一杯のお茶と、背負う家名
それからしばらくして。
俺たちはようやく勉強を終えた。
「……疲れた」
俺は椅子の背もたれに体を預けた。
かなり集中していたせいか、肩が少し重い。
けれど、今日勉強した内容をノートで見返すと、昨日まで分からなかった問題のいくつかが、驚くほど理解できるようになっていた。
「ありがとう、九条さん。かなり分かるようになった」
「そうですか」
麗華は机の上の教材を片付けながら答える。
「あなたは、理解力が低いわけではありません」
「え?」
「基礎を理解する前に、答えを覚えようとしていたのでしょう」
「…………」
図星だった。
「うん。たぶんそうだ」
「それなら、これからは解き方を意識してください」
「分かった」
俺も問題集を閉じる。
窓の外を見ると、空はすでに夕方の色に変わっていた。
図書室に残っている生徒も、いつの間にか少なくなっている。
「……もうこんな時間か」
俺が呟くと、麗華も時計を見る。
「そうですね」
麗華は立ち上がった。
そして、何かを考えるように少しだけ黙った。
「西園寺さん」
「ん?」
「このあと、時間はありますか?」
「このあと?」
「ええ」
麗華は少しだけ視線を逸らした。
「もし予定がないのでしたら……お茶でもいかがですか?」
「お茶?」
「嫌なら結構ですが」
「いや、嫌じゃない」
俺は慌てて答えた。
「むしろ、いいの?」
「……ええ」
麗華は小さく頷いた。
こうして俺たちは、校内にある生徒用のティールームへ向かった。
そこは普通の休憩スペースとは少し違っていた。
落ち着いた内装。
木製のテーブル。
紅茶やコーヒー、簡単な菓子などを注文できる。
名門校らしく、こういう場所まで妙に上品だった。
「……すごいな」
俺が店内を見回していると、麗華が向かい側の席に座った。
「何がですか?」
「こういう場所が学校にあること」
「珍しいですか?」
「ああ。学校の中に、こんな場所があるなんて初めて見た」
「そうですか」
麗華は特に驚いた様子もなく、店員に紅茶を注文した。
俺も同じものを頼む。
しばらくすると、俺たちの前に紅茶が運ばれてきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
俺はカップに手を伸ばす。
そして――。
「…………」
麗華の視線を感じた。
「……何?」
「いえ」
「絶対何かあるだろ」
「…………」
麗華は少しだけ眉を寄せる。
「カップの持ち方です」
「持ち方?」
俺は自分の手を見る。
「普通じゃない?」
「普通ではありません」
「…………」
麗華は自分のカップを持ち上げた。
「こうです」
指先の位置。
手首の角度。
カップを置くときの動作。
一つ一つが驚くほど自然で綺麗だった。
「……そんなに違うのか?」
「かなり違います」
「これくらいならいいんじゃないか?」
「よくありません」
「厳しいな……」
思わず苦笑する。
麗華は俺の手元を見ながら続けた。
「紅茶を飲むだけなら、それでも問題はありません」
「じゃあ、いいじゃん」
「ですが、あなたは西園寺家の人間です」
「…………」
「家の外で誰かと食事をする機会も多いでしょう。そのとき、些細な仕草まで見られることがあります」
俺は黙った。
その言葉には、妙な説得力があった。
「……なるほど」
「それに」
麗華は俺を見る。
「あなた自身が恥をかくことになります」
「俺が?」
「ええ」
「家の名前じゃなくて?」
「両方です」
麗華は即答した。
「家の評判に関わります。そして、その家の人間であるあなた自身にも影響します」
「…………」
俺は改めてカップを見た。
ただ紅茶を飲むだけ。
それだけのことなのに。
俺が思っていたよりも、ずっと多くの意味があるらしい。
「じゃあ……こう?」
俺は麗華の持ち方を真似してみる。
「そうです」
「これでいい?」
「ええ。先ほどよりは」
「先ほどよりは、か……」
俺が苦笑すると、麗華の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「何か?」
「いえ」
「今、笑っただろ」
「気のせいです」
「絶対笑った」
「気のせいです」
麗華は平然と紅茶を飲む。
俺は思わず苦笑した。
少し時間が経つと、自然と会話も増えていった。
昨日までは、麗華と言えば成績一位の生徒。
そして、俺の勉強を厳しく指導する少女。
それくらいしか知らなかった。
けれど、話してみると意外と普通に会話ができる。
「九条さんって、いつもこんな感じなのか?」
「こんな感じ、とは?」
「なんというか……何でも完璧にできそうな感じ」
「…………」
麗華は少し考える。
「そう見えるのであれば、そうしているからでしょう」
「している?」
「はい」
麗華は紅茶を一口飲む。
「九条家の人間として、人前でだらしない姿を見せるわけにはいきませんから」
「……家のため?」
「そうです」
その答えは迷いがなかった。
「でも、それって大変じゃないか?」
「慣れています」
「慣れてるって……」
俺は少し考えてから尋ねた。
「九条さんって、兄弟とかいるの?」
「いいえ」
「じゃあ……一人っ子?」
「はい」
麗華は頷いた。
「私には兄も弟も、姉も妹もいません」
「そうなんだ」
「九条家では、私が一人娘です」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ姿勢を正した。
「……じゃあ、家の期待って」
「ほとんど私一人に向けられています」
「…………」
麗華は淡々と話している。
でも、その内容は俺が思っていたより重かった。
「小さい頃から勉強をしてきました」
「うん」
「学校の勉強だけではありません」
語学。
礼儀作法。
社交。
芸術や文化。
そして、将来的に家業を理解するための勉強。
九条家の人間として必要だとされるものを、幼い頃から一つずつ学んできたという。
「大変だったんじゃないか?」
「大変でした」
「……あっさり言うんだな」
「事実ですから」
麗華は少しだけ笑った。
「ですが、私にとってはそれが普通でした」
「普通……」
「九条家の一人娘として生まれた以上、それは私の責任です」
その言葉を聞いて、俺は黙り込んだ。
今まで俺は、金持ちの家に生まれた人間は恵まれていると思っていた。
大きな家。
高級な車。
何でも買えるお金。
優れた教育。
俺とは違う、何不自由のない生活。
もちろん、それらは事実なのだろう。
でも――。
それだけではない。
「……そっか」
「はい」
「九条さんも、大変なんだな」
麗華は少し驚いたように俺を見る。
「……大変?」
「だって、一人娘なんだろ?」
「ええ」
「だったら、全部背負うことになるじゃないか」
「…………」
麗華は紅茶を見つめる。
「家族の期待とか、会社とか……将来のこととか」
俺はそこで言葉を止めた。
「兄弟がいれば、少しくらい分けられるかもしれないけど……」
それ以上は言わなかった。
麗華はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「あなたも……少しは分かるのですか?」
「え?」
「家の責任について」
「…………」
俺は答えに迷った。
俺が知っているのは、自分の祖父を支えたいという気持ち。
西園寺家の責任については、本当は何も知らない。
でも今は、少しだけ分かる。
「……少しだけ」
俺はそう答えた。
「最近、俺も西園寺家の人間として振る舞わなきゃいけないことが増えたから」
もちろん、それは偽物としての立場だ。
けれど、その経験のおかげで、以前よりも理解できるようになった。
家の名前を背負うということ。
自分の行動が、自分だけの問題ではなくなること。
「だから……」
俺は麗華を見る。
「昨日、俺の姿勢とかネクタイを注意した理由も、少し分かった気がする」
「…………」
「ただ厳しいだけじゃなかったんだな」
麗華の瞳が、ほんの少し揺れた。
「……そう思いますか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「九条さんは、九条家の人間として恥ずかしくないようにしてるんだろ?」
「…………」
「だったら、俺もちゃんとしないとな」
麗華はしばらく黙っていた。
そして――。
「……あなたは、少し変わりましたね」
「そう?」
「昨日よりも、少しだけ理解が早いです」
「勉強の話?」
「いいえ」
麗華は小さく首を横に振る。
「人のことを理解する、という意味です」
「…………」
なんだか照れくさくなって、俺は紅茶を飲んだ。
今度は、さっき教えてもらった持ち方で。
「……それでいいです」
「よし」
俺は小さく笑った。
麗華も、ほんの少しだけ笑う。
その笑顔は、昨日まで俺が見ていた完璧な令嬢のものとは少し違っていた。
紅茶を飲み終えた頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
俺は席を立つ。
「また明日も勉強するんだよな?」
「ええ。あなたが望むのであれば」
「もちろんお願いする」
「では、明日も同じ時間に」
「ああ」
俺たちはティールームを後にした。
帰り道。
俺は今日の会話を思い返していた。
今まで俺は、金持ちの家に生まれるということを、ただ恵まれたことだと思っていた。
けれど――。
実際には、それと同時に大きな責任も背負う。
家の名前。
家族の期待。
周囲から向けられる視線。
そして、自分の行動が家族や会社にまで影響するという重圧。
麗華は、それを十五歳で背負っている。
「……少しだけ分かった気がする」
俺は小さく呟いた。
俺自身も今、西園寺蓮という名前を背負っている。
偽物ではある。
それでも、その名前を名乗る以上、俺の行動が周囲に与える影響は決して小さくない。
だからこそ――。
俺は初めて、本当の意味で理解し始めていた。
金持ちの家に生まれるということは、ただ何不自由なく暮らせるということではない。
その家の名前と一緒に、責任まで背負って生きていくということなのだ。
そして俺はまだ、その重さのほんの一部しか知らない。
それでも――。
今日、麗華と話したことで。
俺は少しだけ、彼女のことを知ることができた気がした。




