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廊下でぶつかったお嬢様

 放課後。


 俺は一人で廊下を歩いていた。


「…………」


 頭の中にあるのは、今日の授業のことばかりだった。


 数学。


 英語。


 化学。


 どの授業も、決して理解できないわけじゃない。


 先生の説明を聞けば分かる。


 家に帰って問題集を解けば、少しずつ理解もできる。


 それでも――。


「……なんか、うまくいかないな」


 俺は小さく呟いた。


 毎日ちゃんと勉強している。


 陽菜にも教えてもらっている。


 屋敷に帰れば、自分なりに復習もしている。


 それなのに、周りの生徒たちとの差がなかなか縮まらない。


 やっぱり、この学校にいる連中はすごい。


 子供の頃から家庭教師をつけて、塾にも通っていた。


 俺とは、スタート地点から違う。


「……どうすれば、もっと効率よく勉強できるんだろう」


 そんなことを考えながら歩いていたせいで、俺は前を見ていなかった。



 ドンッ。



「――っ!」


「……!」


 誰かと肩がぶつかった。


「す、すみません!」


 反射的に頭を下げる。


「前を見ていなくて……本当にすみません」


「…………」


 返事がない。


 恐る恐る顔を上げる。


 そこに、一人の少女が立っていた。



 長い黒に近い藍色の髪。


 背中の中ほどまで伸びた髪は綺麗に整えられていて、光を受けると、わずかに青みが浮かんでいる。


 濃い紫色の瞳。


 白くきめ細かな肌。


 整った顔立ち。


 そして、制服の着こなしには一分の隙もない。


 背筋はまっすぐに伸びている。


 立っているだけなのに、育ちの良さが伝わってくるような少女だった。


「……大丈夫ですか?」


 俺が尋ねると、少女は静かに俺を見る。


「ええ。私は問題ありません」


 落ち着いた声だった。


 その瞬間。


 彼女の視線が、俺の顔から制服へと移った。


「…………」


 そして、ほんの少し眉を寄せる。


「あなた」


「はい?」


「少し、姿勢を正してください」


「え?」


「背中が曲がっています」


「……あ」


 言われて初めて気づいた。


 俺は無意識に猫背になっていた。


 慌てて背筋を伸ばす。


「こうですか?」


「それから……」


 少女の視線が俺の胸元へ移る。


「ネクタイも曲がっています」


「えっ?」


 慌てて自分のネクタイを見る。


 確かに少し斜めになっている。


「あ……」


「直してください」


「はい!」


 俺は急いでネクタイを直した。


 少女はそれを確認すると、淡々と口を開いた。


「西園寺家の人間が、そのような格好で廊下を歩くものではありません」


「…………え?」


 俺は固まった。


「西園寺家……?」


「ええ」


 少女は当然のことを言うように続ける。


「あなたは西園寺蓮さんでしょう?」


「……はい」


「ならば、なおさらです」


 その言葉を聞いて、俺は少し困った。


 どうやら、この人はかなり礼儀に厳しいらしい。


「すみません。気をつけます」


「分かれば結構です」


 少女はそう答えた。


 俺は改めて彼女を見る。


 長い髪。


 整った制服。


 そして、どこか近寄りがたいほどの気品。


 どこかで見たことがあるような気もする。


 でも、名前が思い出せない。


「ところで、あなたの名前は?」


「……え?」


 少女の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


「どうしました?」


「……いえ」


 少女は静かに息を吐いた。


 そして、ほんの少しだけ目を細める。


「まさか、本当にご存じないのですか?」


「何がですか?」


「……私のことです」


「…………」


 俺は困った。


 正直に言えば――。


 彼女のことを知らなかった。


 すると、少女は信じられないものを見るような目をした。


「……あなたほどの家の人間が、私を知らない?」


「…………」


 その言葉を聞いて、俺は少し考えた。


 そういえば――。


 数週間前、屋敷で神崎さんから渡された資料の中に、こんなものがあった。



『こちらが、日本国内でも特に交流の多い名家の一覧です』


 西園寺家と関係の深い家。


 日本を代表する企業。


 各家の当主。


 跡取り。


 そして――。


 当然、その中には彼女の家の名前もあった。


 九条家。


「あ……」


 思い出した。


 完全に忘れていたわけではない。


 ただ、あまりにも覚えることが多すぎて、全部は頭に入っていなかった。


「もしかして……九条家の方ですか?」


「…………」


 少女の目がわずかに見開かれる。


「ええ」


 そして、静かに名乗った。


「九条麗華です」


「九条……麗華さん」


 俺はようやく思い出した。


 先日の月間成績順位で一位だった少女。


 そして、日本でも有数の名家――九条家の令嬢。


「すみません! 失礼なことを言ってしまって!」


 俺はすぐに頭を下げた。


「それに、先ほどはぶつかってしまって……」


「それについては、もう構いません」


「本当ですか?」


「ええ」


 麗華は落ち着いた様子で答えた。


 しかし――。


 彼女は少しだけ考えるように俺を見る。


「ただし」


「……ただし?」


「ひとつ、条件があります」


「条件?」


「はい」


 麗華は俺の持っていた問題集へ視線を落とした。


 それから、俺の顔を見る。


「あなた、勉強で困っているのでしょう?」


「…………」


 どうして分かったんだ。


「顔に出ています」


「そんなにですか……?」


「かなり」


「…………」


 俺は思わず肩を落とした。


 麗華はそんな俺を見て、淡々と告げる。


「ならば、私の助けを受けてください」


「……え?」


「勉強を教えます」


「俺に?」


「他に誰がいるのですか?」


「いや、でも……」


「西園寺蓮ともあろう人が、成績で苦戦している姿を見て放っておくことはできません」


「…………」


 言い方は厳しい。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……いいんですか?」


「先ほどの非礼を許す条件です」


「でも、俺が勝手にぶつかっただけで……」


「構いません」


 麗華はそう言って、少しだけ表情を和らげた。


「それに――」


 彼女は静かに続ける。


「あなたがどこまで成績を伸ばせるのか、少し興味があります」


「…………」


 その言葉を聞いて、俺は苦笑した。


「分かりました」


 そして、頭を下げる。


「よろしくお願いします、九条さん」


「ええ。こちらこそ」


 こうして俺は――。


 自分でも予想していなかった人物から、勉強を教えてもらうことになった。



 このときの俺は、まだ知らなかった。


 この出会いが、俺の学園生活を大きく変えていくことになるなんて。

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