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遺形の承継者  作者: Skorca
第2部
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37.敵地

 ディルを乗せたオリス姫の馬車は、王宮を背にして進む。

 昨日ヴィーと共に乗った馬車に比べると、車中の貴婦人への配慮もあるのだろう、その歩みはずいぶんと緩やかだ。お陰で移動中、うっかり振動で舌を噛みそうになるといった懸念を抱くことはなかった。

 幾度か道を曲がったのち、行く手に豪奢な門が現れる。馬車はさらに速度を落とし、門前に至ると静かに停止した。

 記憶している限り、昨日ヴィーと共に馬車で通ったグネモン侯爵邸への道は辿《たど》っておらず、屋敷の門の様子も違う。そのことにディルは少しだけ安堵した。

 ソーン伯爵邸より王宮から離れているとはいえ、かつて暮らしていた内郭外縁のリリー男爵邸に比べればずっと中心に位置している。つまりそれなりの家格の貴族のものであろうことが窺《うかが》えた。

 丁重に門衛に迎えられた馬車は再び動き出し、敷地内を本棟へと向かう。その道中、幾度か庭の向こうを人影が行き交うのが目に入り、ディルはどことなく慌ただしい雰囲気を感じた。

 かつて男爵家に仕えていた頃の経験に照らし合わせると、これから貴族の一行を迎えるといった、いささか大掛かりな支度でもしているのだろうか。

 この馬車自体はそこまで気に掛けられている様子でもなく、となると他に何者かが到来するのかもしれない。そう思うと、ここでいったいどんな事態に巻き込まれるのかと、ディルは新たな不安に襲われる。

「父上はまだお戻りでないのね」

 同じく外の様子を窺っていたオリスが言うと、馬車の外からリードが応じた。

「予定だともうすぐだとは思うけど」

 なるほど、つまりこの屋敷の主人の帰還のために、家人たちが準備に追われているらしい。ということは、ここはグネモン卿の長男であるデーツ伯の屋敷で、当の伯爵が今は不在ということか、と彼らの会話からディルは頭の中で事態を整理した。

(そういえば……昨日、ヴィーとリード様が話してたのって、このことだったのかな)

 いつご帰還か、といったことをヴィーが尋ねていた記憶が、朧げながら思い出される。

 馬車は本棟の正面入口に到着した。下馬したリードの手を取りオリスが外に降り立つ。続いて馭者《ぎょしゃ》の助けを借りながら、侍女、ディルの順で馬車を降りた。

 明るい色の石を用いた建物は、堅牢ではあるがソーン伯爵邸より幾分軽やかな印象だ。ついあちこち見回してしまいそうになるが、先を行く侍女が冷たい目でこちらを睨んでいるのに気付き、慌てて後に続いた。

 出迎えた家令がオリスに一礼する。ソーン伯爵家のいかにも老練といった雰囲気の家令よりは、一世代ほど若いように見えた。

「お帰りなさいませ、オリス様。お祖父さまはご壮健でいらっしゃいましたか?」

 親しさの滲む相手の問いに、オリスはにこやかに答えた。

「もちろんよ。お変わりないご様子だったわ」

 お変わりない、という言葉に何やら含みがある気配を感じ取ったらしく、家令はわずかに苦笑する。

「それは何よりでございました。……そちらの子供は?」

 早速目を向けられ、ディルは緊張に身を固くする。さすがに権門の屋敷を取り仕切る家令ともなると、物腰も眼差しも柔らかいながら、いかなる異変も見逃さないような隙の無さを感じた。

 オリスはちらとディルを見遣り、すぐに答える。

「伯母上からの預かりものよ。新参の女官の親類なのだけど……彼女に引き取られるまで平民同然の暮らしだったのですって。このまま王宮に上げるわけにはいかないから、わたくしの許で行儀見習いをさせてほしいと仰せつかったの。これが伯母上からの書状よ」

 オリスの言葉に合わせ、侍女が丸められたままの羊皮紙を差し出す。オリスは書状を手に取ると、家令の前で半分ほど開いた。

「……この通り、メリア付きなの。つまり内容については他言無用よ」

 わずかに声を落として言いながら、書状の下部を占める円形の署名を家令に見せる。彼はわずかに驚きに目を瞠《みは》り、それから神妙な顔つきで頷いた。

「――畏《かしこ》まりました。拝見しても?」

「ええ」

 家令は恭《うやうや》しく書状を受け取り、手早く目を通す。読み終えるとディルを一瞥(べつ)し、真剣な面持ちのままオリスに視線を戻した。書状を元通りに丸めると彼女に返し、控え目な声量で問う。

「姫もこれ以上のことはご存じない……ということなのでしょうか?」

 問われたオリスは肩を竦めてみせる。

「ええ、そうよ。……ただ、どうしてわたくしが指名されたのかは分かる気がしているわ」

「ゆえにお手許に置かれると?」

「そういうことよ。貴方も伯母上の意図は想像がつくでしょう?」

 家令はいささか難しい顔になり、まっすく伸ばした左手の指を顳顬《こめかみ》に当てる。わずかの間考え込む様子を見せたが、ほどなく頷いた。

「……あの御方のお言葉とあれば致し方ございませぬ。姫も心して大役を務められますよう」

「もちろんよ」

「この者の立場は先ほど姫が仰せになられたように、行儀見習いで通される、ということでございますね?」

「ええ。お願いね」

「御意に」

 再び頷く家令にオリスは微笑みを返すと、屋敷の中へと踏み出した。

「もうすぐ父上もお戻りなのでしょう? わたくしはそれまで部屋で休むわ」



 この屋敷でのディルの立場は、ここへ向かう馬車の中で話し合われた。しきりにリードが「牢にでも放り込んでおければいいのに」と独り言《ご》ちるのを横に聞きながら、ディルは懸命にオリスと侍女の協議に聞き入った。

「お前、リディの質問に答えたわね。ということは読み書きができるのかしら?」

 思いついたようにオリスに問われ、ディルは緊張の面持ちで答える。

「ええと、司祭さまに教わってました。おれ、書記見習いだったから……」

「ああ、どうりでわたくしたちの話にずっと聞き耳を立てていたわけね」

「えっ? あの……」

 ディルは戸惑った声を上げた。

 この身分ある姫が、平民の使用人に過ぎない自分をそこまで冷静に観察していたことに驚く。

 確かに、ディルは状況を把握しようと彼女やリードたちの会話に注意して耳を傾けていた。彼にとっては必然の行動であったが、もしかしたら不作法だと思われていたのか。

 ディルは身を固くしたが、オリスは気にした風もなく話を続ける。

「わたくしたちの会話を理解できると思っているから聞き入るのでしょう? 司祭の直弟子だったのなら納得ね。下働きの者たちはわたくしたちが話していても、内容に注意を向けたりはしないもの」

 似たようなことを聞いたことがある……とディルは思い、昨晩のヴィーの言葉を思い出した。


 ――普段、民と話をするときは、よほど慎重に言葉と話題を選ばないと、畏《おそ》れて逃げ出されるか『分からない』と端《はな》から対話を拒絶されるかのどちらかです――。


 ディルの父のような書記、それに下級貴族や騎士に仕える従者など、平民と言っても貴族と日常的に会話をする層は少なからず存在する。ゆえに自分だけがそこまで特殊なわけでもないのだが。

(ヴィー……)

 彼のことを思い出したところで、ディルの胸に微かな痛みが走る。まさか再び、それもこんなに早く離れ離れになるなどとは思ってもみなかった。

 ……と、つい回想に気を取られて表情を翳《かげ》らせたディルは、自分に痛いほどオリスの視線が注がれていることに気付いて顔を上げる。うっかり姫から気を逸《そ》らしたなど、また侍女に無礼と叱られかねない。急いで意識を元の会話に戻した。

「……でも、難しくて姫様のお話はあんまり分かりません」

 正直に言うディルに、オリスは目を細めて微笑んだ。

「それはそうでしょうね。子供に分かるように話していないもの」

 真っ直ぐ笑顔を向けられて、慣れないディルはいたたまれなくなり下を向く。姫と呼ばれる身分の相手と言葉を交わした経験は、あの亜麻色の姫との邂逅《かいこう》の一度きりだ。そして供連れもなくふらりと現れた彼女のときと、いかにも貴族の一行といった体裁の相手とでは緊張の度合いもまったく違う。

 物慣れない様子の彼に、オリスは何かを閃《ひらめ》いたような顔をした。

「……良いことを思いついたわ。伯母上の女官が田舎の親類の子を引き取ったということにしましょう。いずれ王宮へ上がれるよう、まずはわたくしのところで行儀見習いをさせる――という設定よ」

 瞳を輝かせて語る従姉の考えに、リードは軽く顔を顰《しか》める。

「田舎……は無理があるんじゃないかな」

「あら、どうして?」

「こいつの話し方、どう見たって王都育ちだもの。地方の出だなんて言ったら不自然だよ」

 オリスは感心したように目を見開いた。

「まあ、考えたこともなかったわ。そんなに違うのかしら?」

「領地の城の者たちを思い出してみてよ。オリーはあんまり戻ってないけど、少しは記憶にあるでしょ?」

 言われたオリスは、しばし何かを思い出すように視線を虚空に泳がせる。

「……そういえばそうね」

「貴族や騎士ならまだしも、平民はすぐに分かるよ。あんまりかけ離れた素性にするのは難しいと思うな。こいつがそれらしく振る舞うなんてできっこないよ」

 相変わらず言葉の端々に棘《とげ》を感じるリードの物言いではあったが、その内容は至極尤(もっと)もだった。ディル自身、王都以外の暮らしなど分からない。野盗に捕まっていた時期の体験では何の参考にもならないだろう。

「難しいものね……」

 それほど困った様子でもなく、オリスは呟く。そりゃそうだよ、とリードが呆れたように言った。しかし周囲から何かと口を出されることに慣れているらしい彼女はまったく気にする様子もなく、思案に耽《ふけ》る。

「……平民として暮らしていたけれど、最近になって騎士の親類と分かって引き取られた、というくらいがよいのかしら」

「まあ、その辺りが無難だろうね。……はあ、よりによってソーン卿に繋がる子供をオリーの側にだなんて……」

 一応は同意しながら、リードは深い溜め息をつく。王妃の意向とはいえ、ソーン卿への警戒心が強い彼としてはまったくもって気の進まない状況だった。

「ほんとうに手許に置かれてよろしいのでしょうか」

 侍女も幾度となくそう言うが、オリスは譲らない。

「こんな年頃の平民の子を、理由も尋ねず万全に保護してくれるような手駒がわたくしにあると思って? リディですらこの有様なのに」

 突然引き合いに出されたリードが慌ててこちらを向く。

「えっ、オリー! 別に保護しないなんて言ってないよ。私はただ……」

「こっそり意地悪しそうで心配だわ」

 ぐ、と言葉に詰まるリードにオリスは勝ち誇った顔をした。

「ほら、わたくしの思った通りね」

「わ、私はそんな卑怯な真似は……」

 弱々しく反論を試みるリードを、並走しながら遣り取りを聞いていた従者のケイパーが穏やかな口調で諭す。

「リード様、不平不満を繰り返されるとこのように信用を無くしてしまわれるのです」

 リードは恨めしそうにケイパーを振り向いた。

「お前、そう思いながら黙っていたのか」

 ケイパーは神妙な面持ちで静かに目を伏せる。自分で気付くべきだ、という彼からの無言の示唆に、リードは憮然として前方に顔を戻す。

「……騎士らしからぬ態度だったことは認める」

 渋々非を認めると、ケイパーはそっと苦笑した。

「リード様のご心配も分かりますが……」

 そう言う自身の従者を、リードはわずかに眉間を寄せて横目で見遣る。

 ほんの少し前までなら、純粋に自分を諫《いさ》めているのだと素直に思えただろう。しかし、彼が王妃の信奉者らしいと知ってしまった今、その王妃の要請に意気揚々と突き進むオリスを支持したいだけなのでは、という疑念が拭《ぬぐ》えない。

(……やっぱりソーン卿は厄介だ!)

 自分がこんな心境に陥っている時点で、このカーラントがソーン卿の術中に嵌《は》まっているように思えてならなかった。



 オリスの一行は、先々で使用人たちに「お帰りなさいませ」と声を掛けられながら屋敷の奥へと進んでいく。末姫ということもあるのか、皆どことなく親しげな様子であった。

(リリーのお屋敷も、その前のお屋敷も姫様がいたことってなかったな……)

 リリー男爵アブラスには幾人か子供がいたものの、ディルがやってきた頃にはいずれも成人済みで、屋敷には暮らしていなかった。その前に仕えていた屋敷も跡継ぎの子息が一人いただけだ。そして現在、主家となったソーン伯爵邸も、あの歳若いヴィーが当主である以上、姫という存在があるはずもない。

 ディルが知る近い存在といえば男爵家での奥方であるが、平民の、それも少年のディルが関わることはほとんどなかった。屋敷中が一堂に会する夕食時にはもちろん姿を目にしたのだが、ただそれだけである。普段彼女が具体的にどのように過ごしていたかは知る由もなく、また興味の対象外でもあった。

 そのようなわけでディルにとって、貴婦人の生活のすべてが未知と言わざるを得ない。本当に王宮に上がる予定があるわけではなく、近侍のふりをすればよいだけとはいえ、姫の部屋のどこにいればよいのかすら分からない有様である。

 ディルは姫が外出用の装備を解き、窓辺の石組みの腰掛けで寛《くつろ》ぎ始める様子を所在無げに見ていることしかできなかった。

 姫の身の周りを整える侍女からは「邪魔」とでも言いたげな空気が遠慮なく漏れ出ており、居心地の悪さといったらない。

 リードはオリスを居室に送り届けるとすぐに立ち去っており、たとえ険悪な様子でも構ってくれていた相手がいなくなったのは、今のディルには意外と堪《こた》えた。

 やがて人心地《ひとごこち》ついた様子のオリスが、ようやく彼に注意を向ける。

「ディル、こちらにいらっしゃい」

 声を掛けられ、ディルは弾かれたように顔を上げた。

「……はい!」

 勢いよく返事をするなりオリスの許に駆け寄る。

 実際にはここに着いてからそれほど待たされたわけではないのだが、身の置き所の無さにじりじりしていた彼は、ようやくこの状況から解放されると思うとつい足取りが弾んでしまう。

「落ち着いてお歩きなさい!」

 途端、侍女に叱責され、慌てて歩調を緩めた。

「姫様の御前で走るなど以《もっ》ての外《ほか》です。もっと背筋を伸ばして。……違います、わざとらしく反り返るんじゃありません! 自然に、顎を引いて」

 まさか歩くだけでここまで注文が飛んでくるとは思わず、ディルは目を白黒させる。言われたことのない注意に手足をどう動かすべきかが分からなくなりそうだった。

「あら、随分と熱心ね。それらしく躾《しつ》けるつもりなの?」

 細かく指導を始めた侍女に、オリスも意外そうな顔をする。侍女はきっぱりとした口調で言った。

「たとえ仮初《かりそめ》の立場であろうと、無作法者を姫様のお側に置くわけには参りません! 姫様もこの者の無礼をお許しになりませんように。ご自身で行儀見習いとするとお定めになられたのですから、それらしく扱われませんと疑われてしまいますよ」

「……話し相手をしてくれるだけでよいと思ったのだけれど」

「そのようなわけに参るはずがございませんでしょう? 女主人としてのお役目をきちんと果たされませ」

 すでにオリスの面前まで到達していたディルは、立ち止まって戦々恐々とこの会話を聞いていた。そして自分にとって最悪の結論で落ち着いてしまったことに暗澹《あんたん》たる気分になる。

 気さくな姫はともかく、この侍女に四六時中礼儀作法の指導をされるのかと思うと、気詰まりなことこの上なかった。

(おれ、ただの平民なのに……)

 貴族の近習の難しい作法など教えられても、こなせる気がしない。書記見習いとして司祭の指導を受けていたときですら、さほど出来の良い生徒だった覚えはないのだ。

 オリスは有り難くないという顔つきのディルを少しの間見つめ、それから悪戯《いたずら》っぽく微笑んだ。

「……そうね。これはこれで面白いかもしれないわ。この子をどこまで仕込めるか試してみましょう!」

「お遊びではございませんのよ、姫様。相応しくない振舞いの者をお側に置いては姫様の名折れになります。これはご自身の名誉を守るためでもあるのですから、真剣に取り組んでくださいましね」

「分かっているわ。――ではディル。まずはお勉強が先のようね。このヘザーにお作法を教わりなさい。わたくしとのお喋りは晩餐《ばんさん》の後にでもしましょうか。少しずつで良いからわたくしに成果を見せて?」

(そんな……!)

 ディルは涙目になったが、逆らえるわけもない。

「……は……はい……」

 女性ふたりの顔を交互に見上げながら、力無く頷くことしかできなかった。

(ヴィー、また迎えに来てくれるんだよね!? お願いだから早く来て!)

 グネモン邸に囚われていたときとは全く異なる意味で、過酷な日々が始まろうとしている気がしてならない。ディルは祈るように心の中でヴィーに呼び掛けた。



「……父上はまだお着きにならないのかしら。先触れも現れた様子がないわね」

 立ち方から事細かにディルを指導するヘザーを遠巻きに眺めながら、そろそろ飽きてきたオリスは呟いた。

 彼女の言葉にヘザーもふと顔を上げ、それから身体ごと振り返って答える。

「確かに遅うございますわね。日が暮れてしまいますわ」

 既に午後の太陽は西へと大きく傾いていた。オリスは瞼を半分ほど伏せ、低い声で呟く。

「……また父上の悪い癖が出たかしら」

「そのような……」

 咄嗟にヘザーは返したが、オリスの言葉に心当たりがあるらしく、これまでの歯切れの良さが無い。

「本棟の様子を見て参りますわ。ディル、お前はきちんと姫様のお側に控えているように」

「え? は、はい……」

 突然指示されたディルが戸惑い気味の声で答えると、即座にヘザーの眦《まなじり》が吊り上がった。

「きちんとした返事をなさい! 先ほどからおどおどと見苦しい」

「……はいっ!」

 反射的に背筋を伸ばして言い直す。

 かつてリリー邸でも日々女性たちの小言を食らいながら生活していたディルではあったが、あの頃は共に叱られる子供たちが幾人もいた。ゆえに半分は聞き流していたが、ここでは到底許されないことくらいは分かる。どちらかというと、司祭から出される書記見習いとしての課題に近いのかもしれない。

「ふふ、苦戦しているわね」

 全身を硬直させたままヘザーの姿を見送ったディルに、オリスは笑う。

「おれ、ただの平民です……」

 困り顔で言うディルに、オリスは唇に人差し指を当てる仕草をした。

「それはここでは秘密でしょう? お前の身の安全のためでもあるのよ」

「……はい」

 返事はしたものの、いまひとつディルは釈然としない。結局自分がこんなところに来た理由が分からないからだ。

 そんな彼の表情を読み取ったのか、オリスはにこやかな顔で言った。

「お前の身柄はね、ある御方から保護するように命を受けているの」

「ソーン卿……ですか?」

 先ほどの家令との会話を聞くに、恐らくは違う。正解はオリスの伯母という人物なのだろうが、それが何者なのかが分からない。ディルの取り敢えずの問いに、案の定彼女は首を振った。

「いいえ。わたくしとソーン卿の間に繋がりなんて無いもの。かの方から何かを命じられる謂《いわ》れも無いわ」

「それじゃあ、誰が……?」

 思わず問いが口をついて出たものの、先ほどリードに教えない、と言われたばかりだったことを思い出し、ディルは俯いた。しかしオリスはあっさりと答える。

「聞いていたと思うけれど、わたくしの伯母上――つまり王妃パースレイン様よ」

「えっ!?」

 思わぬ大物に、ディルは驚きに飛び退《の》いてしまった。

 その反応を見届けると、オリスはふと笑みを消した。おもむろにすっと立ち上がり、妙に気迫の籠った顔でディルに歩み寄る。彼の目の前まで迫ると、身を屈めてその顔を覗き込んだ。

「――つまりね。お前の身に何かあれば、わたくしが妃殿下から責任を問われることになるの。わたくし、仮にもお前の命の恩人でしょう? そのわたくしに対して、お前、まさかそんな酷い仕打ちはしないわよね?」

「ひぇっ……し、しません!」

 気圧《けお》されたディルは後退《あとずさ》りながら必死に答えた。そんな彼の様子を見下ろすオリスの瞳に、どこか剣呑な煌《きらめ》きが宿る。

「もうひとつ。家令はお前の素性――つまりソーン伯家の者だということを知っているわ」

「えっ!?」

 それを隠すために行儀見習いという立場を考えたのではなかったか。ディルは愕然とオリスの顔を見上げた。

「あの書状にはそれが書いてあったの。当然でしょう? だからこそわたくしはソーン邸のあの場所に赴《おもむ》いたのだもの。手形も紹介状も無い子供を、このデーツ伯家の家令が無条件で受け入れると思って?」

 ディルは言葉も無くオリスの顔を凝視する。これまで無邪気で気儘に振舞っていたように見えた彼女は、打って変わって大人びた表情を浮かべていた。

「わたくしがお前の身柄を預かることになったのはね、おそらくこの屋敷の中で、わたくしの許がもっとも重要な情報から遠いからよ。未婚で、末の娘ですもの。つまり、わたくしから離れて勝手な行動をすれば、家令に不審の目で見られるということなの。お前の本当の主人であるソーン卿にもその疑いは及ぶわ。リリーの宗主であるソーン卿と、カーラントの宗主の流れを汲むこの家が政敵同士であるということは、もちろんお前も分かっているわね?」

 ディルは慄《おのの》き、何度も頷いた。

「わ、分か……ります……」

「お前の振舞いによっては、両家に不要な摩擦が生まれる可能性があるの。心してちょうだい」

「は……い……」

 もしヘザーが聞いていたらまた叱られそうではあったが、ディルは掠れた声で返事をすることしかできなかった。

 オリスの言うことは良く分かる。間違いなく、自分は敵対する家の家中にいるのだ。彼女がまったく敵意を向けてこないので、どこか油断していたのを今更自覚した。

 あらためて突き付けられた厳しい現実に、ディルが泣きそうな顔をしているのを見ると、オリスはようやく表情を和らげて彼から顔を離す。

「……分かったのなら、そんなに怖がらなくていいわ。言いつけを守れるなら、わたくしもお前を守ってあげます。伯母上の御名においてね」

 ディルは零れそうになる涙を堪《こら》えながら、無言で頷く。そんな彼に、オリスは優しく微笑んだ。

「安心なさい。伯母上の命令はこの国では最も強い力を持つのよ」

「は、い……」

 返事をしつつ、ディルの中には素朴な疑問が浮かぶ。

(最も強い力を持つのって、国王陛下じゃないの?)

 それをうっかり口に出しそうになりつつも、彼は辛うじて飲み込んだ。



 リードは従者のケイパーを伴い、急いで馬を走らせていた。一度デーツ邸に戻った彼らであったが、そこに主人からの報せが飛び込んできたのである。

 内郭の屋敷から外郭へ、そして王都の外へと駆け抜けた彼らの視界の先に、やがて野営の準備を始めている一団が見えてきた。

 真っ直ぐにそこへ向かったリードは、一行の許に辿り着くと即座に馬を降りる。ケイパーに手綱を預けるなり、中央に建てられた天幕に駆け込んだ。

「伯父上! いったいこれはどういうことなのです!? もう王都は目と鼻の先なのに……」

 中では筋骨逞(たくま)しい中年の騎士が野営用の簡素な腰掛けに腰を降ろし、従者たちに旅装を解かせている。リードの伯父であり仕える主人でもあるデーツ卿アルダー・カーラントは、こちらを振り向くなり磊落《らいらく》な笑顔を見せた。

「おう、リディ。ご苦労だった。――悪いな、ちょーっと野盗なんぞ掃討してたらこの有様で……」

 そう言って、苦笑混じりに従者に持たせた外套を顎で示す。リードがそちらを見遣ると、その布地は返り血で黒々と濡れていた。

「このまま王都に入るにはむさ苦しい出で立ちだろう? それに残党がいないかしばらく哨戒したくてな。急遽留まることにした」

 リードは大股に主人に歩み寄り、手近にあった手巾を取って水桶に浸すと、その顔を慣れた手つきで拭い始める。激しい戦闘の後であることを物語るように、外套だけでなくこちらにも血が撥《は》ねていたのが見て取れた。

「……何があったのですか?」

「昨日――お前を遣いに出した後だ――そこらの村の住民から陳情があってな。ジヌラの流れ者が徒党を組んでいると。……で、一晩かけて探し出して、少し前にやっと決着を付けたところだ」

 リードは呆れたようにため息をつく。

「また勝手をされましたね!」

 しかしデーツ卿は悪びれもせずに笑い飛ばした。 

「カーラント(うち)の名を頼ってきた者を無碍《むげ》にはできまい。これまでだったら炙《あぶ》り出しに『狐』を使ったんだがなぁ。親父殿が潰しちまっただろう?」

「……そのようですが……それなら、代わりの草をお使いになればよかったのでは? また先頭切って斬り込まれたんですね。……オリーはもう屋敷に戻ってきているのに、どうなさるんです?」

「あと一日様子を見たら戻る。親父殿にもそう遣いを出してな、警護の騎士を屋敷に回してもらうよう頼んだ。クローブを付けるとさっき回答が来たぞ」

「……えっ」

 主人がさらりと出したその名に、思わずリードは手を止めた。

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