第5章 それぞれの新婚生活
王立アルムニア学院の卒業式から1か月後。王都でも一際盛大な祝福を受け、エチェバルリア公爵令嬢フロレンシアとシガンダ公爵令息ナサリオは夫婦となった。
両家は王家に次ぐ公爵家。しかも両家の婚姻は、超希少鉱物オリハルコン鉱脈の共同開発という国家事業にも関わる。王族をはじめ国内の有力貴族が列席した結婚式は、近年でも最大級の規模で執り行われた。
純白の花嫁衣装に身を包んだフロレンシアは、誰もが息を呑むほど美しかった。銀髪は真珠の髪飾りで纏められ、蒼銀の瞳は静かな決意を宿している。その姿を見た者は皆、口々に言った。『まるで女神のようだ』と。
一方、新郎であるナサリオも容姿だけなら申し分ない。金髪碧眼の美丈夫。並び立つ二人は、絵画のように美しいお似合いの夫婦だった。──外見だけなら。
婚姻に先立ち、両公爵家では情報共有が行われていた。エチェバルリア家では計画の初期段階から主だった者には計画内容が明かされていた。当然両親と兄、婚家に付き従う侍女やメイド、侍従たちは協力者だった。
そして、シガンダ公爵夫妻に改めてナサリオの愛人のことを説明したのだ。
「シガンダ公爵閣下、公爵夫人、ナサリオ様の愛人は彼女ですのよ」
自分の後ろに控える侍女を紹介した。そして、こちらが制御できる愛人を持たせるために信頼する侍女を送り込んだと告げたのだ。
フロレンシアの周到さに驚くとともに謂わばハニートラップに引っかかった息子が情けなく、けれど公爵家の円滑な運営のためにはこれが最善とも理解し、公爵夫妻は二人に協力することを約束してくれたのだった。
「リア」
結婚式を終えた控室で、フロレンシアは鏡越しに親友を見た。
今日がマカリアが侍女としてフロレンシアに付き従う最後の日となる。明日の午後には一旦公爵邸を出て、実家の用意した馬車で再び公爵邸を訪れ、そのままナサリオの愛人として用意された別館に住むことになるのだ。フロレンシアが必要な子を産むまでの間は表立って仕えることは出来ない。尤も、ナサリオが遊びに出ているときには侍女として側にいる気満々のマカリアである。
「いよいよね」
「はい」
二人は自然と笑い合う。そこへロシータも入室した。
「本日は誠におめでとうございます」
「有難う、ロシータ」
卒業後、ロシータは予定通りフロレンシアに侍女として仕えている。そして婚家にも筆頭侍女候補として同行する。
「今日からは気を抜けませんわね」
ロシータが苦笑する。
「ええ。学院と違って1日中といってもいいですからね」
マカリアも頷く。
「でも、作戦は順調に進みそうですね」
ロシータは少しだけ笑った。
「そうね。ナサリオ様はまだ気付いてもおられないもの」
フロレンシアも頷く。
学院で自分に侍っていた令嬢と、婚約者の侍女が同一人物であることにナサリオは気づいていない。他家の使用人の顔など、彼は覚えていない。自家の使用人だって、直接接する侍従や上級使用人くらいしか名前と顔が一致しないほどなのだ。だからこそ、成立する作戦だった。
「それでは」
マカリアが悪戯っぽく笑う。
「第2幕、開演ですね」
3人は静かに笑い合った。
その日の夜、シガンダ公爵邸。
新婚夫婦へ用意された寝室は流石公爵家というべき豪華さだった。2階には現公爵夫妻のそれぞれの私室と夫婦の寝室があり、3階が新婚の次期公爵夫妻に用意された部屋だった。
中央に夫婦の寝室があり、左右にそれぞれの部屋がある。それぞれの居間・執務室・寝室・浴室(トイレ含む)がある。今夜二人がいるのはその夫婦の寝室だった。
大きな天蓋付きの寝台。要所要所に仄かな灯が点り、花の香りが部屋を包んでいる。フロレンシアは静かに椅子に腰かけ、ナサリオが口を開くのを待った。やがて使用人たちが出て行き、二人きりになる。沈黙を破ったのはナサリオだった。
「一つ言っておく」
「はい」
「俺がお前を愛することはない」
予想通りの一言だった。市井の芝居や物語に感化されやすいナサリオなら初夜にこの言葉を言うのではないかとマカリアとロシータ、ついでに兄の婚約者と予想していたら、大当たりである。フロレンシアは笑わないように気を付けながら、真っ直ぐに夫を見つめた。
そのフロレンシアの強い視線に──噴き出すのを堪えるために表情が硬くなり、目力も強くなっていた──ナサリオは少しばかり怯む。しかし何とか自分を奮い立たせ、言葉を継いだ。
「俺が愛しているのはマカリアだ」
「然様ですか」
フロレンシアは穏やかに頷くだけだった。反論もしない、怒りもしない、泣きもしない。その反応にナサリオは内心で満足げに笑う。
(やっぱり俺に惚れてるから、逆らえないんだな)
自分に都合よく解釈する。本音を言えば取り乱し泣き縋って欲しいところだ。そうすればより優位に立てる。だから、フロレンシアの反応は従順すぎて盛り上がりに欠ける点が不満だった。ナサリオとは、そういう男だ。
「次期公爵夫人としての立場は保証してやる」
「当然ですわね。そういう契約です」
思った反応と違い、あれ?とナサリオはここで初めて疑問を抱く。だが、フロレンシアが自分に惚れて従順だと思い込んでいるナサリオはそのまま話を続けた。
「跡継ぎは作る」
「当然です。スペアと嫁出し要員、最低3人は必要です」
やはり予想の返事とは違う。だが、3人も子が欲しいとはそれだけ俺に惚れているのだろうと愚かな勘違いをナサリオは積み重ねる。
「それ以外は俺に口出しするな」
「畏まりました」
フロレンシアが口出しすることはない。それはマカリアとナサリオの侍従、義両親に任せている。
ナサリオにはフロレンシアの態度が従順なものに見えた。
(扱いやすい女だ)
ナサリオはそう結論付ける。
一方、フロレンシアは内心で安堵していた。予想以上に話が早くて助かった。互いに愛情は求めない。夫婦としての役割だけ果たす。それならば余計な衝突は避けられる。尤もナサリオはフロレンシアは自分を愛しているがゆえに従順であり、自分に逆らうことはないと思い込んでいるがゆえの今夜の会話だったのだが、それを理解したうえでフロレンシアは最低限の言質が取れたことに安堵していた。何しろ、隣室では公爵家の執事長とメイド長が初夜の見届人として控えている。先ほどの会話も確りと記録されているのだ。
そしてその夜。貴族の夫婦として果たすべき義務は果たされた。
フロレンシアにとってそれは、心を閉ざして耐えるだけの時間だった。ただひたすらに経典の聖句を唱え、自分に課せられた役目を終えることだけを考える。兄嫁や既婚の友人たちから話に聞いていたよりも遥かに短い時間で済んだことだけはフロレンシアにとって幸いだった。
一方のナサリオは自らの欲望を満たせたことに満足し、上機嫌だった。
その夜を境に、二人の夫婦関係は形だけ成立した。しかし、それは愛情のはじまりではなく、それぞれが別々の方向を向いて歩み始めた最初の日でもあった。
翌朝、朝食の席。現シガンダ公爵オラシオと公爵夫人ドミティラが、新妻を温かく迎えた。
「昨夜はゆっくり休めたかな」
オラシオが穏やかに問いかける。
「はい、お義父様」
フロレンシアはいつも通り優雅に答える。その姿にドミティラは胸を撫で下ろした。昨夜の顛末は報告を受けている。無事に夫婦となったことは確認されている。息子が何か問題を起こさなかったか、そればかりが気掛かりだったが、上手くフロレンシアが受け流してくれたおかげで恙なく初夜は完遂されたのだ。
「フロレンシアさん、改めてになるけれど、この家にようこそ」
「ありがとうございます」
ドミティラは優しく微笑む。
「困ったことがあれば、遠慮なく相談してね」
ちらりと息子を流し見つついえば、フロレンシアは心得たように頷いた。
「はい、ありがとうございます、お義母様」
一方、ナサリオは朝食を食べ終えると立ち上がった。
「じゃ、俺は出かけてくる」
「何処へだ」
「マカリアを迎えに行く」
その場の空気が一瞬止まる。確かに今日、マカリアは愛人として公爵邸別館へと迎え入れられることになっている。だが、それを後朝を迎えたばかりの新妻の前で口にするなど、配慮の欠片もない所業だった。
因みに、マカリアはフロレンシアの身支度を手伝った後、実家に戻っている。
息子の情けも常識の欠片もない言動にオラシオは深々と溜息をついた。これで愛人が正妻の手駒でなければ、早々に家庭内不和の種が大量にばら蒔かれたところだ。
「……そうか」
叱る気力も失せる。ドミティラも頭を抱えそうになるが、早々に愛人が来るのであれば、フロレンシアの負担が減るのだと気持ちを切り替えることにした。
「いってらっしゃいませ」
そんな夫妻を尻目に、フロレンシアだけは穏やかに微笑んだ。その姿を見て、公爵夫妻は申し訳なさで胸が痛んだ。
一方、フロレンシアは内心で思う。
(そのまま、マカリアに溺れていてくださいまし。その間にわたくしはわたくしの仕事をいたしましょう)
こうして、シガンダ公爵家の新しい日常が始まったのである。
結婚から1週間。シガンダ公爵家では、早くも新しい日常が出来上がりつつあった。
この1週間はフロレンシアが最も妊娠しやすい時期であったため(それを見越しての結婚式日程だった)、共寝をした。しかし、今夜からはマカリア或いは侍従による妨害が入る予定だ。
朝、ナサリオは昼近くまで寝ている。なお、フロレンシアは事が済めば湯浴みをして自分の寝室で休んでいるので、共に朝を迎えることはない。
朝食兼昼食を済ませると、マカリアを伴って王都や近郊へ遊びに出かける。ある日は高級料理店、ある日が宝飾店、ある日は劇場、ある日は悪友たちと酒場や賭博場へ。今後はそこに娼館も加わるだろう。領地経営には一切興味を示さず、父公爵に仕事の教えを乞うこともない。
一方、フロレンシアは早朝に起き、朝食後には執務室へ向かう。余りに早くに起きては使用人たちの負担となるため、起床時間は公爵夫妻に合わせている。
執務はオラシオから紹介された領政官たちと行う。既にエチェバルリア領の領政官たちの草の根運動で、シガンダ公爵領の領政官たちにはフロレンシアへの信頼の基盤は出来ていた。
「若奥様、こちらが今年度の収支報告でございます」
老齢の領政官が書類の束を差し出す。
「ありがとう」
束を受け取り、目を通す。ページをめくる速度が速い。だが、視線は隅々まで読み込んでいる。
「こちらの街道整備費ですが、昨年より2割近く増えていますね」
該当する項目を指で示し、フロレンシアは説明を求める。それに領政官は目を見開く。これくらいは変動の範囲内だと然程気にも留めていなかった。
「理由は?」
「山間部で土砂崩れがございました」
説明を聞きながら、フロレンシアは該当地区の資料に目を通す。
「原因は森林伐採ですか」
「その通りでございます」
近隣の領地で大規模な開拓村が出来たため、領内では木材供給が追い付かず、シガンダ公爵領も大量の木材を融通したのだ。その結果、長雨により土砂崩れが発生していた。
「でしたら、植林計画を進めましょう。他の地区でも同様に。資源の循環と、防災。植林によって同時に行えます」
「!!」
領政官たちは顔を見合わせた。まだ資料を読み始めて数日。それなのに、既に問題点と改善策を見抜いている。エチェバルリアの領政官たちが自慢げに『姫執政』と語るのを話半分に聞いていたが、彼らの話に偽りはなかったのだ。
(流石……)
(噂以上の御方だ)
その日の夕方、オラシオへの報告が上がる。
「公爵閣下」
「どうだね?」
「姫執政の名は伊達ではありませんでした」
領政官は苦笑した。
「そうか」
オラシオは満足そうに頷く。散々エチェバルリア公爵と小公爵に嫁に出すことを渋られたのだ。領主補佐となるべく育った娘なのだと。女でさえなければ当主にしていたと。王命とオラシオの粘り勝ちで漸く勝ち得た嫁だった。
「安心いたしました。これでシガンダ領も……」
領政官たちとて小公爵であるナサリオに不安を抱いていたのだ。その不安が次期公爵夫人によって解消された。既に一部の領政官は『姫執政』に対抗して何かいい言葉はないだろうかと議論しているくらいだ。老領政官はどうでもいいだろうと思ったが、若い者たちは『うちの若奥様なんだから、それに相応しい異名がいる!』と息巻いている。完全にフロレンシアが受け入れられた証だった。
その頃、当のナサリオは王都の大通りを歩いていた。
「ナサリオ様ぁ」
「なんだ?」
「新しいドレス、欲しいですぅ」
「見に行くか」
「ありがとうございますぅ」
マカリアは嬉しそうに笑う。そうして二人が向かうのは人気のプレタポルテの店だ。貴族の夫人や令嬢だからといって常にオートクチュールではない。マカリアのような下位貴族は特別な夜会でもなければプレタポルテだ。それでも高価ではあるのだが。
マカリアの笑顔も媚びも当然演技だ。
(お坊ちゃまの予算内、予算内)
内心では確り計算している。高価すぎるものは選ばない。だが、賭博や他の愛人に費やせる予算は出来る限り削る。小心者のナサリオは追加の予算を親に強請れないのだ。だから、借金防止にマカリアがお強請りでナサリオの予算の使い道を管理している。
「ナサリオ様ぁ」
「ん?」
「このお店のケーキ、食べたいですぅ」
「じゃあ入るか」
「わーい」
マカリアは内心で頷く。
(今日も領地のことは全く頭にないわね)
それでいい。彼に領地のこと公爵家のことを考えさせないこともマカリアの仕事なのだから。
しかし、問題は夜だった。
「若奥様」
ロシータが小声で駆け寄る。
「坊ちゃまがこちらへ向っております」
「……また?」
フロレンシアは静かに溜息をつく。初夜から1週間は妊娠しやすい時期であったため、閨を共にした。だが、今日からは違う。だから、閨を共にする必要はない。
初夜以来、ナサリオは夜になると毎夜機嫌よく夫婦の寝室を訪れた。どうやら、フロレンシアの体を気に入ったらしい。愛してはいない。妻として尊重しているわけでもない。だが、その美しい肢体には執着している。そのため、今日も訪れようとしているのだ。
「リアは?」
「もう向かっています」
そして数分後、マカリアからの使いが訪れる。ナサリオは別館へと向かったのでご安心くださいと。
マカリアは『今日も奥さまのところですかぁ? ナサリオ様はあたしのこと、どうでもいいんですかぁ?』と泣き落としをし、自分のところに留めたのだ。
マカリアは愛人になるにあたって、母の伝手を辿り閨房術を学んだ。所謂ベッドテクニックだ。フロレンシアに比べると女性的魅力に乏しい身体であるための策だ。フロレンシアからは『子が欲しいなら孕んでいい』と許可を得ている。だが、孕んでしまえば閨管理が出来ないため、マカリアはナサリオの子を産むつもりはない。
「……申し訳ないと思ってはなりませんよ、若奥様」
「ロシータ……」
「マカリアが選んだ道です。申し訳ないと思うことは彼女の矜持を傷つけることですわ」
自分のために好きでもない男に身を任せるマカリアに対して罪悪感があった。けれど、それはマカリアの矜持を蔑ろにすることだとロシータは言う。
「彼女なら、閨を共にせずとも坊ちゃまを操る術はあったでしょう。ですが、策を確実にするために、マカリア自身が選んだことです。感謝こそすれ、罪悪感を抱いてはなりません」
友人としてではなく、筆頭侍女としての顔でロシータは告げる。この計画を立てたときから、判り切っていたことなのだから。疾うの昔にマカリアは覚悟していたのだから。
「若奥様がご領地のためにお務めになっているのと同じです」
そんな日々が数か月続いた。マカリアはナサリオを遊びへ誘導する。侍従のフィデルは絶妙なタイミングで仕事を持ち込み、それを嫌がるナサリオは執務から自ら遠ざかる。そして、フロレンシアはその間に領地経営を着々と進めていく。
ある日、フィデルは執務室で深々と頭を下げた。
「若奥様、坊ちゃまのことで、お詫び申し上げます」
屋敷や領府でのナサリオの呼称は『坊ちゃま』だ。『若様』でも『若旦那様』でもない。明らかに子ども扱いである。フロレンシアが次期公爵夫人として、次期当主夫人として認められている『若奥様』なのに対して、ナサリオはいつまでも『坊ちゃま』なのである。
フィデルの謝罪に対して、フロレンシアは首を横に振る。
「フィデル、貴方が謝ることではありません」
「ですが」
「寧ろ助かっているの」
「え?」
「貴方とリアが協力してくれているから、仕事が滞りなく進められるの」
フィデルは思わず苦笑した。
「そのように仰っていただけると救われます」
彼は幼いころからナサリオに仕えてきた。教育係の補佐をしてきた。礼儀も学問も政治も、何度教えても身に付かなかった。期待し、失望し、それでも諦めずに教え続けた。
だが、今は違う。シガンダ公爵家にはフロレンシアがいる。
(この方なら、この家を守ってくださる)
その確信があった。
執務室の窓から見える庭では、ナサリオがマカリアと笑いながら散歩している。その様子を見たフィデルは小さく笑った。
「坊ちゃま、そのまま遊んでいてください」
その一言に、フロレンシアも同席していたロシータも思わず笑みを零した。




