海の向こうへ行く友
雅宏さんとの話を終えたあと。
俺は自分の部屋へ戻ろうとしていた。
すると、廊下の先から神崎さんが歩いてきた。
「悠斗様」
「神崎さん?」
「少しよろしいでしょうか」
「うん。どうしたの?」
神崎さんは、いつも通り落ち着いた表情で答えた。
「蓮様が、悠斗様とお話ししたいそうです」
「……蓮が?」
「はい」
俺は少し驚いた。
「分かった。行くよ」
神崎さんに案内され、俺は蓮の部屋へ向かった。
部屋の中に入ると、蓮はいつものように車椅子に座っていた。
「よお」
「蓮」
「来てくれてありがとう」
「いや、こっちこそ」
俺は近くの椅子に座った。
蓮は少しだけ笑った。
「父さんから聞いたんだろ?」
「うん」
「アメリカに行くこと」
「ああ」
俺は頷いた。
「治療を受けるんだよな」
「そう。少し長くなるかもしれないけどね」
「……一年くらいになる可能性もあるって」
「聞いた?」
「さっき父さんから聞いた」
蓮は小さく息を吐いた。
「じゃあ、俺が戻るまで……お前にはもう少し俺をやってもらうことになるな」
「別に構わないよ」
「本当に?」
「ああ」
俺は笑った。
「お前が歩けるようになる可能性があるなら、それくらいどうってことない」
蓮はしばらく俺を見つめていた。
そして、少しだけ笑った。
「……そっか」
「それに、もう少し学校にいてもいいかなって思い始めてるし」
「学校、楽しい?」
「まあ……大変だけどな」
俺は苦笑した。
「勉強は難しいし、礼儀作法もまだまだだし」
「神崎さんから聞いてるよ」
「……何を?」
嫌な予感がした。
「かなり頑張ってるって」
「…………」
「授業だけじゃなくて、放課後も勉強してるんだって?」
「神崎さん……」
思わず額を押さえた。
「そこまで報告してるのかよ」
「俺としては、ありがたいけどね」
「でも、まだ全然足りないんだよ」
「何が?」
「周りの人たちについていくには、もっと勉強しないと」
星嶺学園の生徒たちは、俺が今までいた環境とはまるで違う。
家庭教師。
塾。
幼い頃からの教育。
みんなが当たり前のように持っている知識を、俺はこれから覚えていかなければならない。
「だから、頑張らないと」
「……悠斗」
蓮の声が少しだけ真剣になった。
「頑張ることは悪くない」
「うん」
「でも、無理しすぎるなよ」
「大丈夫だって」
「本当に?」
「本当に」
俺が笑うと、蓮も少しだけ笑った。
「ならいいけど」
そして、蓮は少し間を置いてから続けた。
「それと……陽菜のこと」
「陽菜?」
「ああ」
俺は少し驚いた。
「何?」
「ありがとう」
「……何が?」
「陽菜と、また近くで過ごしてくれて」
「……」
蓮は真っ直ぐ俺を見る。
「神崎さんから聞いたんだ」
「まさか……」
「お前が陽菜といるとき、できるだけ俺の声に近づけようとしてることも」
「……そこまで話したのか」
「まあね」
蓮は少し笑った。
「でも、責めてるわけじゃないよ」
「……そうか」
「むしろ、ありがとうって言いたい」
蓮はそう言った。
「陽菜にとって、俺は昔からずっと近くにいた存在だったから」
「うん」
「突然、俺が学校に行けなくなったら……きっと寂しいと思う」
俺は黙って聞いていた。
「だから、お前が陽菜のそばにいてくれることは、俺にとってもありがたい」
「俺はただ……」
言葉を探す。
「陽菜が寂しくならないようにしたかっただけだよ」
「それで十分だよ」
蓮は笑った。
「ありがとう」
「……うん」
俺も頷いた。
しばらく沈黙が続いた。
蓮は窓の外へ視線を向けた。
「俺さ」
「ん?」
「アメリカに行く前に、お前に一つお願いしたいことがある」
「何?」
蓮は俺を見る。
「学校生活を楽しんでほしい」
「……楽しむ?」
「うん」
「でも、俺はお前の代わりを――」
「分かってる」
蓮は俺の言葉を遮った。
「お前が俺の代わりとして頑張ってくれていることは分かってる」
そして、ゆっくりと言った。
「だからこそ、ずっと『西園寺蓮を演じなきゃ』って考えなくていい」
「…………」
「友達を作ってもいい」
「……」
「笑ってもいい」
「……」
「学校を楽しんでもいい」
蓮は優しく笑った。
「それに……俺の真似ばかりしなくていい」
「でも、俺はお前の代わりなんだぞ?」
「それでもだよ」
蓮は首を横に振った。
「お前は、お前のままでいい」
その言葉を聞いた瞬間、俺は祖父の言葉を思い出した。
『別人のふりをするのは構わん。だが、自分まで別人になるな』
同じような言葉だった。
「……分かった」
俺は静かに答えた。
「できるだけ、楽しんでみるよ」
「うん」
「でも、お前の代わりはちゃんとやる」
「それも頼む」
二人で笑った。
俺は蓮を見る。
まだ、俺たちが知り合ってからそれほど長くない。
それでも――。
最初に会った頃とは、少し違って見えた。
俺がそう感じているだけかもしれない。
けれど、蓮も同じことを考えていたらしい。
「俺もさ」
「ん?」
「お前と知り合って、まだそんなに長くないけど」
蓮は少し照れたように笑った。
「お前って、責任感が強いよな」
「そうか?」
「ああ」
「自分ではよく分からないけど」
「それに、優しい」
「……それは買いかぶりすぎじゃないか?」
「そんなことないよ」
蓮ははっきりと言った。
「少なくとも、俺はそう思ってる」
「…………」
「だから、俺はお前を信頼してる」
胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……ありがとう」
俺は立ち上がった。
そして、蓮の前に手を差し出した。
「じゃあ、約束だ」
蓮は俺の手を見る。
「何を?」
「お前が頼んだこと」
「学校を楽しむこと?」
「ああ。それから……お前が戻ってくるまで、ちゃんと蓮として過ごす」
蓮は少し驚いたような顔をした。
それから笑う。
「分かった」
蓮も手を伸ばした。
俺たちは固く握手を交わした。
「アメリカ、気をつけてな」
「ああ」
「治療、うまくいくって俺は信じてる」
「ありがとう」
「それに……」
俺は笑った。
「帰ってくるの、待ってるから」
「……うん」
蓮はしっかりと頷いた。
「俺も、できるだけ早く戻るよ」
「そのときは――」
俺は蓮の足を見る。
「自分の足で学校に行こう」
蓮は一瞬だけ驚いた。
そして、力強く笑った。
「ああ」
その笑顔を見て、俺も笑った。
海の向こうで始まる、長い治療。
その間、俺は日本で蓮の代わりを務める。
そしていつか――。
本物の蓮が自分の足で帰ってくる日を、俺はここで待っている。
そう約束して、俺たちはもう一度、固く握手を交わした。




