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九条家の両親が俺に会いたいらしい

金曜日の夜。


礼儀作法の練習を終えた麗華は、九条家の屋敷へと帰ってきた。


広々とした屋敷は、夜の静けさに包まれている。


麗華は玄関でコートを使用人に預けると、そのまま廊下を歩いていった。


「お帰りなさいませ、麗華お嬢様」


「ありがとう」


普段なら、学校から帰ってきた麗華の表情はいつも落ち着いている。


しかし、その日の彼女には少しだけ違うところがあった。


口元に、小さな笑みが浮かんでいたのだ。


そして、それに気づいた人物がいた。


「麗華」


麗華が顔を上げる。


廊下の先に、母親が立っていた。


「何?」


「なんだか、機嫌が良さそうね」


「え?」


麗華は思わず自分の頬に手を当てた。


「そう?」


「ええ」


母親は優しく微笑む。


「今日は楽しい一日だったのかしら?」


「別に、そういうわけじゃ……」


「そう?」


「日曜日の社交の場に向けて、最後の練習をしていただけよ」


母親は麗華を数秒見つめる。


そして、何気ない口調で尋ねた。


「あなたを誘った男の子のこと?」


麗華の動きが止まった。


「……」


「誰のこと?」


「今朝、話していた男の子よ」


麗華の頬が少しずつ赤くなる。


「……西園寺蓮」


そのとき、別の部屋から男性の声が聞こえた。


「西園寺?」


麗華が振り返る。


どうやら父親も会話を聞いていたらしい。


「……まさか、雅宏さんの息子か?」


「そうよ」


「なるほど」


父親は腕を組み、少し楽しそうに笑った。


「それなら、いい相手を選んだじゃないか」


「えっ!?」


麗華の顔が一気に赤くなる。


「ち、違います! そういう意味じゃありません!」


「どういう意味だ?」


「だから……その……!」


「私は何も言っていないぞ」


父親は楽しそうに笑った。


母親も小さく笑う。


「お父さんはからかっているだけよ」


「……」


麗華は腕を組み、顔を逸らした。


「ただのクラスメイトです」


父親が麗華を見る。


「ただのクラスメイトを、社交の場に一緒に行こうと誘ったのか?」


「彼のほうから誘ってきたの!」


「ほう」


父親の笑みが少し深くなる。


「それなら話は違うな」


「お父さん!」


母親が再び笑う。


「もう、そのくらいにしてあげましょう」


「分かった」


父親はそう言ったものの、しばらく考えたあと、口を開いた。


「しかし、私も会ってみたいな」


麗華が顔を上げる。


「会う?」


「ええ」


母親も頷いた。


「私も会ってみたいわ」


「どうして?」


「私たちの娘が、大切な社交の場に一緒に行く相手ですもの」


麗華は黙り込む。


母親は続けた。


「それに、西園寺家の御曹司なのでしょう?」


父親が頷く。


「九条家と西園寺家は、昔から付き合いのある家だ。明日、本人に会っておくのも悪くない」


「明日……?」


「ええ。社交の場の前に」


麗華は少し驚いた。


「でも……」


「心配するな」


父親が笑う。


「面接をするわけじゃない。ただ、娘が一緒に行く相手に挨拶をしたいだけだ」


「……分かったわ」


麗華は頷いた。


けれど、内心ではかなり緊張していた。


両親が蓮に会う。


そう考えただけで、昼間の出来事が頭に浮かんでくる。


『一緒に行かない?』


その言葉を思い出すだけで、また頬が熱くなった。


母親はそんな麗華の様子を見ていた。


しかし、何も言わなかった。


その夜。


麗華は自分の部屋でスマートフォンを手に取った。


少し迷ったあと、蓮とのメッセージ画面を開く。


そして、文章を打ち込んだ。


『明日の午前中、時間はありますか?』


しばらくすると、返信が届いた。


『うん。どうした?』


麗華は一度深呼吸してから、次の文章を送る。


『明日、九条家の屋敷に来ていただけますか?』


すぐには返信が来なかった。


やがて、


『九条家の屋敷に?』


と返ってくる。


『はい。両親があなたにお会いしたいそうです』


しばらくして――


『……分かった』


そして、


『でも、急だな』


麗華は少しだけ笑った。


『申し訳ありません。私も今日聞かされました』


『大丈夫。何時に行けばいい?』


『午前十一時でお願いします』


『了解』


麗華はスマートフォンを机の上に置いた。


胸が少しだけ速く鼓動している。


「……」


どうしてこんなに緊張しているのだろう。


ただ、クラスメイトを両親に紹介するだけ。


それだけのことなのに。


少なくとも、麗華はそう自分に言い聞かせていた。


***


一方、その頃。


西園寺家の屋敷。


「えっ!?」


俺はスマートフォンの画面を見て、思わず声を上げた。


「九条の両親が俺に会いたい?」


目の前では、神崎さんがいつものように落ち着いた様子で立っている。


「そのようです」


「どうして?」


「おそらく、麗華様から日曜日の社交の場に悠斗様と一緒に行くことを聞かされたのでしょう」


「……」


俺はもう一度メッセージを見る。


「こんなの予定になかったんだけど……」


神崎さんが小さく笑った。


「名家同士の関係というものは、なかなか予定通りにはいかないものです」


「それ、俺に言われても困るよ」


「緊張されていますか?」


「少し」


神崎さんは少し考える。


「ですが、良い機会でもあるでしょう」


「良い機会?」


「九条家と西園寺家は、経済界でもほぼ同格の家柄です」


「それは分かってるけど、俺は別に九条とビジネスをしようとしてるわけじゃないよ」


「もちろん承知しております」


神崎さんは少し笑った。


「ただ、九条家のご両親には、別の意図があるかもしれませんね」


「別の意図?」


「例えば――」


神崎さんが少し間を置く。


「ご令嬢と親しくしている少年が、どのような人物なのか知りたい、とか」


「……」


背中に嫌な汗が流れた。


「まさか、神崎さんも俺と同じことを考えてる?」


「悠斗様が何を考えているのかは分かりません」


「絶対、婿候補として見られるとか、そういう話じゃないよな?」


神崎さんは小さく笑った。


「それは少々気が早いのではないでしょうか」


「笑い事じゃないよ!」


「ご心配なさらずとも大丈夫です」


俺はため息をついた。


「……分かった」


もう一度スマートフォンを見る。


「明日の十一時か……」


「ご武運を」


「ありがとう」


しかし、これまでの礼儀作法の練習よりも、明日のほうがよほど緊張する気がした。


***


土曜日。


午前十一時少し前。


車が大きな屋敷の前で止まった。


俺は車から降りる。


そして――


思わず、その場で立ち止まった。


「……」


九条家の屋敷は、想像していた以上に大きかった。


広大な敷地。


綺麗に整えられた庭園。


格式を感じさせる建物。


そして、広々とした正門。


「すごい……」


思わず呟いてしまう。


正直に言えば、少しだけ西園寺家の屋敷より大きいように見えた。


「……本当に、こんなところに住んでるのか」


俺は小さく息を吐いた。


緊張するな。


ここ数日、こういう場面のために練習してきたんだ。


ネクタイを整える。


背筋を伸ばす。


そして、玄関へ向かった。


扉が開く。


「ようこそ」


そこに立っていたのは、麗華だった。


今日は学校の制服ではない。


上品で落ち着いた色合いのドレスを身にまとっている。


長い濃い青色の髪は綺麗に整えられ、深い紫色の瞳がいつも以上に印象的だった。


俺は思わず見つめてしまう。


「……」


麗華が少し不安そうに尋ねる。


「どうしました?」


「いや……」


俺は少し迷った。


「その……すごく綺麗だなと思って」


麗華の目がわずかに見開かれる。


そして――


頬が赤くなった。


「……ありがとうございます」


麗華は視線を逸らす。


「あなたも……その」


「俺?」


「よく似合っています」


麗華の声は、いつもより少し小さかった。


「ありがとう」


なぜか、今度は麗華のほうが緊張しているように見える。


「では……どうぞ」


「うん」


俺は屋敷の中へ入った。


そして、また驚く。


広々とした廊下。


上品な家具。


大きな窓。


飾られた美術品。


どこを見ても、九条家が持つ莫大な財力と歴史を感じさせる。


麗華が俺の隣を歩く。


「両親が待っています」


「分かった」


俺たちは広い応接室へ向かった。


中には、男女二人がいた。


男性が先に立ち上がる。


黒い短髪は綺麗に整えられ、こめかみにはわずかに白いものが混じっている。


黒い瞳。


整った顔立ち。


落ち着いた威厳のある雰囲気。


体つきも引き締まっており、仕立ての良い濃い色のスーツを着ていた。


その隣には、一人の女性が立っている。


長い黒に近い青色の髪を上品にまとめている。


深い紫色の瞳。


繊細な顔立ち。


そして、落ち着いた優雅な雰囲気。


麗華とは違った美しさを持っているが、目元や顔立ちにはどこか似たところがあった。


麗華が二人の前に進み出る。


「お父さん、お母さん」


男性が微笑んだ。


「ようこそ」


そして、俺に手を差し出した。


「九条恒一だ」


「初めまして」


俺はその手を握る。


「西園寺蓮です」


続いて女性が軽く頭を下げた。


「九条美沙です」


「初めまして」


美沙さんは優しく微笑んだ。


「ようやく会えたわね」


恒一さんが続ける。


「西園寺グループの御曹司と直接会えて嬉しく思うよ」


「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」


「そんなに固くならなくていい」


恒一さんは笑った。


「九条家と西園寺家は、昔から付き合いのある家だ」


「はい」


麗華は俺の隣に立っている。


いつも学校で見ている彼女とは違い、少しだけ緊張しているように見えた。


恒一さんがそんな麗華を見る。


「麗華」


「何?」


「そんなに緊張するな」


「していません」


美沙さんが微笑む。


「そうは見えないけれど」


「お母さん……」


思わず笑ってしまった。


家では、麗華も普通の十五歳の女の子なのかもしれない。


***


その後、俺たちは昼食を一緒にすることになった。


料理はどれも上品で、見るだけでも緊張するようなものばかりだった。


俺はこれまで教わったことを思い出す。


ナイフとフォークの使い方。


姿勢。


食事中の会話。


話すタイミング。


幸い、大きな失敗をすることはなかった。


食事の途中、恒一さんと美沙さんから学校のことや勉強について質問された。


俺は一つずつ丁寧に答えていく。


しばらくして、美沙さんが麗華を見る。


そして、俺に視線を戻した。


「蓮くん」


「はい?」


「あなたに、お礼を言いたかったの」


「お礼……ですか?」


「ええ」


麗華が少し顔を上げる。


美沙さんは優しく微笑んだ。


「あなたと一緒に勉強したり、日曜日の準備をしたりするようになってから、麗華が少し変わった気がするの」


「変わった?」


「ええ。以前よりも、少し肩の力が抜けているわ」


恒一さんも頷く。


「それに、よく笑うようになった」


「お父さん……」


麗華の頬が赤くなる。


恒一さんは俺を見る。


「父親として、娘が楽しそうにしているのは嬉しいことだ」


そして、俺に向かって言った。


「麗華のそばにいてくれて、ありがとう」


俺は少し驚いた。


「……俺も、九条には感謝しています」


麗華が顔を上げる。


「私に?」


「うん」


俺は笑った。


「勉強も礼儀作法も、いろいろ教えてもらったから」


麗華の頬が再び赤くなる。


「私は……自分がやるべきことをしていただけです」


「それでも、ありがとう」


「……どういたしまして」


麗華は少しだけ俯いた。


美沙さんはそんな二人を見ながら、微笑んでいた。


***


昼食が終わったあと。


俺が恒一さんと少し話している間に、美沙さんが麗華を呼んだ。


「麗華、ちょっといい?」


「何?」


「少しだけ」


二人は少し離れた場所へ移動する。


そして、他の人には聞こえない声で美沙さんが言った。


「麗華、よかったわね」


「え?」


「どうやら、あなたにとって特別な人ができたみたいね」


麗華の顔が一気に赤くなる。


「お、お母さん!」


「何?」


「違うから!」


「私はまだ何も言っていないわよ?」


「でも、そういう意味で言ったでしょう!」


美沙さんは楽しそうに笑った。


「そうかもしれないわね」


「もう……!」


麗華は両手で頬を隠す。


「蓮は、ただのクラスメイトだから」


「ただのクラスメイト?」


「そう」


「じゃあ、どうしてそんなに赤くなっているの?」


「……」


麗華は言葉に詰まった。


しばらく黙ったあと、小さな声で答える。


「……でも」


「ええ」


「一緒にいると……なんだか、落ち着くの」


美沙さんは何も言わず、優しく微笑んだ。


「それだけでも、十分大切なことだと思うわ」


「……」


麗華は少しだけ頷いた。


「でも、今はまだ……分からない」


「分からなくてもいいのよ」


美沙さんは優しく麗華の髪に触れた。


「焦らなくていいわ」


麗華は小さく頷いた。


けれど、その胸の中には確かに一つの感情が芽生え始めていた。


蓮と一緒にいると、自然に笑える。


肩の力を抜くことができる。


そして――


なぜか、もっと一緒にいたいと思ってしまう。


一方、そのことを何も知らない俺は、そろそろ帰る時間だと思いながら、明日の社交の場について考えていた。


明日は、いよいよ本番だ。


そして今回は――


一人ではない。


俺の隣には、少しずつ大切な存在になり始めている少女がいる。


そのことを、このときの俺はまだ深く考えていなかった。

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