二人の距離を縮めたダンス
夜は、まだ始まったばかりだった。
会場となっているホテルの大広間へ入ると、蓮と麗華はさまざまな招待客から声をかけられた。
大きなシャンデリアが天井から吊るされ、会場全体を柔らかな光で照らしている。
穏やかな音楽が流れ、豪華なテーブルには美しく盛り付けられた料理や飲み物が並んでいた。
スーツ姿の男性たちが企業や投資について話し合い、華やかなドレスを身にまとった女性たちも、それぞれのグループで会話を楽しんでいる。
その中には、蓮たちと同じような年齢の若い令嬢や御曹司の姿もあった。
蓮はゆっくりと息を吸った。
学校で麗華と練習してきたとはいえ、やはり実際の社交の場は違う。
ここでは、一つの言葉にも意味がある。
一つの仕草でさえ、誰かに見られているかもしれない。
西園寺家の名前を背負っている以上、大きな失敗はできない。
「大丈夫ですよ」
隣から、麗華が小さな声で言った。
「……本当に?」
「はい。ちゃんとできています」
「さっき、何か間違えた気がしたんだけど」
「考えすぎです」
麗華は小さく微笑んだ。
「少し肩に力が入りすぎていますけど、それ以外は問題ありません」
「……それも神崎さんに言われた」
「では、二人から同じことを言われたのですから、間違いありませんね」
「それはそうだけど……」
蓮も苦笑した。
二人はそのまま会場を歩いていく。
次々と招待客が近づき、蓮に声をかけてくる。
「西園寺様、お会いできて光栄です」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「以前からお名前は伺っております」
「ありがとうございます」
蓮は丁寧に受け答えを続けた。
最初は明らかに緊張していた。
背筋を意識しすぎて身体が固くなり、何かを答えるたびに頭の中で何度も言葉を確認していた。
けれど、何人かと話しているうちに、少しずつ自然になっていった。
麗華はそんな蓮の様子を、隣から静かに見ていた。
姿勢。
歩き方。
挨拶。
言葉遣い。
会話の間。
その一つ一つを、これまで一緒に練習してきた。
そして今、蓮はそれを実際の社交の場で使っている。
麗華は、ほんの少しだけ嬉しくなった。
自分が教えたことが、ちゃんと役に立っている。
そんな気持ちだった。
しばらくすると、ある年配の男性が二人の前にやってきた。
周囲の反応を見る限り、かなり大きな企業を経営している人物らしい。
「なるほど。君が西園寺家の御曹司か」
蓮は軽く頭を下げた。
「初めまして。よろしくお願いします」
「最近、かなり勉強していると聞いたよ」
「まだまだです。これからもっと勉強しないといけないと思っています」
男性は楽しそうに笑った。
「それなら、少し質問してみようか」
そこから話題は、ある投資案件へと移っていった。
蓮も大まかな内容なら神崎から説明を受けていた。
しかし、男性から飛んできた質問はかなり具体的だった。
「この件について、君はどう考えている?」
「……」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
麗華はそれに気づいた。
彼女なら答えられる。
しかし、あえて口を挟まなかった。
蓮自身がどう答えるのかを見守る。
蓮は数秒考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「申し訳ありません。その案件については、まだ細かいところまで把握していません。間違ったことをお答えするより、正直に分からないとお伝えしたほうがいいと思います」
男性は少し驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに笑った。
「なるほど。なかなか賢明な答えだ」
「……ありがとうございます」
「知らないことを知ったふりするより、そのほうがずっといい。これから覚えていけばいいさ」
男性はそう言って、その場を離れていった。
蓮は小さく息を吐いた。
「……危なかった」
「でも、正解でしたよ」
「本当に?」
「はい」
麗華は蓮を見る。
「知らないことを知らないと認めたからこそ、余計な失敗をしなかったんです」
「じゃあ……合格?」
「今回は、です」
「相変わらず厳しいな」
「私はこういう人間ですから」
「知ってる」
麗華が小さく笑った。
二人はそのまま会場を歩き続けた。
何人もの招待客と挨拶を交わし、時には簡単な世間話をする。
蓮も少しずつ、この空気に慣れていった。
その様子を見ていた麗華は、いつの間にか自然と笑っている自分に気づいた。
以前の蓮とは違う。
けれど――
この蓮と一緒にいることが、思っていた以上に心地よかった。
やがて、会場に流れていた音楽が変わった。
穏やかだった曲が、ゆっくりとしたダンスの曲へ変わっていく。
何組もの招待客が、中央のスペースへ移動し始めた。
蓮はその様子を見て、表情を固くした。
「……来たか」
「何がですか?」
「ダンス」
麗華は少しだけ眉を上げた。
「緊張していますか?」
「少し」
「学校で何度も練習したでしょう?」
「したけど……」
蓮は会場を見回した。
「学校の空き教室とは違うからな」
「それはそうですね」
「しかも、ここには人がいっぱいいる」
「だからこそ、練習したことを思い出してください」
麗華はそう言って、蓮へ手を差し出した。
「私を信じてください」
蓮は差し出された手を見る。
そして、少しだけ笑った。
「分かった」
蓮は麗華の手を取った。
指先が触れ合う。
麗華の胸が、ほんの少しだけ高鳴った。
何度も練習したことなのに。
今日は、なぜか違って感じる。
「準備はできましたか?」
「できてない」
「では、準備できているということですね」
「どういう理屈だよ」
麗華は小さく笑った。
「行きましょう」
二人はダンスフロアへ向かった。
やがて音楽が始まる。
蓮は教えられた通りに動き始めた。
一歩。
もう一歩。
身体を回転させる。
位置を変える。
最初のうちは、蓮は自分の足元ばかり気にしていた。
「足元を見ないでください」
「でも、ちゃんと動いてるか確認しないと」
「大丈夫です」
「本当に?」
「今まで何度練習したと思っているんですか?」
「……かなり」
「なら、もう身体が覚えています」
麗華が微笑む。
「私を見てください」
蓮は顔を上げた。
そして、紫色の瞳と視線が重なる。
「……こう?」
「はい。それで大丈夫です」
二人は再び踊り始めた。
最初は蓮も一つ一つの動きを意識していた。
けれど、少しずつ変わっていった。
足元を確認しなくなった。
次の動きを考えなくなった。
ただ音楽に合わせて身体を動かす。
自然と、動きが滑らかになっていく。
「……すごく上手になりましたね」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、麗華のおかげだな」
「いいえ」
麗華は首を横に振った。
「今、踊っているのは蓮自身です」
「……そっか」
蓮は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、麗華も自然と笑った。
いつの間にか、彼女の表情から緊張が消えていた。
紫色の瞳が楽しそうに輝いている。
普段、社交の場で見せる完璧な笑顔ではない。
もっと自然で、柔らかな笑顔だった。
蓮もそんな麗華を見て、笑みを浮かべる。
「何ですか?」
「いや」
「何か言いたそうですね」
「麗華が笑ってるなって」
「……それが何か?」
「なんとなく」
蓮は少し照れたように笑った。
「こうやって笑ってるほうが、麗華には似合ってると思って」
「……」
麗華の胸が跳ねた。
「本当に?」
「うん」
蓮は何でもないことのように答えた。
「今日、楽しそうだから」
麗華は一瞬、言葉を失った。
それから、小さく笑う。
「……はい」
二人は踊り続けた。
一度、身体を回転させる。
視線が重なる。
また離れる。
そして再び重なる。
そのたびに、麗華は自然と笑顔になった。
周囲からも、二人の姿を見ている人たちが少しずつ増えていく。
「随分と息が合っていますね」
「若いのに、とても綺麗なダンスだ」
「二人とも楽しそうだ」
そんな声が聞こえてくる。
そして、ある招待客が二人を見ながら笑顔で言った。
「この二人、本当にダンスが上手だな」
麗華には、その言葉がはっきりと聞こえた。
「……」
そして、その次の一言。
「まるでお似合いのカップルみたいだ」
「……っ!」
麗華の顔が一気に赤くなる。
「れ、麗華?」
蓮が不思議そうに見る。
「どうした?」
「な、何でもありません」
「でも、顔が赤いけど」
「赤くありません」
「いや、赤いだろ」
「気のせいです」
麗華は必死に平静を装った。
しかし、頬の熱はまったく引かない。
しかも、先ほどの言葉が頭から離れない。
――お似合いのカップル。
「……」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「暑いの?」
「……はい」
麗華は苦し紛れに答えた。
蓮は周囲を見回した。
「でも、ここは結構涼しいけど」
「……」
麗華は何も言えなくなった。
蓮は首を傾げる。
「?」
その様子が妙におかしくて、麗華は思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
「何?」
「いえ……」
「今、笑っただろ」
「少しだけです」
「やっぱり」
「蓮が変なことを言うからです」
「俺?」
「そうです」
麗華は笑いながら、再び彼の手を握り直した。
音楽はまだ続いている。
もう、緊張している様子はなかった。
蓮も笑っている。
麗華も笑っている。
そして二人は、まるで最初からそうしていたかのように自然に踊り続けた。
周囲からの視線も、今は気にならなかった。
何も考えず、ただ一緒に踊る。
それが楽しかった。
やがて曲が終わる。
最後の音が静かに消えた。
蓮と麗華は、互いに向き合ったまま立っていた。
そして――
会場から拍手が起こった。
「……え?」
蓮が驚いたように周囲を見る。
「みんな、見てたのか?」
麗華は小さく笑った。
「そのようですね」
「恥ずかしいな……」
「今さらですか?」
「少しだけ」
「では、お互い様ですね」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
何人かの招待客が二人のもとへやってきた。
「素晴らしいダンスでした」
「二人の息がぴったりでしたね」
「とても優雅でした」
「一緒に練習されたのですか?」
蓮は笑顔で答える。
「はい。少しだけ練習しました」
麗華は隣で静かに頷く。
「とてもお似合いでしたよ」
「……っ」
また麗華の顔が赤くなる。
蓮はそんな麗華を見て、少し不思議そうにする。
「麗華、また赤くなってる」
「……もう、その話はやめてください」
「分かった」
蓮は笑った。
麗華も仕方なさそうに笑う。
しばらくして、二人は人の少ない場所へ移動することにした。
会場の外にあるテラスへ出る。
扉が閉まると、会場内の音が少し遠くなった。
夜風が二人の髪を優しく揺らす。
遠くには、東京の夜景が広がっていた。
「……ここは静かですね」
「うん」
麗華が手すりに手を置く。
蓮もその隣に立った。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
やがて蓮が口を開いた。
「今日は、ありがとう」
麗華が振り向く。
「何がですか?」
「一緒に来てくれて」
「そんなこと……」
「でも、本当に助かった」
蓮は笑う。
「麗華がいてくれたから、かなり安心できた」
「……」
麗華の胸が、また少しだけ高鳴った。
「私が一緒にいたかっただけです」
「え?」
「……」
麗華は自分が何を言ったのかに気づき、少しだけ視線を逸らした。
「その……」
「うん?」
「私も、来てよかったと思っています」
「本当?」
「はい」
麗華は静かに頷いた。
「最初は、あなたを助けるために一緒に行こうと思っていました」
「うん」
「でも……」
「でも?」
麗華は少し迷った。
「この日を、楽しみにしていたんです」
蓮は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、誘ってよかった」
「……はい」
麗華は彼の顔を見る。
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになる。
ただの笑顔なのに。
もっと見ていたいと思ってしまう。
「蓮……」
「ん?」
何かを言おうとした。
でも、言葉が出てこなかった。
「……何でもありません」
「そう?」
「はい」
麗華は夜景へ視線を戻した。
胸の鼓動が、まだ少し速い。
どうしてだろう。
少し前まで、蓮はただのライバルだった。
中等部では、いつも彼の背中を追いかけていた。
負けたくないと思っていた。
その後、高等部で再び出会い、勉強を教えるようになった。
礼儀作法を教えた。
一緒に練習した。
そして、昨日。
初めて彼を「蓮」と呼んだ。
彼も自分を「麗華」と呼んでくれた。
今日も一緒に会場へ来た。
一緒に話した。
一緒に笑った。
そして、一緒に踊った。
どうして――
こんなにも嬉しいのだろう。
どうして、彼が笑うだけで嬉しくなるのだろう。
どうして、彼に褒められただけで、こんなにも心が温かくなるのだろう。
そして――
どうして、さっき他の人から「お似合いのカップル」と言われたとき、嫌ではなかったのだろう。
「……」
麗華は自分の胸にそっと手を当てた。
まだ、答えは分からない。
でも――
何かが変わった。
それだけは、はっきりと分かった。
「そろそろ戻ろうか」
蓮が言った。
「はい」
蓮が手を差し出す。
麗華は、その手を見つめた。
そして、ゆっくりと手を重ねる。
「行きましょう」
「うん」
二人は再び会場へ戻っていく。
その途中、麗華は隣を歩く蓮を見た。
彼はいつも通りだった。
何も変わっていない。
けれど、自分の中では何かが変わってしまった。
そして――
その変化を、もう否定したくなかった。
――もっと、この人のそばにいたい。
そんな思いが、胸の中に浮かんだ。
麗華はその言葉を心の中で繰り返す。
もっと、蓮のそばにいたい。
まだ、その気持ちに名前をつける勇気はなかった。
けれど、この夜が終わったとき。
麗華はきっと、以前と同じ気持ちではいられなくなっている。
そんな予感だけは、確かにあった。




