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遺形の承継者  作者: Skorca
第2部
36/36

36.窮鼠

 白銀しろがねよりまばゆく、黄金こがねよりさやかに――。


 そんな場合ではないというのに、退路を断たれたウィロウ卿の脳裏に、子供の頃から繰り返し聞かされた教典の一節が浮かぶ。

「……お分かりになりましたか? 使者殿」

 恐慌のあまり言葉の出ないウィロウ卿に、重ねて静かな声が問い掛けた。

 その声音はあくまで穏やかで、この息詰まる威容に満ちた空間を一陣の清風が吹き抜けたように錯覚する。それは否応無しに、狼狽で波立ったウィロウ卿の思考を現実に引き戻した。

 観念した彼はようやく正面に佇む相手を正視する。

「……ソーン、の……」

 回答というより独り言に近い声量だった。

 若者は、問題に正答できた教え子を慈しむ教師のような、柔らかい眼差しをこちらに向けた。

 その現実離れした白皙の美貌と、まさに教典の表現を具現化したかのごとき淡い金の髪を目の当たりにし、ウィロウ卿は眼前の若者が、あらためてどのような存在かを思い知る。

 この国ではソーン伯、しかし母国エレカンペインにおいてはウォータークレス公と称される、ヴァーヴェイン・アイブライト。

 一門の至宝である王太子ソレルと同じく、聖者バルサムを祖とするエレカンペイン第二位王位継承者。

 ウィロウの血を汲まず、古い血脈のみを受け継ぐ彼は、一門にとって最も目障りな存在だった。

 宗主カウスリップ伯も王妃ロベリアも、あらゆる手を尽くして彼をおおやけに消し去ろうとしたというのに、結局、王は実の弟の斬首を命じた一方で、その血を受け継ぐ甥の首まで落とすことは許さなかった。それどころか積極的に処刑を申し立てる彼らにさげすみの目すら向けたという。

 王弟は排除できても、その遺児が王位継承権を保持したまま生きながらえたのでは何の意味もない。

 結局、彼は宮廷からは遠ざけられているものの、王弟であった父シダーウッドを遥かに凌ぐ所領と、このカンファー一国を左右する権力をその手に握ったまま、それらをひとつも失うことなく成人してしまった。

 この事実に、エレカンペインの宮廷ではある疑惑が浮上している。

 すなわち、ウォータークレス公ヴァーヴェインは王弟の子ではなく、王の実子なのではないか――と。

(そんな悪夢があってたまるものか!)

 噂を思い出したウィロウ卿は内心で吐き捨てる。

 しかし、事実であるか否かは関係なく、その説を支持する勢力が一定数存在するのは間違いなかった。ウィロウによって鉱床の利益を享受する者たちはともかく、そもそも外戚の座に、釣り合わない家格のウィロウが収まっていることが気に入らないという貴族は多い。

 王の嫡子とはいえ、半分は新興の地方貴族の血を引く王太子ソレルに対し、ウォータークレス公は母もまた王族であり、そこに混じるカンファーの血とて、大陸でも指折りの歴史ある名家のものだ。

 父が叛逆の罪により斬首の刑に処され、本人も僧院預かりで表舞台から追いやられているという瑕疵かしがあってなお、ウォータークレス公の存在はソレルを脅かす。

 彼個人の資質やソレルへ寄せる感情がどのようなものであるかなど一切関係無く、その血統がウィロウにとって容認し得ないものなのだ。

 ウィロウ卿が、そんな一門の天敵とも言えるウォータークレス公本人を目にしたのは、これが初めてだった。

 父を見捨てて保身に走った卑怯者、汚名挽回も図らずのうのうと僧院で暮らす惰弱者、あるいは僧侶紛いの世間知らずな無能――当然ながら一門では散々な言われようのその相手は、悠然とこちらに微笑を向けた。

 思わず視線が吸い寄せられる端麗な容貌は至って穏やかであるのに、なぜかそれだけではない得体の知れなさを感じて、ウィロウ卿はごくりと唾を呑む。

「貴方とは初めてまみえるかと思いますが、ご推察の通り、ここはソーン伯爵邸――私がソーン伯ヴァーヴェインです」

 泰然とした口調に、こちらに据える柔和でありながら揺るぎない眼差し。うっかり意識を呑まれそうになったウィロウ卿は、殊更にいかにも形ばかりという態度でこうべを垂れた。

「お初にお目に掛かります。カウスリップはアジョワンの荘園を預かるブルーム・ウィロウと申します。……かような軽輩に、我が国においてはウォータークレス公たる御方が直々に、いかなるご用であらせられましょうか」

 言外に、だまし討ちのような手段を用いられたことに対する非難を滲ませるが、相手はまるで動じる気配を見せなかった。

「まあ、正確には私自身が貴方に用があったわけではないのですけれどね」

 若者はわずかに口調を変える。その年齢を考えれば、彼の物言いはいささか太々《ふてぶて》しく、長らく宮廷や社交の場と縁遠い暮らしを続けているというわりに、政敵を前にして物慣れない様子が無い。

 しかしそんな違和感に首を傾げたのも一瞬のこと、彼の発言の内容にウィロウ卿は目を見開いた。

「まさか……」

 思わず言葉を漏らした卿に、若者はわずかな憐憫れんびんを込めた眼差しをこちらに向ける。

 そこでようやく、ウィロウ卿は自身がフレーズ家にめられたのだということを認識した。



 足元をすくわれたと知り内心動揺するウィロウ卿に、ヴィーは優しげな口調のまま語る。

「彼らはリリー一門。そしてその宗主は私です。……もっとも、エレカンペインの宮廷は概してカンファーへの興味が薄いですからね。わずか一年前からのことですし、貴方がたが把握していなかったとしても無理はありませんが……」

「無論、存じております」

 侮りを受けたと感じたウィロウ卿はむっとして即答する。そんな相手にヴィーはにっこりと笑ってみせた。

「おや、そうでしたか。では、彼らの苦境に私が手を差し伸べざるを得ないということも、ご理解いただけますね? ――そもそも、宗主である私を差し置いてのエレカンペインとの交渉事は認められないということも」

「……っ」

 満面の笑みと共に繰り出されたヴィーの指摘に、ウィロウ卿は言葉に詰まる。

 先ほど自分が挑発と受け取った相手の言葉が、実は彼が示した逃げ道だったのだということに今更気付くがもう遅い。あのとき知らなかったと答えてさえいれば、この若者はその見え透いた嘘を飲み込み、こちらの行為を受け流す用意があったのだ……。

 相手を青二才と見(くび)るあまり、自ら退路を断つという失態を犯したウィロウ卿は、言葉も無くただヴィーを睨む。しかし彼は涼しい表情をまったく崩さなかった。

 その様子にウィロウ卿は慄然とする。

 柔らかい態度とは裏腹に、凛然とした眼差しは確固たる意思の存在を表しており、それでいて微笑の奥にいかなる感情を抱えているのかは、どうにも読み取ることができない。

 その底知れなさは卿がこれまで目にした老獪な大貴族と遜色なく、彼がまだ家臣の補佐を必要としていてもおかしくない年齢であることを考えると、驚異的と言うほかなかった。世俗からは遠ざけられて育ったはずであるのに、これはいったいどうしたことか。

 目を白黒させつつ、ウィロウ卿は幾許いくばくかの反論を試みた。

「わ、わたくしはフレーズ家と何らかの交渉を行おうとしたわけではございません。グネモン侯への繋ぎをお願いしたのみにて……」

「……なるほど」

 ヴィーはさも納得したように頷く。

「カーラント家との取引なれば私の口出しするところではない、というのが貴方のお考えなのですね」

 そこまで言って、彼は困ったような表情を浮かべた。

「――まあ、その理屈を受け入れて差し上げたいのはやまやまなのですが……。貴方がたの産する明礬みょうばんをグネモン殿に取引させるおつもりなら、私はカンファーのソーン伯としても、エレカンペインのウォータークレス公としても阻止しなければなりません。理由はお分かりですね?」

 ウィロウ卿の顔が強張る。

「わたくしがグネモン侯に明礬の取引を持ち掛けるとお疑いなのですか」

 ヴィーは小首を傾げた。

「他に貴方に、グネモン殿に直接面会を申し出るどのような用向きがあるというのです? 何とは言いませんが、さすがにフレーズ家への協力を途中で放棄されたことに対して、遺憾の意を表明しに行かれるだけではないでしょう?」

 ここに来て突然、遠回しに書簡の件に触れられ、ウィロウ卿は危うく飛び上がるところだった。うっかり問題の書簡を持たせた自身の従者に目を遣りそうになる。

 グネモン卿との接見で取引の材料になれば、と持参してきたが、完全に裏目に出た。自分が所持していることが、あろうことか書簡の送り主の前で明るみになれば、何の申し開きもできない。

 もはやどんなに稚拙ちせつと嘲笑われようと、しらを切り通す以外に道は無い、とウィロウ卿は開き直った。

「仰ることの意味が分かりませぬ」

 しかしヴィーはその件については、さしてこだわる様子も見せなかった。

「お分かりにならないならよろしいですよ。今私が問題にしているのはそこではありませんから」

 そう言って、あっさりと話題を戻される。その、書簡についてはさもどうでもいいと言わんばかりの態度に、ウィロウ卿は安堵よりも恐れを感じた。

 視線を揺らす相手をヴィーはしばし見つめるが、やがてつと身体の向きを変えると、考え事でもするかのように腕組みをし、右手を顎に添えて歩き出す。

 天井から吊るされた壮麗な綴れ織りの下を巡るように、ゆったりとした歩調でそぞろ歩きながら、ヴィーはウィロウ卿から視線を外したまま口を開いた。

「この国がリツェアと結んだ東方協定のことは、貴方もご承知でしょう。それをげてカウスリップ産の流通を持ち掛けられては、私がグネモン殿に苦情を言われてしまいます。――あるいは、グネモン殿がそれでも飛びつくような好条件を提示するおつもりだとすれば、真っ当な値付けになるとも思えません」

 そこまで言ってヴィーは立ち止まり、ウィロウ卿を振り返る。彼の視線に押されでもしたかのように、ウィロウ卿は明らかに怯んだ顔でわずかに上体を反らした。

 彼の反応に、ヴィーは唇の端をわずかに吊り上げる。聖人を彷彿ほうふつとさせる微笑が、どこか艶冶えんやな含み笑いに変貌を遂げていた。

「……どうやら図星のようですね。そうしてこの国に協定を無視させることで、リツェアに不信を植え付けようという魂胆でしょうか。先年からカンファーはかの国――正確には大陸首脳陣カレンデュラの心証が良くありませんからね。これ以上何事かあれば、私が擁護するどころか、私自身がソーン伯としての力量を問われることになりかねない――貴方がたウィロウが期待するのは、そんなところでしょうか」

 リツェアは大陸最大の明礬産出国であり、カンファーにおいても古くより、明礬の主要な交易相手はリツェアであった。

 ゆえにカウスリップ鉱床の発見当時、エレカンペインと政治的な繋がりの強いカンファーへもカウスリップの明礬が流入することを、当時のリツェアはいたく警戒した。

 一方エレカンペイン国内でも、王弟シダーウッドは国内の明礬供給がすべてカウスリップに依存することに危惧を抱いており、リツェアとの関係悪化を防ぐという目的も兼ねて、エレカンペイン東部と、彼がソーン伯を兼ねるカンファーにおいては従来通り、リツェア産の明礬の流通を優先するとした協定の締結を提唱したのであった。

 無論、これがシダーウッドとウィロウ家の摩擦の大きな一因となったことは言うまでもない。しかしラグウィード王もこれについては弟の意見を受け入れた。そしてこの協定――通称東方協定――によって、リツェアのエレカンペインに対する態度も軟化したのであった。

 つまりこれを無視することはリツェアとエレカンペイン、両国の意向に背くことになるのである。

 ウィロウ卿はあえぐように首を左右に振った。

「ま、まさかそのようなこと。滅相もございません……!」

 ヴィーはふと表情を緩める。獲物を追い詰めるような剣呑な笑みは消え、今度はどこか無邪気そうな、少年じみた笑顔を浮かべた。

「私に問われればそうお答えになりますよね。実のところ、これはあくまで私の推測で、当たっていようがいまいがどちらでもよいのです」

「……は?」

 若者の言わんとするところが分からず、ウィロウ卿は目をしばたかせる。

 ヴィーはそんな相手に、申し訳なさそうな面持ちを作り、言葉を続けた。

「可能性がある以上、貴方をグネモン殿に会わせるわけにはいきません。フレーズ家に協定違反の片棒を担がせてしまう恐れもありますしね。そのようなわけで、一門に生じた危険の芽を未然に摘み取るのは宗主の役目ですので、どうか悪く思われないでください」

 不穏な宣告にウィロウ卿は反射的に後退あとずさる。しかし背後はこの部屋に入った時点で固められていたのを思い出し、それ以上前にも後ろにも踏み出せなくなった。

 卿はたまらず声を上げる。

「何をなさろうというのです!? いかに王族の貴方様といえど、証拠もなくわたくしを害すればどのようなことになろうか……!」

 わめく相手に、ヴィーは眉を跳ね上げた。

「証拠を突き付けてほしいとお望みなのですか? 私が今この場で貴方や貴方の従者のふところを探らせないことが温情であると、まだお気付きにならないと?」

 形作られた驚きの表情は純朴さすら漂わせていたが、その口から紡がれた言葉はもはや断罪も同然であり、ウィロウ卿は蒼白になる。

「命まで取ろうとはいたしませんよ。ただ、しばし貴方の身柄はこの屋敷で預かります――お連れして」

 一方的に言い渡すと、ヴィーはこの場に控える家令と従僕たちに合図した。

 最大の政敵とはいえ若年じゃくねんに加えて世俗には強力な後ろ盾も無く、実権などふるえまいと長年思い込んでいた相手から、まさかの反撃を受けたウィロウ卿は呆然となる。ヴィーの指示を受けた従僕たちに両側から腕を取られても、もはや抵抗らしい抵抗は見せなかった。彼は自身の従者と共に広間の外へと引っ立てられ、ヴィーの眼前から退場させられた。



「まったく今日は慌ただしいですね……」

 上方の窓から差し込む斜陽を見遣り、ヴィーはため息をつく。はじめから分かっていたことではあるが、やはりウィロウ一門の相手との対面は愉快なものではなかった。

(東方協定の話なんて、持ち出したくもないのに)

 父の悲劇の始まりとも言えた事案に、自分から言及しなくてはならないとは。感情を押し殺して話すことには慣れているとしても、痛みが伴わないわけではないのだ。

 ウィロウ卿という招かれざる客に翻弄されるフレーズ伯家は、共謀していたグネモン卿に道(なか)ばで離脱され、宗主であるソーン伯の失脚という目的が成らぬどころか、標的にことが露見するという最悪の状況に陥った。

 ローゼルの意向はともかく、計画が失敗した以上、側近の騎士マダーとしては何らかの策を講じ、これ以上の事態の悪化を防ぎたいところであったが、その障害となるのが逗留とうりゅうしているウィロウ卿の存在である。

 そこでマダーは起死回生の一手を打ってきた。

 あろうことか謀略の標的であったヴィーに、大胆にも今回の元凶であるウィロウ卿を、問題の書簡ごと押し付けてきたのである。

 彼の口上はこうだった。

 今現在、主フレーズ伯ローゼルは心ならずもエレカンペイン王家の内紛に巻き込まれ、苦境に立たされている。これはフレーズ伯家の手に余る事態、ひいてはリリー一門の重大な危機であり、宗主ソーン伯直々の介入を望む――。

 つまりマダーは、唯一ウィロウの威光が及ばないヴィーに、リリーの宗主としてフレーズ伯家を救済するよう求めてきたのである。

 マダーはどちらかと言えば、実直さで先代フレーズ伯ネトルの信頼を得ていた人物だ。それがこのような大胆な策をろうしてきたことに、正直ヴィーは驚いた。

 先刻、突如使者として現れた旧知の騎士の要請に、ヴィーはなんとも言えない表情で尋ねたものである。

「……一応訊きますけど、冗談ではないのですよね?」

「冗談では申せませぬ」

 ひざまずき、深く頭を垂れたまま即答され、ヴィーは苦笑した。

「危ない橋を渡るものです。客観的に言って、ローゼルの所業はどうあっても不問にできるものではありませんよ? 第一ウィロウの人間などを私の面前に引っ立てて、穏便に済むと思うのですか。私が世間で言われる通り、父に関して彼らに何らわだかまりを抱かないほど酷薄な人間だとでも?」

「仰ることはまことにごもっとも、お怒りなのは重々承知のうえのお願いでございます。どうか――」

 マダーは更に深く頭を下げる。

 あくまで余計な言い訳はせずひたすら懇願する彼に、ヴィーは盛大なため息をついた。

「……なぜ事前に彼を止めなかったのです。あるいは草を子供に差し向けるくらいなら、その使者を葬るほうに使うべきでしょう」

「エレカンペイン王家外戚の抹殺という決断は、我が国の一貴族には荷が重すぎます」

 マダーの反論に、ヴィーは寸時黙り込んだ。

「……一貴族? そんな覚束おぼつかない覚悟でよくリリーの宗主権を取り戻そうなどと考えますね」

おそれながら……。此度こたびの件に限っては、たとえ先代のネトル様であっても貴方様のご判断を仰いだことと存じます。無論、それをなさらず、ただあちらの意のままに動かれたローゼル様に非のあることは間違いございませぬ」

 ヴィーは失笑した。あの、エレカンペインから直接フレーズ邸に押しかけ、このマダーに止められた夜を思い出す。知らずマントの陰に隠れた右手が拳を握った。

「……分別もない子供の行いを責めるなと言わんばかりの論調ですが、なぜ私が自分より年嵩としかさの相手の愚行を許容してやらねばならないのです?」

「ローゼル様個人をかばい立てするつもりはございません。ですがあの方はフレーズ家の当主であられます。今、真っ当に何らかの処罰を下されることは……」

「分かっています!」

 ヴィーはマダーの言葉を強い口調で遮った。マダーは即座に口をつぐみ、深刻な面持ちのまま彼を見上げる。

 ヴィーの表情からは普段の微笑が完全に消えていた。眉根を寄せ、厳しい顔つきのままヴィーはマダーを見据える。

「貴方にわれるまでもない。もとより私の立場ではそうするほかありません。この国でロベリア妃に対抗できる人間は私をおいて他に無いのですから。――だとしても、貴方がたフレーズの家中がローゼルを放任していてよいという話にはなりませんよ。これ以上何かしでかすようなら……脅しではなく、彼を死んだ方がましと思うくらいの目には遭わせます。別に後継を残してフレーズを存続させるだけなら、彼の正気など必須要件ではありませんからね」

 マダーは何も言えずに息を呑む。

 ことによっては毒を用いてローゼルの精神を破壊し、生涯幽閉する措置も視野に入れているとヴィーは告げたのだ。

 草の指揮権を握っている以上、どれほどローゼルが防備を固めたとしても、彼には不可能ではないだろう。

 マダーはじわじわと背筋が冷えていくのを感じつつ、内心で独り言ちた。

(恐ろしい方だ)

 それは今しがたの発言に対しての感想ではない。一年前、ヴィーはローゼルからリリーの宗主権を奪い取ったが、これはソーン伯として彼がリリーを庇護するにも、ローゼルの独断専行の正当化を防ぎ、必要に応じて制裁を加えるにも、今もって恐ろしく有効な策だった。それを、当時わずか十五歳の彼が、アルテミジアを失った衝撃のなかで考え出し、そして弱腰の王を動かして実現させたのである。

 それを考えると、マダーはその驚異的な胆力に震撼せざるを得ない。

 幼少の時分から見知っている若者であるだけに、なおさらその成長ぶりには凄絶さを感じた。

 やはり彼は、マダーが良く知る一般的な貴族とは大きく異なる。生まれながらに、その存在ひとつが大国の運命に影響を与えるエレカンペイン王族なのだ。

(ローゼル様とは、見ている世界の大きさが違いすぎる)

 恐らくローゼルが、彼の臨む景色を理解することは生涯無いだろう。

「もうひとつ言いたいのですけれどね。ローゼルを止められもせず、なおかつそのまま彼の側にいた貴方も同罪ですよ。結局彼の指示に従って動いていたのでしょう? もちろん、貴方は私の配下ではなくローゼルに仕える身ですから、私から直接その罪を追及はしませんが」

 マダーは再び深く頭を下げた。

「申し開きのしようもございませぬ。仰る通り、わたくしはローゼル様に仕える身。無断で貴方様に注進することは、今のローゼル様からは背信行為と取られることでしょう。そして貴方様のこととなると、ローゼル様は冷静な判断を下せませぬ。力及ばぬ身を恥じ入るばかりですが……諫言も難しいというのが実情です。――ただ、ローゼル様もウィロウ卿もお考え及びではありませんでしたが、わたくしは……貴方様が、アルテミジア様の命日にエキナセアへお出ましになるであろうと確信しておりました。そのことは、どなたにも打ち明けてはおりませぬ」

 ヴィーは唇を引き結び、頭を垂れるマダーの後頭部をしばし見遣った。

「……つまり直接私がどうにかするだろうと踏んだ、ということですか?」

「……端的に申し上げればその通りにございます」

「貴方ねぇ……」

 ヴィーの声が一段低くなる。

 色々言ってやりたいところではあったが、マダーとローゼルの間に信頼関係が築かれていない現実を知るヴィーは、仕方なく文句を飲み込んだ。マダーが優れた主人の許でこそ良き手足となる種類の人間であり、ローゼルが彼の手に余ることは厭でも分かる。

 勿論、だから許容できるという話ではない。ただ、今ここでその件を追及している時間がヴィーには惜しかった。

 ヴィーの声音に不穏なものを感じつつも、そのまま黙っているわけにもいかず、マダーは続ける。

「ですが貴方様は早々にエキナセアをお発ちになられてしまわれました」

「それはそうですよ。ウィロウが何やら動いているのは知っていました。こちらで対処しようとしたら帰国が遅れるのは目に見えていましたからね。むしろさっさと戻って災いの大元を潰そうと思ったのに」

 ディルの一件があり、それは早々に諦めた。結果的に、ウィロウが王太子に宛てた自分の手紙を悪用するという、常軌を逸した行動に出ていることも判明し、エキナセアで腰を据えて対処することにしたのであるが。

 リエール卿にはたまには徒歩で、などと呑気な説明をしたが、馬も使わず裏街道をひっそりと移動していたのも、可能な限りウィロウの目につかないようにするためだった。新興の彼らは草などの組織はそなえていないにせよ、財力は侮れない。金をばら撒いて間者を放つくらいは造作もないのだ。

 アルテミジアの件さえなければ、本来ヴィーはケンプフェリアを動く気は無かったのである。

「……そのような深慮があるとは知らず」

「いいですよ、もう。『カンファーにいないソーン伯』がどれほどこの国にとって意味を為さないかがよく分かります」

 ため息混じりに言われ、慌ててマダーは顔を上げる。

「ヴァーヴェイン様、決してそのような……」

 しかしヴィーは片手を上げて彼を制した。

「憤慨しているわけではありませんよ。手を打つ必要があると思っただけです」

 ヴィーはマダーと相対していた身体の向きを変え、窓の外に目を遣った。

(仮にソレルの代になったとしても、私が解放される可能性は低い……)

 むしろ状況が悪化する恐れもある。ソレルが自らの意志で宮廷を統率できるのかはなはだ怪しいし、可能だったとしてもまず彼自身の意思がヴィーには分からない。

 自身の先行きが不透明なのはともかく、そんなエレカンペインの事情にこれ以上、この国が振り回されては、ローゼルのような反発者が更に現れるのは必至だ。

 ヴィーは視線をマダーに戻し、凛とした口調で告げた。

「貴方の要請通り、ウィロウの使者の身柄はこちらで引き受けましょう。ただし、このことは他言無用です。私とウィロウの者が直接対峙するなど、エレカンペインにとっては大事おおごとです。これ以上ローゼルを巻き込みたくなかったら、そこだけは彼にも徹底させてください」

「は。必ずや」

 マダーは深く頷く。

「内密にことを運べたら――。私はローゼルに、この件の『褒美』を与えるかもしれません」

 思いも寄らないヴィーの発言に、マダーの顔が驚きで固まる。

「そ……それはいったいどのような……」

 恐る恐る発せられた問いに、ヴィーは半眼になって突き放すように言った。

「言葉の通りですが? それに、かもしれない、と言っただけです。やらないとは思いますが、ローゼルには伝えなくていいですからね。それよりまずはきちんと使者を移送してください」

「……御意に」

 慌てて再び礼を取るマダーに、ヴィーはこれ見よがしのため息をついてみせる。

「貴方といい、ジンセング陛下といい……。私が少し優しげなことを言った途端、かえって怯えた顔をするくらいなら、そもそも勝手な真似をしないでください」

「め……面目次第もございませぬ」

 自国の王がヴィーに何を言われ、どのような対応をしたのかなどマダーには分かるはずもなかったが、とにかく彼はヴィーの苦情に平身低頭するほかなかった。

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