庭園で交わした名前
昼食を終えたあとも、しばらくの間、両親との会話が続いた。
恒一さんから学校のことや、最近の生活についていくつか質問された。
ここ数週間、礼儀作法や社交の場での振る舞いを練習してきたおかげで、なんとか落ち着いて答えることができた。
すると、美沙さんが麗華を見る。
「麗華、よかったら蓮くんに庭を案内してあげたら?」
「庭を?」
「ええ。最近、あなたもあまり庭に出ていないでしょう?」
麗華は少し考えたあと、頷いた。
「分かったわ」
そして、俺のほうを見る。
「よかったら、見てみますか?」
「もちろん」
俺たちは席を立ち、屋敷の外へ出た。
九条家の庭園は、とても広かった。
綺麗に整えられた石畳の道。
丁寧に手入れされた木々。
色とりどりの花。
そして庭園の中央には、小さな噴水まである。
屋敷の中とはまた違った、静かで落ち着いた空間だった。
俺たちは並んで歩く。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、心地よい静けさだった。
やがて、麗華が口を開く。
「今日は……来てくださって、ありがとうございます」
「え?」
「突然、両親に会ってほしいなんてお願いしてしまったでしょう?」
「それなら気にしなくていいよ」
俺は笑った。
「俺も楽しかったし」
「本当ですか?」
「うん」
庭を見渡す。
「九条さんのご両親も優しかったし、こういう場所を歩くのも楽しい」
麗華は少し安心したように微笑んだ。
「それなら、よかったです」
俺は少し考えてから、続けた。
「それに、俺のほうこそ九条に感謝してる」
麗華が足を止める。
「私に?」
「うん」
「どうして?」
俺はこれまでのことを思い出した。
数学の勉強。
礼儀作法。
紅茶。
食事のマナー。
そしてダンス。
「いろいろ教えてもらったから」
「……」
「もし九条がいなかったら、明日の社交の場でもっと緊張してたと思う」
麗華は少しだけ視線を落とした。
「そんなに感謝しなくてもいいですよ」
「でも、本当に助かってる」
「……そうですか」
麗華は小さく笑った。
「それなら……よかったです」
再び歩き始める。
しばらくして、麗華がまた口を開いた。
「西園寺くん」
「ん?」
麗華が足を止める。
何かを迷っているようだった。
「どうした?」
「……少し、お願いがあるのですが」
「お願い?」
「はい」
麗華は一度深呼吸した。
そして、少し赤くなった頬を隠すように視線を逸らした。
「その……」
「うん」
「私……あなたのことを、名前で呼んでもいいでしょうか?」
「名前?」
「はい」
麗華は俺を直接見ないまま続ける。
「今まではずっと、『西園寺くん』と呼んでいましたから……」
少しだけ間を置く。
「でも……これまで一緒に勉強したり、礼儀作法を教えたり……いろいろありましたし」
声が少し小さくなる。
「その……」
麗華はさらに頬を赤くした。
「蓮、と呼んでも……いいですか?」
少し意外だった。
でも、断る理由はない。
「もちろん」
麗華がゆっくり顔を上げる。
「……本当ですか?」
「うん。俺は気にしないよ」
俺は笑った。
「好きに呼んでいいよ」
麗華の顔がさらに赤くなる。
「では……」
麗華は少しだけ息を吸った。
そして――
「……蓮」
自分の名前を、麗華の口から聞く。
なんだか少し不思議な感じがした。
でも、嫌ではなかった。
「うん」
麗華はすぐに視線を逸らした。
「……」
「どうした?」
「いえ……何でもありません」
「本当に?」
「はい」
頬はまだ赤い。
俺は少しだけ考えた。
麗華が俺を名前で呼ぶなら――
俺も同じように呼んでみてもいいのかもしれない。
「じゃあ、俺も名前で呼ぶよ」
麗華の動きが止まった。
「え?」
「麗華」
「……!」
麗華の目が大きく開く。
そして、頬が一気に赤くなった。
「ど、どうしました?」
「いえ……」
「顔、すごく赤いけど」
「赤くありません!」
「いや、赤いと思うけど」
「……」
麗華は慌てたように顔を逸らした。
「……恥ずかしいです」
「え?」
「何でもありません!」
麗華は顔を隠すように手を頬に当てた。
俺は思わず笑ってしまう。
「笑わないでください」
「ごめん」
「絶対、笑っています」
「少しだけ」
「もう……」
学校では、いつも完璧に見える麗華。
礼儀正しくて、真面目で、誇り高くて。
でも、こうして二人きりになると――
ただの十五歳の女の子なんだと、改めて感じた。
俺たちは再び歩き始めた。
さっきまでとは、少しだけ空気が違う。
「西園寺くん」と「九条さん」ではなくなった。
今は――
「蓮」と「麗華」。
たったそれだけの変化なのに、不思議と距離が少し近くなったように感じた。
麗華はまだ少し赤い顔をしていた。
それでも、時々こちらを見ては、小さく笑っている。
明日は、いよいよ社交の場だ。
俺たちの関係が、この先どう変わっていくのか。
このときの俺は、まだ何も知らなかった。




