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この気持ちの名前

 社交の場は、終わった。


 長いようで、あっという間だった一日。


 最初は緊張していた。


 けれど、さまざまな人と話し、家を代表して振る舞い、そして――蓮と一緒に踊った。


 麗華にとって、それは想像していた以上に楽しい時間だった。


 やがて、西園寺家のリムジンが九条家の屋敷前に停まった。


「到着しました、麗華様」


 神崎の声が前方から聞こえる。


「……はい」


 麗華は返事をしたものの、すぐには立ち上がらなかった。


 隣には蓮がいる。


 今日一日、ずっと一緒だった。


 招待客との会話。


 家を代表する責任。


 そして、ダンス。


 その一つ一つが頭の中を駆け巡る。


「麗華?」


「……はい?」


「大丈夫?」


「大丈夫です」


 蓮が心配そうにこちらを見る。


「今日はありがとう」


「……え?」


「一緒に来てくれて」


「そんな……」


「でも、本当に助かった」


 蓮は笑った。


「麗華がいてくれたから、かなり安心できた」


「……」


 また胸が高鳴った。


「私も……来てよかったと思っています」


「本当?」


「はい」


 麗華は小さく頷く。


「今日は、とても楽しかったです」


「俺も」


 蓮が笑う。


「今日は楽しかった」


 その笑顔を見て、麗華も自然と笑った。


「それじゃあ、おやすみ」


「うん。おやすみ、麗華」


「……おやすみなさい、蓮」


 麗華はリムジンを降りた。


 扉が閉まる。


 車がゆっくりと動き出した。


 麗華はその場に立ったまま、リムジンが見えなくなるまで見送った。


 やがて車が角を曲がり、完全に見えなくなる。


「……」


 麗華は自分の胸に手を当てた。


 まだ、心臓が速く鼓動している。


「……どうして?」


 自分でも理由が分からなかった。


 屋敷へ入る。


 使用人たちがいつものように出迎えてくれる。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま」


 いつも通りに返事をする。


 けれど、麗華自身は分かっていた。


 今日は何かが違う。


 そのことに最初に気づいたのは、母だった。


「お帰りなさい、麗華」


「ただいま、お母さん」


 リビングには母がいた。


 麗華を見るなり、母は優しく微笑んだ。


「楽しかったようね」


「どうして分かるの?」


「だって、笑っているもの」


「……私が?」


「ええ」


 麗華は自分の頬に触れた。


「……笑っていた?」


「ずっとではないけれど、帰ってきたときの顔は、とても嬉しそうだったわ」


「……」


「久しぶりに見た気がする。そんな顔」


 麗華は少しだけ視線を逸らした。


「……社交の場が、うまくいったからです」


「そう」


 母はそれ以上追及しなかった。


 しばらくしてから、静かに尋ねる。


「蓮くんと?」


「……」


 麗華の頬が赤くなった。


「はい」


「そう」


 母は嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、よかったわね」


「……うん」


 麗華は母の向かいに座った。


 少しの間、二人の間に静かな時間が流れる。


「お母さん」


「なあに?」


「……ひとつ、聞いてもいい?」


「もちろん」


 麗華は少し迷った。


「人を……特別だと思うのって、どういうときなの?」


 母は少し驚いたように麗華を見る。


「随分と難しい質問ね」


「……そうかな」


「もしかして、蓮くんのこと?」


「ち、違います!」


 麗華は慌てて否定した。


 母は小さく笑う。


「分かったわ。言いたくないなら言わなくてもいい」


「……」


「ただ、そうね」


 母は少し考える。


「その人がいないときでも、その人のことを考えてしまうときじゃないかしら」


 麗華の表情が止まる。


「……」


「何かあったら伝えたいと思ったり」


「……」


「元気にしているか気になったり」


「……」


「その人が笑っているだけで、自分まで嬉しくなったり」


 麗華はゆっくりと胸に手を当てた。


「そして――」


 母は優しく続ける。


「特別な理由なんてなくても、その人のそばにいるだけで幸せだと思えたら」


「……」


「それも、その人が特別だということなのかもしれないわね」


 麗華は何も答えなかった。


 母はそれ以上何も言わなかった。


「……おやすみ、お母さん」


「ええ。おやすみなさい、麗華」


 麗華は自分の部屋へ戻った。


 扉を閉める。


 静かな部屋。


 けれど、頭の中は静かではなかった。


「……」


 ベッドへ腰を下ろす。


 今日の出来事が、次々と思い出される。


 会場に入ったとき。


 蓮と一緒に挨拶したこと。


 彼が緊張していたこと。


 それでも、一生懸命に会話していたこと。


 分からないことを無理に答えなかったこと。


 そして――


 ダンス。


「……」


 麗華は両手で顔を覆った。


「……どうして、あんなこと言うんですか」


 蓮の言葉が蘇る。


『すごく綺麗だなと思って』


『そのドレス、すごく似合ってる』


『こうやって笑ってるほうが、麗華には似合ってると思って』


 頬が熱くなる。


「……もう」


 麗華はベッドに倒れ込んだ。


 そして、今日のダンスを思い出す。


 蓮の手。


 自分の手。


 音楽。


 視線。


 そして、二人で笑ったこと。


「……楽しかった」


 小さな声が部屋に響く。


「私も……本当に楽しかった」


 麗華は天井を見つめる。


 なぜだろう。


 以前まで、蓮は自分にとって何だっただろう。


 中等部では、いつも追いかけていた相手。


 絶対に負けたくない相手。


 成績では何度も一位と二位を争った。


 だから、彼を超えたいと思っていた。


 けれど――


 今は違う。


 一緒に勉強するのが楽しい。


 一緒に話すのが楽しい。


 彼に笑ってほしいと思う。


 自分のことをもっと知ってほしいと思う。


 そして――


 また会いたいと思う。


「……」


 麗華は目を閉じた。


 昨日、初めて彼を名前で呼んだ。


「蓮……」


 声に出しただけで、胸が温かくなる。


 彼も自分を名前で呼んでくれた。


「麗華」


「……」


 その声を思い出すだけで、心臓がまた速くなる。


 今日、彼に誘われたとき。


 嬉しかった。


 彼と一緒に会場へ向かったときも。


 嬉しかった。


 彼と話しているときも。


 楽しかった。


 彼と踊っているときは――


 終わってほしくないと思った。


 そして、他の人から「お似合いのカップル」と言われたとき。


 恥ずかしかった。


 とても恥ずかしかった。


 けれど――


 本当に嫌だったわけではない。


「……」


 麗華は自分の胸に手を当てた。


 母の言葉を思い出す。


『その人がいないときでも、その人のことを考えてしまう』


『その人が笑っているだけで、自分まで嬉しくなる』


『その人のそばにいるだけで幸せだと思う』


「……全部」


 麗華の声が小さく震える。


「全部、当てはまってる……」


 もう、分からないふりはできなかった。


 ずっと自分の中で育っていた感情。


 いつの間にか、ライバルへの意識を越えていた。


 いつの間にか、ただの友人という言葉では足りなくなっていた。


 そして今。


 麗華は、ようやくその気持ちに名前をつけることができた。


「……そうだったんだ」


 小さく笑う。


「私……」


 少しだけ息を吸う。


「蓮のことが、好きなんだ」


 言葉にした瞬間。


 心臓が大きく跳ねた。


「……っ」


 麗華は両手で顔を覆った。


「本当に言っちゃった……」


 恥ずかしい。


 とても恥ずかしい。


 それなのに――


 笑顔が止まらなかった。


「……ふふっ」


 こんな気持ちは初めてだった。


 誰かに勝ちたいわけではない。


 誰かに認めてもらいたいわけでもない。


 ただ、その人のそばにいたい。


 その人の笑顔を見たい。


 その人にも笑っていてほしい。


 それだけで嬉しい。


「……私、恋をしてるんだ」


 麗華は小さく呟いた。


 その言葉に、不思議と怖さはなかった。


 むしろ――


 胸の奥が温かかった。


 一方、その頃。


 西園寺家へ戻るリムジンの中。


「今日は、かなり楽しかったです」


 運転席の神崎が言った。


「そうだな」


 蓮は窓の外を眺めながら答える。


「いろいろ大変だったけど、うまくできたと思う」


「それは何よりです」


「それに、麗華がいてくれて助かった」


「九条様をかなり信頼されているようですね」


「うん」


 蓮は素直に頷いた。


「本当にすごい人だと思う」


「そうですか」


「勉強もできるし、礼儀作法も完璧だし、人のこともちゃんと見てる」


 蓮は少し笑った。


「それに、一緒にいると楽しい」


 神崎は何も言わなかった。


 ただ、静かに前を見て運転を続ける。


 蓮は今日の出来事を思い返していた。


 社交の場。


 ダンス。


 麗華の笑顔。


 そして、最後に交わした「おやすみ」の言葉。


「……また学校で会えるな」


 蓮はそう呟いた。


 彼にとっては、それだけだった。


 今日一日を通して、麗華との距離が少し縮まった。


 それが嬉しかった。


 ただ、それ以上の意味にはまだ気づいていない。


 けれど――


 麗華にとっては違った。


 あの夜を境に、彼女はもう以前のように蓮を見ることができなくなった。


 ただのライバルでもない。


 ただのクラスメイトでもない。


 ただの友人でもない。


 彼女が初めて自分自身に認めた気持ち。


 それは――


 **恋だった。**


 そして翌日。


 学校で蓮と再び顔を合わせたとき、麗華はもう以前と同じ気持ちではいられない。


 そのことを、まだ蓮は知らない。

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