別な話をしたわけではない。
俺が栞の作っているものについて質問して。
栞がそれについて説明する。
俺はほとんど理解できない。
それでも、栞が楽しそうに話しているのを見るのは嫌じゃなかった。
電子工学の話をしている間だけ、栞は自分が人見知りだということを忘れているようだった。
もしかすると、彼女に必要なのは、自分を変えることではないのかもしれない。
ただ、自分のことを話せる相手が必要なのかもしれない。
翌日。
俺は栞を陽菜に紹介することにした。
休み時間。
俺は陽菜を連れて、電子工学部へ向かった。
「水野」
栞が顔を上げる。
「は、はい?」
「紹介したい人がいるんだ」
陽菜が一歩前に出る。
「こんにちは。桜井陽菜です」
栞の体が少し固くなる。
「み、水野栞です」
「よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
二人の間に沈黙が流れた。
栞が陽菜を見る。
陽菜も栞を見る。
俺も二人を見る。
誰も何も言わない。
「えっと……」
俺は助け舟を出すことにした。
「水野は電子工学部にいるんだ」
「あっ!」
陽菜の顔が明るくなる。
「じゃあ、蓮が話してた子だ!」
「……私のこと、話してたんですか?」
栞がゆっくり俺を見る。
「うん」
「何を?」
「すごいものを作ってるって」
栞の頬が少し赤くなる。
「……そうですか」
陽菜が笑った。
「じゃあ、作ってるものを見せてもらってもいい?」
「ほ、本当ですか?」
「うん」
栞の表情が少しだけ明るくなる。
栞は自分の作ったものを陽菜に見せ始めた。
最初は小さな声だった。
けれど、数分後。
「この回路はですね、距離の変化を検知するためのもので、このセンサーから送られた情報をコントローラーが処理して、それから――」
陽菜は笑顔で話を聞いている。
俺はその様子を眺めていた。
やっぱり不思議だ。
最初はあれだけ緊張していたのに。
自分が好きなことを話し始めると、こんなにも楽しそうになる。
そして、俺は思った。
陽菜の言う通りなのかもしれない。
栞に必要なのは、別人になることじゃない。
ただ、話を聞いてくれる人を少しずつ増やしていくことなのだ。
けれど俺は、この小さな一歩が、その後の大きな出来事につながることをまだ知らなかった。
数日後。
電子工学部に、ある問題が持ち上がることになる。
それは――
栞が唯一安心して過ごせる場所を、失うかもしれないという問題だった。
そして、その問題をきっかけに。
陽菜と麗華、そして俺の三人が、栞を助けるために動き始めることになる。




