第6章 小公爵夫妻の評判
結婚から半年。シガンダ公爵領では、領民や領政官たちの間で一つの共通認識が確立しつつあった。
──次代のシガンダ公爵家を支えるのは、小公爵夫人だ。
「小公爵夫人がお見えになりました!」
領都の役所に声が響く。玄関へ姿を現したフロレンシアへ、職員たちが一斉に頭を下げた。
「おはようございます」
穏やかな笑みを浮かべる彼女へ、自然と笑顔が返る。
「おはようございます、小公爵夫人」
誰も無理をしている様子はない。半年という短い期間ながら、彼女は何度も現場へ足を運び、領民の話に耳を傾け、役人たちの意見を聞き、必要なら自ら改善案を示してきた。だからこそ信頼されている。肩書ではなく、人柄と仕事ぶりで。
「橋の工事は順調ですか?」
「はい」
土木責任者が胸を張る。
「若奥様のご提案通り、石材を変更したことで工期も短縮できそうです」
「それは良かったわ」
「農村からも感謝の声が届いております」
「皆さんのお力よ」
決して自分だけの手柄にしない。その姿勢もまた、人々の心を掴んでいた。
一方その頃。
「フィデル、今日はマカリアと街へ行く」
「承知いたしました」
フィデルは一切止めない。止めても無駄だと知っているからだ。その代わり。
「本日中に処理していただかねばならぬ書類がございますが」
「面倒臭ぇ、あいつにやらせればいいだろ」
「畏まりました」
それで終わりだった。ナサリオも満足、フィデルも満足。書類は予定通り、正しく処理される。ナサリオが処理すれば、修正で二度手間になることは明らかだった。ただ、ほぼ毎日のようなこの遣り取りに、唯一公爵夫妻だけが複雑な気持ちになっていた。
「……本当に良いのでしょうか」
ドミティラがぽつりと漏らした。執務室でオラシオと共に報告書に目を通している。
「何がだね」
「ナサリオを、あのままにして」
オラシオは静かに書類を閉じた。
「良くはない」
「ええ」
「親としては失格だな」
そう言って苦く笑う。
「だが、公爵として考えるなら、フロレンシアに任せるほうが領民は幸せになれる」
ドミティラも反論できなかった。親としては息子を矯正したい。だが、公爵領には何万人もの領民がいる。息子を優先してその生活を危険に晒すわけにはいかない。
「申し訳ないな……」
夫人は小さく頷く。
「本当に」
二人は窓の外を見る。庭園では、フロレンシアが領政官たちと歩きながら話し合っていた。その姿は既に次期公爵夫人というよりも領主そのものだった。
王都では大規模な夜会が開かれていた。次期公爵夫妻としてフロレンシアとナサリオも招待されている。
「シガンダ公爵家令息ナサリオ様、令夫人フロレンシア様、ご入場です」
会場が騒めいた。美しい若夫婦。その見た目だけなら、誰もが羨む組み合わせだった。
「フロレンシア夫人、お久しぶりです」
「先日の水利事業、大変勉強になりました」
「是非、共同で商会を」
あっという間にフロレンシアの周囲へ人垣が出来る。集まるのは目端の利く商人、各領地の実情を知る行政官、そして、フロレンシアと同時期に学院で学んだ次期領主や若き領主。更に、他家で実質的に家を支えている公爵夫人や侯爵夫人たち。
「シガンダ小公爵夫人」
侯爵夫人が小声で笑う。
「例の織物工房、大成功だったそうですわね」
「職人たちのお陰です」
「謙遜なさらないでください」
穏やかな笑いが広がる。
一方、ナサリオの周囲には悪友ばかり集まっていた。
「今度の競馬行くか?」
「勿論」
「新しく出来た酒場があるぜ」
「おっ、それ行こうぜ」
「娼館も新しい娘が入ったらしいぞ」
「最高じゃねぇか」
話題は悪所通いの遊びばかり。領地の未来、事業、交易、そんな次期当主として当然の話題は一つも出てこない。
その様子を離れた場所から見ていた伯爵が、小さく苦笑した。
「やはり」
「ああ」
隣の公爵が頷く。
「シガンダ公爵家の未来は、小公爵夫人に掛かっていますな」
「小公爵殿は良い夫人を得られました」
そこには皮肉も含まれていた。ナサリオ本人だけは、その意味に気付いていなかった。いや、周囲がそんな風に話していることすら、知らなかった。
結婚から1年、季節は春を迎えていた。
シガンダ公爵邸の執務室には、朝から慌しく領政官たちが出入りしている。
「若奥様」
領政官の一人が、満面の笑みで一通の報告書を差し出した。
「今年度の税収でございます」
フロレンシアは目を通すと、柔らかく微笑んだ。
「予想より良い数字ですね」
「はい、例年より商人の往来も増えました」
「街道整備の効果が出始めています」
「農村部も豊作でした」
次々と届く明るい報告。決して劇的な改革ではない。一つ一つは地道な改善だった。道を整え、水路を引き、交易を活発にし、領民の声を聞く。その積み重ねが、確かな成果となって表れ始めていた。
「皆さんのお力です」
フロレンシアは心からの謝意を込めて頭を下げる。
「これからもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、若奥様」
領政官たちも自然と笑みを返す。この1年で彼らは完全に理解していた。目の前の女性こそ、自分たちが仕えるべき領主なのだと。
ある日の午後。公爵邸では一つの朗報が広まっていた。
「若奥様、ご懐妊です!」
侍女長の声に屋敷中が湧きたつ。
「本当か!」
オラシオは思わず立ち上がった。
「はい!」
「おめでとうございます!」
ドミティラも目に涙を浮かべながらフロレンシアの手を握る。
「本当に……本当にありがとう。身体を厭うてね」
「はい、ありがとうございます、お義母様」
穏やかに微笑むフロレンシアの周囲は祝福一色だった。跡継ぎが産まれる。それは公爵家にとって何よりの慶事である。
その知らせは当然、ナサリオの耳にも入った。
「坊ちゃま、若奥様がご懐妊なさいました」
「そっか」
ナサリオは興味なさげに頷く。
「おめでとうございます」
「ああ。男なら跡継ぎか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。興味は薄い。彼の興味は一点だけだ。
「で、懐妊したら当分夜はお預けなんだろ? いつからヤってもいいんだ?」
フィデルは思わず口をポカンと開けてしまった。一応主君に向ける顔ではない。何処までも予想の斜め上を行く、悪い意味での期待を裏切らない。その反応に呆れるしかなかった。
それから数か月後、長男が誕生した。屋敷中が歓声に包まれる。オラシオは孫を抱き上げ、目を細めた。
長男はマルセリノと名付けられた。
「良い名ですね」
ドミティラも幸せそうに笑う。
「きっと立派な公爵になります」
その言葉にオラシオは静かに頷いた。
「ああ」
この子なら、そしてその母なら、安心して未来を託せる。ナサリオのときのような失敗は犯さない。
父であるナサリオはフロレンシアが産気づいても遊びに出かけていた。マカリアが出産の立ち合いを望んだので、邪魔されないように追い出したようなものだった。ナサリオ自身も出産に興味はなく、悪友たちと酒場に出かけていたのだ。
屋敷に戻ったナサリオはフィデルに促され、赤ん坊を見に来た。
「ご長男ですよ」
「へぇ」
ナサリオは一瞥するだけだ。
「可愛いですね」
「そうか?」
「抱っこされますか?」
「いや、いい」
生まれた赤ん坊には全く興味を示さなかった。
「それより」
ナサリオは小声で尋ねた。
「フロレンシアとはいつからヤれる?」
フィデルは言葉を失った。命がけで子を産んだ妻を労うこともなく、公爵家の跡取りが産まれたことを喜ぶでもなく、飽くまでも自分の欲にのみ忠実だった。呆れるより他にない。
「……坊ちゃま、若奥様は今お産みになったばかりです。当分の間お体を休めなくてはなりません」
「ふーん」
それだけ聞くと、ナサリオはその場を去って行った。妻を労うことも、子を抱くことも、子の名前を確かめることもなく。
残されたフィデルは深々と溜息をついた。
月日は流れる。翌年には長女レアンドラが生まれた。更に翌年には次男セレドニオが誕生する。3人は年子で、屋敷は以前にもまして賑やかになった。
当初の予定通り3人の子が生まれたのでナサリオはお役御免だ。フロレンシアは閨を拒否するようになった。マカリアは実家の父の伝手で手に入れた、精力減退の秘薬を公爵夫妻了承の元、ナサリオに飲ませるようになった。
3人の子供の周りには、フロレンシアの側近たちと、シガンダ公爵夫妻、エチェバルリア公爵夫妻が選んだ教育係たちが控えている。その中でも3人はマカリアに懐いている。
「リア!」
幼いマルセリノが両手を伸ばす。
「はいはい、坊ちゃん」
マカリアは笑顔で抱き上げる。それをマルセリノはキャッキャと笑い声をあげて楽しんでいる。
その様子を見てフロレンシアもロシータも微笑む。
「本当に懐いていますわね」
「可愛いですよね。お母様にそっくり」
マカリアも目を細める。
「お父君には似てませんわねぇ。これからも特に中身は似てほしくありませんわ」
ロシータが苦笑する。3人の子供たちはナサリオにあまり似ていない。ただ、3人とも髪の色はナサリオと同じ金髪で、瞳の色がオラシオと同じ琥珀色だ。顔立ちは完全にエチェバルリアの系統だった。関係者全員が中身もエチェバルリアであることを願っている。
「それは皆の願いですね」
3人は顔を見合わせて笑った。
その頃、当のナサリオは悪友たちと酒を酌み交わしていた。子供たちに関心を示すことはない。
それでも屋敷は何一つ困らなかった。フロレンシアが領地を支え、マカリアがナサリオを邪魔にならぬよう誘導し、フィデルが使用人を纏め、オラシオとドミティラがそれぞれの後見となる。
誰も表立って口にはしない。しかし、公爵家の使用人も領民も、皆が同じことを思っていた。
──この家は小公爵夫人によって支えられている。
そして、フロレンシアもまた、自分に与えられた役目を静かに受け入れていた。
跡継ぎとなる長男、その補佐となる次男、他家との縁を結ぶ役目を持つ長女。3人の子に恵まれたことで、公爵家の未来は盤石といってもいい。
ナサリオが担うべき『跡継ぎを残す』という役割も、これで充分に果たされた。
後は──この家の未来を、より良い形へ導いていくだけだった。




