海の向こうの治療
雅宏さんの執務室には、しばらく沈黙が続いていた。
俺は、目の前にいる雅宏さんを見つめる。
「……蓮について話があるって、どういうことですか?」
雅宏さんは、机の上に置いていた書類を静かに閉じた。
「治療法が見つかった」
「……治療法?」
「ああ」
雅宏さんの表情は真剣だった。
けれど、その瞳には今までとは少し違うものがあった。
希望。
「事故のあと、蓮の回復のために、国内だけでなく海外の医療機関にも相談してきた」
「……はい」
「そして今回、アメリカにある専門施設から返事が来た」
「アメリカ……?」
俺は思わず聞き返した。
雅宏さんは頷く。
「蓮の状態を詳しく確認した上で、治療を受ける価値があると判断された」
「それって……」
俺は言葉を続けるのをためらった。
雅宏さんは、そんな俺を見ながら静かに口を開いた。
「歩けるようになる可能性がある」
「……!」
目を見開いた。
「本当に……?」
「ああ」
その一言を聞いた瞬間、頭の中に蓮の姿が浮かんだ。
車椅子に座りながら、それでも前を向いていた蓮。
そして、以前聞いた言葉。
『自分の足で、もう一度学校に行きたい』
あのときの表情を思い出す。
「……すごい」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
けれど、雅宏さんはすぐに付け加えた。
「ただし、結果が保証されているわけではない」
「……はい」
「それでも、可能性があるのなら試す価値はある」
俺は黙って頷いた。
「蓮はアメリカへ行く」
「いつ?」
「近いうちに」
雅宏さんはそう答えた。
「そこで治療を受け、その後はリハビリを行うことになる」
「どれくらいの期間ですか?」
「まだ分からない」
「……分からない?」
「ああ」
雅宏さんは首を横に振った。
「数か月で済む可能性もある。だが、治療への反応次第では、さらに長くなる可能性もある」
俺は黙って話を聞いていた。
そして、ようやく理解した。
なぜ雅宏さんが俺にこの話をしているのか。
「……ということは」
俺は顔を上げた。
「俺の身代わりも……長くなる?」
雅宏さんは静かに頷いた。
「そういうことだ」
胸の中に、少しだけ驚きが広がった。
これまでは、数か月程度だと思っていた。
蓮が回復して、学校へ戻れるようになるまで。
それまでの間だけ、俺が蓮の代わりをする。
そう考えていた。
「どれくらい……?」
「正確な期間は決められない」
雅宏さんは淡々と答えた。
「蓮の回復次第だ」
つまり、終わりの日は決まっていない。
蓮がどれだけ早く回復できるかによって、俺が西園寺蓮として過ごす期間も変わる。
「……じゃあ」
俺は少し考えてから尋ねた。
「一年間、全部……ってことも?」
「ああ」
雅宏さんは頷いた。
「一年間、君に代わってもらう可能性もある」
「……一年か」
思わず呟いた。
一年。
それは、思っていたよりずっと長い。
その間、俺は星嶺学園に通い続ける。
勉強も続ける。
陽菜とも一緒に過ごす。
麗華とも勉強する。
そして、西園寺家の跡取りとして振る舞い続ける。
最初は、ほんの一時的な仕事だと思っていた。
けれど――。
今は、一年間続く可能性がある。
それどころか、蓮の回復次第では、それ以上になるかもしれない。
「……そっか」
俺は小さく息を吐いた。
驚いていないと言えば嘘になる。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
蓮には、本当に歩けるようになる可能性がある。
それなら――。
「それなら……良かった」
雅宏さんが俺を見る。
「何がだ?」
「蓮が、もう一度歩けるかもしれないんですよね」
「ああ」
「だったら、それが一番です」
俺は笑った。
「俺のことは、別に大丈夫です」
「……そうか」
「最初は数か月くらいだと思ってましたけど」
俺は少しだけ苦笑する。
「一年になるかもしれないって聞くと、さすがに驚きますけどね」
「そうだろうな」
「でも……」
俺は思い返す。
初めてこの屋敷に来た日。
神崎さんから礼儀作法を教わったこと。
蓮と話したこと。
陽菜と再会したこと。
学校での毎日。
そして、最近は麗華と勉強までしている。
「俺も、少しずつ慣れてきた気がします」
「何に?」
「西園寺蓮として過ごすことに」
そう言うと、雅宏さんは少しだけ黙った。
「……そうか」
短い返事だった。
俺は椅子から立ち上がる。
「じゃあ、蓮が治療を受けている間、俺はちゃんと学校に通います」
「頼む」
「はい」
扉へ向かおうとした、そのときだった。
「悠斗」
足が止まった。
振り返る。
雅宏さんが俺を見ていた。
この部屋では、いつも俺は「蓮」と呼ばれている。
だから、本当の名前で呼ばれたことが少しだけ意外だった。
「……何ですか?」
「ありがとう」
「……」
俺はその言葉の意味を理解した。
蓮のことだ。
息子のことを言っている。
俺は少しだけ笑った。
「……お礼なんて、いいですよ」
そう言って、俺は執務室を出た。
廊下を歩きながら、今日聞いた話をもう一度思い返す。
アメリカでの治療。
長期のリハビリ。
そして――。
俺の身代わり生活は、当初の予定よりずっと長くなるかもしれない。
「……まだまだ、西園寺蓮でいなきゃいけないんだな」
窓の外を見る。
夕暮れの空が広がっていた。
俺は小さく息を吐く。
そして、これから始まる長い学校生活を思いながら、自分の部屋へと歩いていった。




