新たな責任
その日の朝。
授業が始まる前、俺は校内にあるカフェスペースで九条と向かい合って座っていた。
星嶺学園には、生徒が休憩したり軽い食事を取ったりできる場所がいくつもある。
入学したばかりの頃は、学校の中にこんな場所まであることに驚いていたけれど、最近では俺も少しずつ慣れてきた。
……慣れてきたつもりだった。
俺の目の前では、九条が紅茶の入ったカップを静かに見つめている。
いつもなら背筋を伸ばし、何をしていても隙のない彼女だったが、今日は少し様子が違った。
紅茶にもほとんど口をつけていない。
「九条」
「はい?」
九条が顔を上げる。
「何かあった?」
「……私が、ですか?」
「うん。今日はなんか、いつもより静かだから」
そう言うと、九条は少し意外そうな顔をした。
自分では気づいていなかったのかもしれない。
しばらく黙ったあと、彼女はカップをテーブルに置いた。
「……来週、いくつか社交の集まりがあるのです」
「社交の集まり?」
「はい。一度だけではありません。数日間にわたって、いくつかの会合や交流の場が設けられます」
九条の表情が少しだけ真剣になる。
「大企業の経営者や、そのご家族。財界に関わる方々など、多くの家が参加します」
「へえ……」
俺にはまったく縁のなかった世界だ。
……いや。
今の俺は『西園寺蓮』なのだから、本来なら縁がある世界なのか。
「九条も参加するの?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ視線を落とした。
「両親からは、無理に出席する必要はないと言われています」
「じゃあ、行かなくてもいいんだ?」
「はい」
それなら、どうしてそんなに悩んでいるんだろう。
俺がそう思っていると、九条は静かに続けた。
「ですが……私は九条家の人間です」
「……」
「両親が出席を求めていないとしても、こうした場に顔を出すことも、九条家の人間としての役目の一つだと考えています」
その言葉を聞いて、少し前に九条と話したことを思い出した。
彼女は九条家の一人娘だ。
子供の頃から勉強だけではなく、語学や礼儀作法、社交、文化、そして将来必要になる知識まで学んできた。
彼女にとって『九条』という名字は、ただ裕福な家に生まれたという意味ではない。
責任でもあるのだ。
「行きたくないの?」
「そういうわけではありません」
九条は少し考えてから答えた。
「ただ……本当に私が出席すべきなのか、少し考えていただけです」
珍しい。
九条麗華は、いつだって自分の答えを持っているように見えた。
でも今の彼女は――
名家のお嬢様というより、自分がどうするべきなのかを考えている一人の十五歳の女の子に見えた。
「だったら、行ってみてもいいんじゃない?」
「……なぜですか?」
「だって、九条は行きたいんだろ?」
「……」
「それに、自分が九条家の人間として出るべきだって思ってるなら、その気持ちを大事にしてもいいと思う」
九条はしばらく俺を見つめていた。
そして――
ほんの少しだけ笑った。
「……ずいぶん単純な答えですね」
「悪かったな」
「いいえ」
九条は小さく首を横に振る。
「そういう意味ではありません」
再びカップを手に取る。
「ありがとうございます、西園寺さん」
「俺は何もしてないけど」
「話を聞いていただいただけでも十分です」
そう言って、九条はようやく紅茶を一口飲んだ。
さっきまでより、少しだけ表情が柔らかくなった気がする。
だけど――
その話を聞いて、俺の中にも一つの疑問が生まれていた。
九条家が参加するほどの社交の場なら……
西園寺家にも関係があるんじゃないか?
その日の休み時間。
俺はスマートフォンを取り出した。
そして神崎さんにメッセージを送る。
『神崎さん、来週の九条家の社交行事について聞きたいんですが。
西園寺家にも招待状は届いてますか?』
少しすると返信が届いた。
『はい。もちろん届いております。
ただし、雅宏様は仕事の都合で出席されません』
やっぱり。
西園寺家にも招待状は届いていた。
でも雅宏さんは仕事で出席しないらしい。
俺はスマートフォンの画面を見つめる。
そして、ふと思った。
今の俺は西園寺蓮だ。
だったら――
『じゃあ……俺が西園寺家の人間として出席することもできますか?』
送信。
今度は少しだけ返信までに時間がかかった。
やがて画面に新しいメッセージが表示される。
『可能です。
ですが、あの規模の社交の場では、今までお教えした礼儀作法だけでは不十分かもしれません』
「……やっぱり?」
思わず声が漏れた。
西園寺家に来てから、俺は神崎さんにかなりのことを教えられてきた。
姿勢。
言葉遣い。
食事の作法。
挨拶。
歩き方。
座り方。
人との接し方。
最初の頃と比べれば、かなりマシになったと思う。
それでもまだ足りないらしい。
金持ちの世界、恐るべし。
すると、さらに神崎さんからメッセージが届いた。
『もし九条様とご一緒されるのであれば、彼女から学べることも多いでしょう。
悠斗様にとっても、良い経験になると思います』
「九条から……」
確かに。
九条は、そういう世界で生きてきた人間だ。
礼儀作法については、すでに何度も注意されている。
ネクタイ。
姿勢。
紅茶の飲み方。
……思い返してみると、俺はかなり注意されている気がする。
『分かりました。ありがとうございます』
そう返信して、スマートフォンをしまった。
もし本当に参加するのなら、準備が必要だ。
そして俺には――
ちょうどいい先生がいる。
放課後。
今日は陽菜に用事があり、先に帰らなければならなかった。
そのため、勉強会は俺と九条の二人だけになった。
いつものように図書室へ向かい、同じテーブルに座る。
九条がノートと教科書を取り出した。
「では、今日は昨日の続きから――」
「あ、九条」
「はい?」
「その前に、一つ話がある」
九条が俺を見る。
「来週の社交の場なんだけど」
「……はい」
「俺も参加することになった」
九条の紫色の瞳がわずかに大きくなる。
「……西園寺家の人間として、ですか?」
「うん。そういうことになる」
「そうですか……」
九条は少し驚いた様子だった。
でも、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。
「ですが――」
「うん?」
「西園寺さん」
「何?」
「大丈夫なのですか?」
「……何が?」
九条は俺をじっと見た。
そして――
「礼儀作法です」
「……」
即答だった。
「……分かる?」
「これまで見ていれば、分かります」
「……ですよね」
何も言い返せない。
ネクタイを直された。
紅茶の飲み方も注意された。
廊下での姿勢まで指摘された。
これで『俺は完璧だ』なんて言えるはずがない。
「それで?」
九条が尋ねる。
俺は少し姿勢を正した。
「だから……九条に教えてほしい」
「私に?」
「うん」
俺は頷いた。
「こういう社交の場でどう振る舞えばいいのか、俺にはまだ分からないことが多いから」
九条は黙って俺の話を聞いている。
「挨拶とか、話し方とか……そういうのを教えてほしい」
「……」
「頼める?」
数秒の沈黙。
やがて九条は、開いていたノートを静かに閉じた。
「分かりました」
「本当?」
「はい」
九条の表情が変わる。
さっきまで勉強を教えていた時とは違う。
なんというか――
妙にやる気に満ちている。
「私に任せてください」
「ありがとう。助かるよ」
「ただし」
「……ただし?」
九条が真っ直ぐ俺を見る。
「西園寺家の人間として出席する以上、中途半端な状態で参加することは許されません」
「……はい」
「ですから、私も手加減するつもりはありません」
「ちょっと待って」
嫌な予感がする。
「具体的には、何をするの?」
「まずは基本的な挨拶から確認します」
九条が指を一本立てる。
「立ち方、歩き方、座り方」
二本目。
「会話の始め方と終わらせ方」
三本目。
「相手の家柄や立場に応じた接し方」
四本目。
「食事の際の作法」
五本目。
「それから――」
「まだあるの!?」
思わず声を上げてしまった。
図書室にいた何人かの生徒がこちらを見る。
「……すみません」
小声で謝る。
九条は小さくため息をついた。
「声量の調整も必要そうですね」
「それも入るの!?」
「当然です」
「……」
まずい。
とんでもない人に頼んでしまったかもしれない。
「とりあえず」
九条が再びノートを開く。
「今日は予定通り勉強を終わらせましょう」
「その後は?」
「礼儀作法の練習です」
「……どれくらい?」
九条は少し考える。
そして、静かに答えた。
「私が合格だと思えるまでです」
「……」
来週の社交の場。
俺はただ、西園寺家の人間として参加してみようと思っただけだった。
それなのに――
なぜかその前に、九条麗華による本格的な礼儀作法の特訓を受けることになってしまった。
……これ、数学の勉強より大変なんじゃないか?




