お嬢様への誘い
これまで何日も続けてきた礼儀作法の練習も、いよいよ終盤に入っていた。
挨拶。
姿勢。
歩き方。
座り方。
正式な会話。
名刺の渡し方。
避けるべき話題。
食事の作法。
紅茶の飲み方。
そして、簡単なダンスまで。
最初は覚えることが多すぎて、頭がパンクしそうだった。
けれど、少しずつ練習を重ねるうちに、俺もようやく慣れてきた。
そして何より――
麗華も、以前より少しだけ柔らかくなった気がする。
最初の頃は、常に真剣な表情で俺の動きを見ていた。
間違えればすぐに指摘される。
姿勢が悪ければ直される。
紅茶の持ち方が違えば、すぐにやり直し。
そんな厳しい練習だった。
それでも最近は、俺が失敗すると小さく笑うことも増えていた。
今日も最後の練習を終え、麗華は使った道具を丁寧に片付けていた。
「今日はここまでです」
「もう終わり?」
「はい。十分です」
俺は椅子から立ち上がり、軽く肩を伸ばした。
「ようやく、少し分かってきた気がする」
麗華がこちらを見る。
「かなり上達しましたよ」
「本当に?」
「ええ」
麗華は少しだけ考えるように間を置いてから、続けた。
「最初は、もっと時間がかかると思っていました」
「それ、ちょっとひどくない?」
「悪気はありません」
「でも、そう思ってたんだろ?」
「……少しだけ」
「やっぱり!」
思わず声を上げると、麗華は小さく笑った。
「ですが、本当に覚えるのが早いと思います」
「ありがとう」
俺も笑った。
麗華がこうして笑っているのを見ると、なんとなく嬉しくなる。
そして、俺にはもう一つ聞きたいことがあった。
明後日の日曜日。
俺は西園寺家の人間として、名家が集まる社交の場に参加する。
神崎さんからも、あの場は今までの練習よりも厳しいと言われていた。
正直、一人で行くのは少し不安だった。
だからこそ――
俺は麗華に聞いてみることにした。
「九条」
「はい?」
「明後日の社交の場なんだけど……」
麗華がこちらを見る。
「何か問題でも?」
「いや。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
俺は少しだけ迷った。
九条家と西園寺家の関係を利用したいわけではない。
ただ、麗華ならあの場所での振る舞いをよく知っている。
そして、俺にとっても心強い存在だった。
だから、思い切って口にした。
「一緒に行かない?」
麗華の動きが止まった。
「……」
返事がない。
「えっと……」
俺は慌てて付け加えた。
「その、イベントのことだよ。九条も参加するんだろ?」
「……はい」
「それなら、俺はああいう場所に慣れてないし……九条と一緒なら、少し安心できるかなって」
麗華は黙ったまま俺を見ている。
そして――
頬が、少し赤くなっていた。
「九条?」
「……」
麗華は視線を逸らした。
頬の赤みが、少しずつ濃くなっていく。
「私を……誘っているのですか?」
「うん」
「……私を?」
「そうだけど」
麗華はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その表情には、いつもの誇り高い雰囲気が戻っていた。
「……もちろんです」
「本当?」
「ええ」
麗華は少しだけ顎を上げる。
「何しろ――」
一瞬だけ間を置く。
「あなたは、偉大なる九条麗華と一緒に行くのですから」
「……」
思わず黙ってしまった。
「何ですか?」
「いや……」
「何か言いたそうですね」
「本当に『偉大なる九条麗華』って言うんだな」
「何か問題でも?」
「いや、別に」
麗華はさらに胸を張った。
「九条家の人間として、あのような場であなたを一人にするわけにはいきません」
「……そういうことか」
「ええ。私がいれば、あなたも安心でしょう?」
「うん。助かるよ」
そう言った瞬間だった。
麗華の顔が、また少し赤くなった。
「……」
「九条?」
「な、何でもありません」
「顔、赤くない?」
「赤くありません!」
「いや、赤いと思うけど」
「これは……その……!」
麗華は頬を手で隠した。
そして、何かをごまかすように顔を上げる。
「オーホッホッホッホ!」
突然、教室に高らかな笑い声が響いた。
「……」
俺は呆然と麗華を見る。
「……何?」
「いえ」
麗華は必死に平静を装っていた。
「どうやら、あなたもようやく私の偉大さを理解したようですね」
「いや、全然関係ないと思うけど……」
「関係あります」
「そうかな……」
麗華はまだ少し赤い顔をしていた。
それを隠すように、再び顎を上げる。
「とにかく、明後日は私に任せてください」
「分かった」
俺は笑った。
「じゃあ、頼りにしてるよ。偉大なる九条麗華」
「……!」
麗華の顔がまた赤くなる。
「オーホッホッホッホ! 当然です!」
また、その笑い声。
どうやら本当に恥ずかしいらしい。
でも、俺にはまだその理由がよく分からなかった。
「それじゃ、また連絡するね」
「……はい」
俺は教室を出た。
その後ろで、麗華はしばらく動かなかった。
そして、誰もいなくなった教室で小さく呟く。
「……一緒に行く、って……」
自分の頬に触れる。
まだ熱い。
「……どうして、こんなに嬉しいのかしら」
麗華自身も、その答えをまだ知らなかった。
一方、俺は別のことを考えていた。
二日後には、西園寺家を代表して、日本でも有数の名家が集まる社交の場に出席することになる。
そして今度は――
一人ではない。
俺の隣には、あの「偉大なる九条麗華」がいる。
そんな何気ない誘いが、俺と麗華の関係を少しずつ変えていることを、このときの俺はまだ知らなかった。




