幼馴染の小さな嫉妬
蓮がアメリカへ行くことが決まってから、数日が経った。
学校では、いつもと変わらない日々が続いている。
俺も西園寺蓮として授業を受け、休み時間には陽菜と話し、放課後になると勉強する。
ただ、一つだけ以前と違うことがあった。
俺は最近、放課後になってもすぐには帰らなくなった。
理由は単純だ。
勉強をするためだった。
星嶺学園の授業は、俺がこれまで受けてきたものとは明らかにレベルが違う。
特に数学なんかは、授業中に先生が問題を出すと、周りの生徒たちは迷うことなく解き始める。
俺が問題文を何度も読み返している間に、隣の生徒はもう答えを書き終えている。
このままではまずい。
そう思った俺は、最近、放課後に図書室へ残って勉強するようになった。
そして、その勉強を手伝ってくれているのが――九条麗華だった。
今日も授業が終わり、教室から少しずつ生徒たちが出ていく。
俺がノートをまとめていると、後ろから声をかけられた。
「ねえ、蓮」
振り返ると、陽菜が立っていた。
「どうした?」
「最近さ」
陽菜は俺の机の上にある参考書を見る。
「放課後になると、すぐ帰らなくなったよね?」
「ああ」
「今日も残るの?」
「うん。少し勉強してから帰るつもり」
陽菜は首を傾げた。
「最近、ずっと勉強してない?」
「まあ……そうだな」
「どうして?」
「……この学校、思ってたより難しくてさ」
俺は苦笑した。
「このままだと、授業についていくのが大変なんだ」
陽菜は少し驚いた顔をした。
「蓮でも?」
「俺でもって……」
本当は俺は蓮じゃない。
その言葉を聞くたびに、少し複雑な気持ちになる。
「勉強ができないわけじゃないんだけど、周りがすごいんだよ」
「確かに、この学校は勉強できる人が多いもんね」
陽菜は納得したように頷いた。
そして、ふと何かを思い出したように聞いてくる。
「……それで?」
「ん?」
「誰かに勉強を教えてもらってるの?」
「……ああ」
俺は素直に答えた。
「最近、クラスメイトに手伝ってもらってる」
「クラスメイト?」
陽菜の声が、ほんの少しだけ高くなった。
「うん」
「……誰?」
「九条」
その瞬間だった。
「……あ」
陽菜の表情が、一瞬だけ止まった。
「九条……麗華?」
「ああ」
俺が頷くと、陽菜は笑った。
「そっか」
笑っている。
けれど――なぜか、いつもの笑顔とは少し違って見えた。
「九条さんって、成績すごくいいもんね」
「うん。教え方も上手いよ」
「へえ……」
陽菜は俺の机に手を置いたまま、少しだけ視線を逸らした。
「放課後、毎日?」
「ほとんど毎日かな」
「二人で?」
「そうだな」
「図書室で?」
「うん」
「……そう」
質問が妙に細かい。
俺は少し不思議に思った。
「陽菜?」
「なに?」
「どうかした?」
「別に?」
返事が早い。
しかも笑顔も少しだけ硬い。
「……本当に?」
「本当だよ」
陽菜はそう言ってから、しばらく黙った。
そして、胸の奥に生まれた小さな違和感について考える。
どうしてだろう。
ただ勉強をしているだけなのに。
九条麗華が蓮と放課後を過ごしている。
それを聞いただけなのに――。
なんだか、少しだけ落ち着かない。
「……私も勉強しないと」
陽菜がぽつりと言った。
「え?」
「私も勉強しないと」
今度は、はっきりと言う。
「でも、陽菜は成績いいだろ?」
俺がそう言うと、陽菜は少しだけ頬を膨らませた。
「だからこそ、一緒に勉強したほうがいいの」
「一緒に?」
「うん」
陽菜は笑顔を見せる。
「私も放課後、勉強する」
「でも、部活とかは?」
「大丈夫。特に入ってないから」
「そうなのか」
「うん」
陽菜は俺の顔を覗き込む。
「それに、幼馴染なんだから」
「……?」
「私だって、蓮の勉強くらい手伝いたいよ」
その言葉に、俺は少し考えた。
確かに、陽菜は俺よりこの学校のことをよく知っている。
それに、成績もいい。
「それなら……お願いしてもいい?」
「もちろん!」
陽菜の顔がぱっと明るくなった。
「明日から一緒に勉強しよう!」
「ありがとう、助かるよ」
「うん!」
陽菜は嬉しそうに頷いた。
けれど――。
その胸の内には、別の感情もあった。
九条麗華。
中等部の頃から成績上位にいて、今月のランキングでは一位になった少女。
そして、最近は放課後になると蓮と二人で勉強している。
陽菜は、その事実を思い浮かべる。
「……」
なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。
別に、嫌いなわけじゃない。
九条さんが悪い人だとも思っていない。
むしろ、蓮の勉強を手伝ってくれているのだから感謝すべきだ。
それなのに――。
「……私も一緒にいたい」
小さな声が漏れた。
「ん?」
「な、なんでもない!」
陽菜は慌てて顔を上げた。
「じゃあ、明日から三人で勉強しようね!」
「三人?」
「うん。私と蓮と九条さん」
「ああ、それでいいと思う」
俺は何も考えずに頷いた。
陽菜は一瞬だけ黙る。
「……」
そして、すぐに笑った。
「うん。そうしよう」
その笑顔の裏側で――。
(九条さんだけに、蓮を任せるわけにはいかない)
そんなことを考えている自分に、陽菜自身もまだ気づいていなかった。
一方の俺はというと。
「これで少しは成績が上がるかもしれないな」
そんなことを考えていた。
俺にとっては、単純な勉強の話。
しかし――。
陽菜にとっては、少しだけ違う意味を持ち始めていた。




