小さな変化と、新しい出会い
翌朝。
教室では、昨日の社交の場の話題で、いつも以上に賑わっていた。
俺も陽菜と話しながら、昨日のことを思い返していた。
「昨日は大変だったね」
「うん。でも、九条がいてくれたから何とかなったよ」
「へえ……麗華さんって、そんなにすごいんだ」
陽菜はそう言いながら、少しだけ複雑そうな顔をした。
「まあ、礼儀作法もダンスも、俺よりずっと上手だったな」
「ふーん……」
「どうした?」
「別に?」
陽菜は笑っている。
けれど、どこかいつもと違う。
俺がそう思っていると、教室の前を一人の少女が通り過ぎた。
長い黒に近い濃紺の髪。
背筋はまっすぐに伸び、制服には一切の乱れがない。
九条麗華だった。
俺と目が合う。
一瞬だけ、彼女の表情が柔らかくなった。
けれど、周囲に人がいることに気づいたのか、すぐにいつもの凛とした表情へ戻る。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
麗華はそのまま自分の教室へ向かっていった。
陽菜は彼女の背中を見送ったあと、俺のほうを見る。
「……昨日、一緒にいたから?」
「何が?」
「ううん。なんでもない」
陽菜はそう言って、いつもの笑顔に戻った。
けれど俺は知らなかった。
昨日の社交の場を境に、麗華の中では大きな変化が起きていたことを。
そして、その日の午前。
麗華は自分の教室で、授業中にもかかわらず、何度も昨日のことを思い出していた。
ダンスをしているときのこと。
名前で呼び合ったこと。
そして、周囲から「お似合いのカップル」と言われたこと。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
――私は、本当に蓮のことが好きなんだ。
そう自覚してから、今まで以上に彼を意識してしまう。
けれど、学校では今まで通りに振る舞わなければならない。
そう思っていた。
それでも、一つだけ変えたいことがあった。
昼休み。
麗華はスマートフォンを取り出し、少し迷ったあと、蓮へメッセージを送った。
『昨日のことなのですが……』
すぐに返信が届く。
『うん?』
麗華は一度深呼吸してから、続きを入力した。
『学校でも、二人きりのときは……名前で呼んでもいいでしょうか?』
少し間を置いて、さらに送る。
『私も、あなたのことを「蓮」と呼びたいです』
そして、最後に。
『そして……私のことも「麗華」と呼んでください』
しばらくして、蓮から返信が届いた。
『分かった。麗華が一番呼びやすくて、安心できるようにしよう。好きなように呼ぼう。』
その文章を見た瞬間、麗華の頬が熱くなった。
『……ありがとうございます』
送信したあと、麗華はスマートフォンを胸元に抱える。
自然と頬が緩んでいた。
「……嬉しい」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
放課後。
いつものように、俺と陽菜、そして麗華の三人で勉強をしていた。
最初の頃は少しぎこちなかった二人も、最近では必要なときには自然に会話するようになっていた。
「西園寺くん、この問題は――」
麗華が説明を始める。
「ここは、この公式を使えば簡単ですよ」
「なるほど……」
俺がノートに答えを書いていく。
隣では陽菜が別の問題を解いていた。
しばらくして、陽菜が時計を見る。
「そろそろ帰らなきゃ」
「もうそんな時間?」
「うん。今日は家で用事があるの」
陽菜は荷物をまとめる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
「九条さんも、また明日」
「はい。また明日」
陽菜が教室を出ていく。
その後ろ姿を見送った俺は、机の上を片付けた。
麗華も静かにノートを閉じる。
教室には、俺と麗華の二人だけになった。
少しの沈黙。
麗華は何かを言おうとして、口を閉じた。
そして、小さく息を吸う。
「……蓮」
「うん?」
名前を呼ばれただけなのに、少しだけ新鮮な感じがした。
「……呼んでみたかっただけです」
麗華は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「そっか」
俺は笑った。
「じゃあ、俺も呼ぶね」
「……はい」
「麗華」
「……はい」
麗華の頬が赤くなる。
それを見て、俺は少し不思議に思った。
名前で呼んだだけなのに、どうしてそんなに嬉しそうなんだろう。
そんなことを考えながら、俺は鞄を肩に掛けた。
「じゃあ、俺もそろそろ帰るよ」
「はい。気をつけて帰ってください」
「麗華もね」
「……はい」
俺は教室を出た。
校舎の廊下を歩きながら、今日借りていた本を返し忘れていたことに気づいた。
「そういえば、本を返してなかったな」
図書室へ向かい、本を返却する。
その帰り道。
校舎の奥から、突然、大きな音が響いた。
「ガシャン!」
「ビリッ!」
「……何だ?」
俺は足を止めた。
もう一度、音が聞こえる。
「ガタン!」
そして――
「だ、大丈夫……。まだ壊れてない……」
女の子の声だった。
気になった俺は、音のした方向へ歩いていく。
そこには、電子工学部の部室があった。
扉が少しだけ開いている。
「……誰かいるのか?」
俺は扉を開けた。
その瞬間。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、まるで小さな研究室のような光景だった。
机の上には基板や工具、配線、センサーらしき部品が並んでいる。
そして、その中心に――一人の少女がいた。
短い黒髪は顎のあたりで切り揃えられているものの、ところどころ少し乱れている。
青みがかった灰色の瞳が、驚いたようにこちらを見つめていた。
制服も少し乱れている。
ネクタイはずれ、シャツには皺ができ、袖は肘のあたりまでまくり上げられていた。
そして何より――。
「……あの、大丈夫?」
少女の両腕と片足には、何本ものケーブルが絡まっていた。
「……大丈夫、です」
そう答えた直後。
少女が立ち上がろうとする。
「きゃっ……!」
ケーブルが引っ張られ、机が少し動いた。
「危ない!」
俺は慌てて彼女を支える。
「す、すみません……」
「いや、怪我はない?」
「大丈夫です」
「何があったの?」
「作業中に……その……ケーブルを引っかけてしまって……」
少女は恥ずかしそうに視線を逸らした。
俺は足元を見る。
「これ、全部一人で?」
「はい」
「何を作ってたの?」
その瞬間。
少女の目が変わった。
「これはですね、近接センサーを使った自動制御システムなんです」
「……近接センサー?」
「はい。対象物との距離を測定して、その情報をマイコンに送ります。それをもとにモーターの回転数を制御するんですけど、今使っているセンサーは電圧変動の影響を受けやすくて、電源ラインを分ける必要があるんです。それでレギュレーターを追加して――」
少女は一気に話し始めた。
「……」
「さらに、この部分で電流が集中するとノイズが発生する可能性があるので、グランドの取り方も見直していて――」
「……」
「それから、モーター側の消費電力も計算すると、この電源では少し余裕がないので、別の電源を使ったほうが安定すると思うんです」
「……」
俺は黙って聞いていた。
思っていた。
――大人しい子だと思った。
――でも、結構しゃべるな。
――ただし、何を言っているのかは全然分からない。
「……すみません」
少女が突然、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私……話しすぎました」
「いや、大丈夫だよ」
俺は笑う。
「正直、ほとんど理解できなかったけど」
「……」
少女の表情が少し固まった。
「でも、面白そうだとは思った」
「……本当ですか?」
「ああ。自分でこんなのを作れるのはすごいと思う」
少女は少し驚いたように目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「これ、君が作ったんだよね?」
「はい」
「すごいな」
「……そう言ってもらったの、久しぶりです」
彼女は小さく笑った。
その笑顔は、さっきまでの真剣な表情とは少し違っていた。
俺は絡まったケーブルを一本ずつ外していく。
「ここを外せば……」
「はい。そこです」
「よし」
最後のケーブルが外れた。
「これで動ける?」
「はい。ありがとうございます」
少女は立ち上がり、制服についた小さな埃を払った。
俺は部室を見回す。
「本当にいろいろ作ってるんだな」
「はい。電子工作が好きなので」
「そうなんだ」
少しだけ話したあと、俺は部室を出ようとした。
しかし、ふと思い出して振り返る。
「そういえば、名前を聞いてなかった」
少女は一瞬だけ戸惑った。
それから、少し緊張したように答える。
「……水野栞です」
「水野さんか」
「はい」
「俺は西園寺蓮」
「……知っています」
「え?」
「有名ですから」
「ああ……そういうことか」
俺は少し苦笑した。
「じゃあ、またな。水野」
「……はい」
俺は部室を出た。
扉が閉まる。
栞はしばらく、その扉を見つめていた。
そして、小さく呟く。
「……変な人」
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ――。
あんなに人と話すのが苦手な自分が、初対面の相手とあれだけ話せたことのほうが不思議だった。
一方、俺は何も知らないまま、家へ向かって廊下を歩いていた。
今日出会った少女が、これから俺の学校生活にどんな変化をもたらすのか。
そのときの俺は、まだ知る由もなかった。




