九条麗華が追い続けた背中
翌日。
放課後の図書室。
俺は窓際の席に座り、机の上に教科書と問題集を並べていた。
昨日、九条麗華と約束した勉強会。
正直に言えば、少し緊張している。
相手はこの学校で成績一位。
しかも、日本でも有数の名家のお嬢様だ。
そんな人に勉強を教えてもらう。
どう考えても、普通の状況ではない。
「……早すぎたかな」
時計を見る。
約束の時間までは、まだ少しある。
俺は問題集を開き、昨日間違えた問題をもう一度解いてみる。
「…………」
やっぱり難しい。
「ここは……こうして……」
しばらく考えていると――。
「お待たせしました」
「……!」
顔を上げる。
そこには麗華が立っていた。
昨日と同じように、制服は一分の乱れもない。
長い藍色の髪も綺麗に整えられている。
「九条さん」
「時間通りですね」
「まあ……約束したから」
「それは結構なことです」
麗華は俺の向かい側に座った。
そして、机の上に置かれた問題集を見る。
「すでに勉強していたのですか?」
「一応」
「……なるほど」
麗華はページをめくる。
いくつかの問題を確認すると、静かに口を開いた。
「やはり、ここですね」
「え?」
「基礎的な部分は理解しています。しかし、応用問題になると急に正答率が落ちています」
「…………」
図星だった。
「どうして分かるんだ?」
「あなたの答案を見れば分かります」
「そ、そういうものなのか……」
「ええ」
麗華は淡々と答える。
「では、最初に確認します」
そう言って、いくつかの問題を俺に解かせていく。
俺が答えを出すたびに、麗華は間違っている部分を指摘する。
説明は驚くほど分かりやすかった。
「なるほど……そういうことか」
「そうです。答えを覚えるのではなく、なぜその答えになるのかを理解してください」
「分かった」
俺はノートに書き込んでいく。
しばらく勉強を続けたところで、麗華がふと口を開いた。
「……西園寺さん」
「ん?」
「ひとつ聞いてもよろしいですか?」
「もちろん」
「あなた……最近、どうしたのですか?」
「…………」
ペンが止まった。
「どうしたって?」
「以前のあなたと比べて、明らかに成績が落ちています」
「……そうなのか?」
「ええ」
麗華は迷いなく答えた。
「中等部の頃のあなたなら、この程度の問題でここまで苦戦することはありませんでした」
「…………」
俺は何も言えなかった。
もちろん、俺は本物の西園寺蓮ではない。
だから、彼女の言葉に反論することもできない。
「……そうか」
それだけ答える。
麗華は俺の反応をじっと見つめた。
「中等部では、同じクラスになったことはありません」
麗華は教科書を閉じた。
「ですが、あなたのことは知っていました」
少しだけ視線を遠くへ向ける。
「廊下ですれ違うこともありましたし、試験の順位が発表されれば、必ずあなたの名前がありましたから」
「…………」
「私はいつも二位でした」
その言葉を聞いて、俺は驚いた。
「ずっと?」
「ほとんど、です」
麗華は静かに答える。
「もちろん、個別の教科や試験では私が上だったこともあります」
「じゃあ……」
「それでも、総合順位ではあなたが一位になることが多かった」
麗華の声は淡々としている。
悔しそうでもない。
誇らしそうでもない。
ただ、事実を話しているだけだった。
「私は、何度もあなたの名前を見ました」
「…………」
「そして、そのたびに思っていました」
麗華は俺を見る。
「いつか、あなたを超えたい、と」
「…………」
何と言えばいいのか分からなかった。
本物の蓮なら、きっと何か気の利いたことを言えたのだろう。
でも俺には無理だ。
俺は蓮じゃない。
だから――。
俺は話題を変えることにした。
「でもさ」
「はい?」
「九条さん、この前の試験では俺より上だったんだろ?」
「ええ」
「じゃあ……」
俺は苦笑した。
「もう目標達成したんじゃないか?」
「…………」
麗華は黙った。
そして、しばらく俺を見つめる。
「いいえ」
「え?」
「まだです」
「でも、今は俺より上なんだろ?」
「そうですね」
麗華は頷く。
「ですが、それだけではありません」
「……?」
麗華はまっすぐ俺を見る。
「私は、西園寺さんに勝ちたいのです」
「それなら、もう勝ってるじゃないか」
「違います」
麗華は静かに首を横に振った。
「今のあなたではありません」
「…………」
「私が勝ちたいのは――」
ほんの少しだけ、麗華の瞳が強くなる。
「あなたの最高の状態です」
「…………」
「中等部で、何度も一位を取っていたあなた」
「…………」
「私がずっと追いかけていた、あの西園寺蓮に勝ちたいのです」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
目の前にいる少女は、今までずっと――。
俺が知らない誰かを追い続けていた。
本物の西園寺蓮を。
「だから……」
麗華は問題集を開き直した。
「今のあなたがどれだけ成績を落としていても、私は手を抜きません」
「え?」
「あなたがもう一度、以前のあなたに戻るまで」
麗華はペンを俺に差し出す。
「勉強を続けましょう」
「…………」
俺はそのペンを受け取った。
「分かった」
そして、問題集へ目を向ける。
俺はまだ、本物の蓮には到底及ばない。
でも――。
この少女が追い続けてきた「西園寺蓮」という存在を、俺は少しずつ知り始めていた。




