お嬢様の礼儀作法講座
翌日の放課後。
俺は九条に言われた通り、昨日と同じ場所へ向かっていた。
校舎の一角にある、普段はあまり使われていない広めの教室。
そこにはすでに九条が待っていた。
「遅かったですね、西園寺さん」
「ごめん。少し先生に呼ばれてた」
「そうですか。それなら問題ありません」
九条はそう言うと、教室の中へ入っていく。
俺も後に続いた。
教室の中には、昨日とは違っていくつかのテーブルと椅子が整然と並べられていた。
さらに、その一角には紅茶とティーカップまで用意されている。
「……これ、全部九条が準備したの?」
「はい」
「本格的すぎない?」
「社交の場を想定するなら、これくらいは必要です」
「学校の放課後だよ?」
「だからこそ、練習するのです」
相変わらず真面目だ。
俺は小さく息を吐き、教室の中央へ移動した。
九条がこちらを見る。
「では、始めましょう」
「お願いします」
「まずは姿勢からです」
「また?」
「昨日も言いましたが、姿勢は基本です」
俺は背筋を伸ばす。
「背筋を伸ばして……」
「伸ばしすぎです」
少し力を抜く。
「肩の力を抜いて」
肩を下げる。
「今度は力を抜きすぎです」
「どうすればいいんだよ!」
思わず声が大きくなる。
九条が少しだけ目を細めた。
「声量も調整してください」
「……はい」
昨日と同じだ。
どうやら俺にはまだまだ問題が多いらしい。
その後も、歩き方、立ち方、座り方、頭の下げ方など、一つずつ確認していった。
最初は一つの動作をするたびに、頭の中で何をすればいいのか考えていた。
けれど――
何度も繰り返しているうちに、少しずつ身体が覚えていった。
「もう一度お願いします」
俺が頭を下げる。
「……はい」
顔を上げる。
「今度は自然です」
「本当?」
「ええ」
もう一度。
「こちらも問題ありません」
三回目。
九条が少し驚いたように俺を見る。
「……上達が早いですね」
「そう?」
「昨日の時点では、かなり苦労していましたから」
「じゃあ、俺って才能あるんじゃない?」
「調子に乗らないでください」
「はい」
即答だった。
九条は小さくため息をつく。
しかし、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
「ですが……思っていたより早く感覚を掴んでいます」
「感覚?」
「はい。礼儀作法は、すべてを頭で考えていると不自然になります。繰り返して、身体に覚えさせることが大切です」
「なるほど」
「最初よりかなり自然になりました」
「よし」
思わず拳を握る。
「これなら社交の場でも――」
「まだ早いです」
「……はい」
次は会話の練習だった。
九条が向かい側の椅子に座る。
「私を初対面の相手だと思ってください」
「分かった」
「では、始めます」
九条は一瞬で表情を変えた。
さっきまでの柔らかな雰囲気が消え、完全に社交の場にいるお嬢様の顔になる。
「初めまして。九条麗華と申します」
俺も姿勢を正す。
「初めまして。西園寺蓮です」
「本日はお会いできて光栄です」
「こちらこそ」
九条が少し待つ。
「……」
「……?」
「もう少し会話を続けてください」
「え?」
「これでは挨拶だけで終わっています」
「だって、次に何を言えばいいのか分からない」
「相手のことを尋ねてもいいでしょう」
「ああ……」
少し考える。
「今日は暑いですね」
九条が無言になる。
「……」
「……駄目?」
「駄目ではありません」
「じゃあ――」
「ただし、社交の場で初対面の方にする話としては、あまり適切とは言えません」
「天気の話も駄目なのか……」
「駄目とは言っていません」
九条の口元が少し緩む。
「ただ、もう少し相手に関心を持った質問をした方がいいでしょう」
「なるほど」
もう一度やり直す。
今度はなんとか会話を続けることができた。
何度か失敗したものの、少しずつコツが分かってくる。
そして、次は食事の作法。
テーブルの前に座り、九条が説明を始める。
「ナイフとフォークは――」
「これ?」
俺が持ち上げる。
「違います」
「え?」
「そちらはスプーンです」
「……」
九条が黙って俺を見る。
俺もスプーンを見る。
「……似てるじゃん」
「似ていません」
「いや、形はちょっと――」
「全然違います」
「はい……」
九条が小さく笑った。
「ふふっ……」
「今、笑った?」
「笑っていません」
「いや、笑っただろ」
「気のせいです」
明らかに笑っている。
昨日までの彼女なら、もっと厳しい顔をしていたはずだ。
俺はふと気づいた。
「九条」
「はい?」
「最近、少し元気になった?」
九条の動きが止まった。
「……え?」
「昨日より、なんか笑ってる気がする」
「……」
「昨日は社交のことを気にしてたけど、今日はずっと楽しそうだし」
九条は少しだけ視線を逸らした。
「そう……でしょうか」
「うん」
俺は素直に答える。
「その方がいいと思う」
「……なぜ?」
「だって、笑ってる方が九条には似合ってるから」
「……っ」
九条の頬が、ほんのり赤くなった。
「九条?」
「……」
「どうした?」
「……そういうことを、簡単に言わないでください」
「え?」
「今のようなことです」
「でも、本当にそう思ったから」
「……」
九条はさらに顔を赤くする。
「……西園寺さんは、時々そういうことを平然と言いますね」
「何か変だった?」
「変というより……」
九条は言葉を止める。
「……いえ。何でもありません」
そう言って、顔を背けた。
俺には何が問題だったのか、よく分からなかった。
しばらくして、九条は小さく息を吐き、再びこちらを見る。
まだ少し頬が赤い。
「では、続けます」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「顔、赤いけど」
「練習のせいです」
「練習?」
「そうです」
「でも、さっきから座ってるだけ――」
「次に進みます」
強引に話を切られた。
……まあ、いいか。
その後も練習は続いた。
挨拶。
会話。
食事。
相手との距離。
立ち位置。
視線。
そして、社交の場での振る舞い。
最初は何も分からなかった俺も、何度も繰り返しているうちに少しずつできるようになっていった。
やがて、九条が時計を見る。
「今日はここまでにしましょう」
「もう終わり?」
「はい。かなり集中していましたから」
「思ったより疲れた……」
俺は椅子に座り込む。
九条が少し笑う。
「ですが、今日はかなり上達しました」
「本当に?」
「はい。正直、これほど早く覚えるとは思っていませんでした」
「よし!」
「ただし、復習は必要です」
「やっぱりあるのか……」
九条は自分のスマートフォンを取り出した。
「実は、今日練習した内容を復習できる動画があります」
「動画?」
「はい。礼儀作法や挨拶、会話の例などを説明しているものです」
「それなら家でも見られる?」
「そのために――」
九条が言葉を止めた。
「……どうしました?」
「いえ」
少しだけ迷うように視線を落とす。
そして、控えめな声で言った。
「その……連絡先を教えていただけますか?」
「連絡先?」
「はい。動画を送るためです」
そう言った九条の頬が、また少し赤くなった。
俺は特に気にせずスマートフォンを取り出した。
「もちろん。いいよ」
「……え?」
「九条の番号を教えて」
「……分かりました」
九条もスマートフォンを取り出す。
お互いに連絡先を交換した。
数秒後。
俺の画面に新しい連絡先が表示される。
『九条麗華』
「これで大丈夫」
「……はい」
九条は自分の画面を見つめている。
なぜか、少しだけ嬉しそうに見えた。
「動画は今夜送ります」
「ありがとう。ちゃんと見るよ」
「それから、今日の練習も復習してください」
「分かった」
「姿勢も」
「分かった」
「挨拶も」
「分かったって」
「それと、ティーカップの持ち方も」
「それはもう大丈夫だろ」
「信用できません」
「ひどい!」
九条が笑う。
今度は、はっきりと。
俺も思わず笑った。
こうして、その日の礼儀作法の練習は終わった。
教室を出る。
隣を歩く九条は、昨日までより少しだけ楽しそうだった。
そして俺は思う。
礼儀作法を覚えるために始めた練習だったはずなのに――
今日は、それ以外のことも少しだけ知ることができた気がする。
九条麗華という少女のことを。




