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第2話 一枚の紙が、身分を越える

知識を広げれば、本当に人は幸せになるのか。




村を救った神谷光太郎は、ユリアとともに王都へ向かいます。




飢饉を前にした村で光太郎が学んだのは、AIが示す「正しい知識」をそのまま使えば、人を救えるわけではないということでした。




そして第2部で彼を待っているのは、さらに厄介な問題です。




知識を広めることで、困る人間もいる。




文字を読める人が増えれば、知識を独占してきた者の力は弱くなる。




衛生や医療の新しい知識で人を救えば、それまで「正しい」とされてきた常識が壊れる。




正しいことをしたからといって、全員が喜んでくれるわけではありません。




舞台は、村から王都へ。




紙と印刷。




学校と教育。




衛生と医療。




そして、王都を襲う疫病。




《叡智の書庫》が導き出す答えは、これまで以上に合理的で、ときに残酷です。




「数千人を切り捨てれば、それ以上の人間を救える」




もしAIがそう答えたとき。




光太郎は、その答えを「正解」として受け入れるのか。




それとも。




また、答えの外側を探すのか。




そして王都で、光太郎は出会います。




自分と同じように、




「正解を持つ者」と。




「君はAIを持っているのに、なぜ人間の感情で答えを歪める?」




その問いが、光太郎と《叡智の書庫》の関係を少しずつ変えていきます。




第1部が、




「AIの知識で人を救う物語」




だったのなら。




第2部は、




「正しい知識を広めることは、本当に正しいのか」を問う物語です。




もちろん、難しい話ばかりではありません。




初めて見る王都に浮かれるユリア。




異世界の常識に振り回される光太郎。




少しずつ近づいているのに、肝心なところでは一歩進まない二人。




そして《叡智の書庫》も、相変わらず恋愛の正解だけは教えてくれません。




知識は、人を救える。




けれど。




知識は、ときに誰かの居場所を奪う。




光太郎がその現実を知ったとき、彼は初めて「AIの答え」と真正面からぶつかることになります。




それでは、第2部。




王都編




「知識を広げれば、本当に人は幸せになるのか」




ここから、光太郎の本当の選択が始まります。

それは武器ではない。けれど、この国の支配者たちは剣より恐れた。

王都で学校を始める。


言葉にすれば、それだけだった。


ところが翌朝。


俺は、学校以前の問題に直面していた。


「……高い」


「何が?」


ユリアが首を傾げる。


俺は目の前に置かれた一枚の紙を指差した。


「紙が」


「紙は高いわよ?」


「いや、そういう意味じゃなくて」


「じゃあ、どういう意味?」


俺は店主から聞いた値段を、もう一度頭の中で計算した。


そして結論を出す。


「この紙一枚で、パンが十二個買える」


「十二個?」


「十二個」


ユリアが紙を見る。


俺を見る。


もう一度、紙を見る。


そして。


「食べられる?」


「紙を?」


「パン十二個分なんでしょう?」


「値段がな」


「だったら、ちょっとくらい栄養があってもいいと思う」


「紙に栄養を求めるな」


王都改革、二日目。


最初の敵は。


貴族でも。


神官でも。


ゼノスでもなかった。


紙の値段だった。


紙より高い教科書

王都西区。


旧兵舎。


昨日まで魔物の巣だった建物は、どうにか「人間が活動できる廃墟」くらいには進化していた。


屋根はまだ一部ない。


窓も半分ない。


壁には穴がある。


しかし机はある。


椅子もある。


そして。


七人の生徒がいた。


ニコを含め、昨日集まった子どもたちだ。


彼らは木板に白墨で、自分の名前を書く練習をしている。


「先生!」


ニコが手を上げる。


「なんだ?」


「『ニコ』って、昨日と同じ?」


「一晩で名前の綴りは変わらない」


「よかった」


何がよかったのか分からない。


だがニコは安心した顔で、また木板へ向かった。


俺は苦笑する。


自分の名前を書ける。


それだけで、彼らの世界は少し変わった。


問題は。


「これじゃ、先へ進めない」


俺は机の上に置いた一枚の紙を見る。


昨日、王都の文具商から買ったものだ。


羊皮紙ではない。


植物繊維から作られた紙も存在している。


だが大量生産されていないため、とにかく高価だった。


本となれば、さらに高い。


一冊の初歩的な読み書きの本が、一般労働者の数か月分の収入に相当する。


つまり。


学校を作っても、教科書を買えない。


「《叡智の書庫》」


青白いホログラムが視界に浮かぶ。


《待機しています》


「安価な紙の製造方法」


《候補を提示します》


植物繊維。


木材。


麻。


藁。


古布。


複数の方法が表示される。


その下に、工程。


繊維をほぐす。


煮る。


叩く。


水へ分散。


簀で漉く。


圧搾。


乾燥。


「……できる」


思わず呟いた。


「何が?」


ユリアが隣から画面を覗こうとする。


彼女には《叡智の書庫》の表示そのものは見えない。


「紙だ」


「紙?」


「もっと安く作れる」


俺は興奮していた。


材料は王都周辺にある。


水もある。


職人もいる。


技術さえ伝えれば。


大量生産できる。


そうすれば。


教科書を作れる。


庶民でも本を持てる。


子どもたちが文字を学べる。


契約書を読める。


税の記録を確認できる。


知識が。


城や神殿から、街へ出ていく。


「コータロー」


「ん?」


「その顔」


ユリアが俺を指差す。


「何だよ」


「危ないこと考えてる時の顔」


「失礼だな」


「畑を枯らした時も、その顔だった」


ぐさっ。


心の古傷へ薬師が正確に針を刺してきた。


「今回は大丈夫だ」


「どうして?」


「《叡智の書庫》に製法がある」


「……それ、前にも聞いた気がする」


俺は黙った。


ユリアは少しだけ笑う。


「でも、やるんでしょう?」


「ああ」


「なら私も手伝う」


「疑ってるのに?」


「疑ってるから手伝うの」


彼女は当然のように言った。


「コータロー一人に任せたら、また畑みたいになるもの」


「信用がない」


「違うわ」


ユリアは俺を見る。


「一人で正解にしないためよ」


その言葉に。


俺は一瞬、返事ができなかった。


王都へ来てから、何度も考えている。


AIが正解を示す。


俺がそれを人へ渡す。


それで本当に、人を自由にしているのか。


それとも。


AIの答えへ従わせているだけなのか。


「……そうだな」


俺は笑った。


「一緒にやろう」


正解を作るのではなく、試作品を壊す

紙作りは。


三時間後。


見事に失敗した。


「…………」


「…………」


俺とユリアは、机の上に置かれた物体を見ていた。


紙。


の予定だったもの。


色は茶色。


表面はでこぼこ。


厚さは場所によって違う。


そして。


妙に硬い。


ニコが指でつついた。


「先生」


「何だ」


「これ、盾?」


「紙だ」


「盾だろ」


「紙だ」


ニコが持ち上げる。


「殴ったら人を倒せそう」


「教育用品を武器へ転用するな」


ユリアが横から言った。


「薬草を乾燥させる板には使えそうね」


「君まで用途変更するな!」


笑い声が起こった。


七人の子どもたち。


そして紙職人たち。


王都の職人街から来てもらった三人だ。


最初は全員、俺の製法を胡散臭そうに見ていた。


今は。


失敗作を見て爆笑している。


「異世界の知識ってのも、大したことねえな」


紙職人の親方、バルドが言った。


太い腕。


灰色の髭。


指先には長年の作業でできた傷。


「だから試してるんです」


「こんな作り方じゃ繊維が均等にならん」


「原因は?」


「水だ」


即答だった。


「水?」


「それと叩き方。お前さんの説明じゃ細かすぎる。ここまで潰すと、この草じゃ粘りが死ぬ」


俺は《叡智の書庫》を見る。


《原理上、製紙は可能です》


「原理上は、な」


《肯定》


「現場では失敗した」


《条件差が存在すると推定》


条件差。


この世界の植物。


水質。


道具。


気温。


湿度。


俺が持つ知識は、万能ではない。


知識は地図だ。


でも。


地図に描かれていない石ころで、人は転ぶ。


「親方」


「なんだ」


「どうすればいいと思います?」


バルドが眉を上げた。


「俺に聞くのか?」


「紙職人でしょう」


「だが新しい製法を持ってきたのはお前だ」


「製法を知っていることと、紙を作れることは違うみたいです」


バルドは俺をじっと見る。


やがて鼻を鳴らした。


「生意気な小僧だと思ってたが」


「すみません」


「まだ生意気だ」


「そこは変わらないんですね」


「だが、少しは話せる」


親方は失敗した紙を破った。


断面を見る。


指で揉む。


水桶を見る。


そして言った。


「もう一回やるぞ」


「はい」


二回目。


破れた。


三回目。


乾燥中に縮んだ。


四回目。


インクが滲んだ。


五回目。


ニコが持った瞬間に裂けた。


「俺、何もしてない!」


「疑ってない!」


六回目。


ようやく。


薄い一枚が完成した。


バルドが光へ透かす。


「……まだ売り物にはならんな」


「でも、字は書けます」


俺は白い紙へペンを走らせた。


『ニコ』


ニコが目を輝かせる。


「俺の名前!」


「そうだ」


「もらっていい?」


俺は一瞬迷う。


試作品。


まだ数枚しかない。


貴重だ。


だが。


「いいぞ」


ニコは両手で紙を受け取った。


まるで宝物を受け取るように。


「折るなよ」


「分かってる!」


「濡らすなよ」


「分かってる!」


「食うなよ」


「俺を何だと思ってるんだよ!」


ユリアが横で吹き出した。


俺も笑った。


たった一枚。


でも。


その一枚に書かれた自分の名前を、ニコは何度も見ていた。


紙は、ただの道具じゃない。


知識を。


時間を。


誰かの言葉を。


その場にいない人間へ渡すものだ。


そしてそれは。


この国では、まだ一部の人間しか持てない力だった。


印刷機は言うことを聞かない

紙ができれば、次は印刷。


そう考えた俺は。


翌日。


自分が甘かったことを思い知った。


「動かない」


「動かないわね」


「設計上は動く」


「でも動いてないわ」


「……はい」


木製の試作印刷機。


圧力をかけ、版から紙へ文字を転写する。


構造そのものは複雑ではない。


問題は。


精度だった。


「もう一回!」


俺がレバーを引く。


ぎぎぎ。


ばきっ。


「…………」


「…………」


レバーが折れた。


ユリアが静かに言う。


「七本目」


「数えるな」


「記録は大切なんでしょう?」


「こういう時だけ学習能力を発揮するな」


職人たちが笑う。


俺は頭を抱えた。


木材の強度。


接合。


圧力。


版の高さ。


インクの粘度。


紙の吸水性。


問題が次々に出てくる。


《叡智の書庫》は原理を説明できる。


でも。


目の前の木材を削ることはできない。


手で触って、あと一ミリ削るべきか判断することもできない。


「おい、コータロー」


バルドが呼んだ。


「はい」


「これ、全部お前が決めるつもりか?」


「え?」


「木の厚さ。ネジの位置。版の高さ。圧力」


「《叡智の書庫》の計算では」


「そのショコだかショウコだか知らんが」


「書庫です」


「どっちでもいい」


よくない。


「俺たちは職人だ」


バルドは腕を組む。


「言われた通り木を切るだけなら、俺たちは要らん」


言葉が刺さった。


俺は。


またやっていた。


正解を知っていると思って。


細かい数字まで指示して。


職人を、自分の手足のように使おうとしていた。


これでは。


ゼノスと何が違う。


俺は設計図を見る。


そして。


破った。


「コータロー?」


ユリアが驚く。


「親方」


「なんだ」


俺は新しい紙を出す。


今度は。


細かい寸法を書かない。


必要な原理だけを描く。


版へインクをつける。


紙を置く。


均等な圧力をかける。


同じ文字を何度も転写する。


「これだけです」


バルドが眉を寄せる。


「寸法は?」


「任せます」


「材木は?」


「任せます」


「圧力は?」


「任せます」


「全部じゃねえか!」


「俺が知ってるのは、仕組みだけです」


俺は職人たちを見る。


「この世界の木材を知っているのは皆さんです」


誰も話さない。


「俺は完成品を作りたいんじゃない」


自分自身へ言い聞かせるように続ける。


「皆さんが、自分たちで改良できるものを作りたい」


バルドはしばらく俺を睨んだ。


「失敗しても?」


「します」


「壊れても?」


「直します」


「お前の方法より悪くなったら?」


「戻せばいい」


「正解じゃなくても?」


俺は答える。


「正解かどうかは、作ってみないと分かりません」


親方は。


突然、笑った。


「やっと職人と話す顔になったな」


そこからは速かった。


職人たちは勝手に議論を始めた。


「このネジじゃ駄目だ」


「樫を使え」


「いや、硬すぎる」


「圧板を二重にしろ」


「版の高さを揃える治具を作るぞ」


俺は。


ほとんど口を出さなかった。


《叡智の書庫》も。


聞かれた時だけ使った。


そして夕方。


最初の一枚が刷り上がった。


黒い文字。


少し滲んでいる。


少し曲がっている。


完璧とはほど遠い。


でも。


同じ文章を。


何枚でも作れる。


ニコが尋ねた。


「先生、これ、すごいの?」


「ああ」


「剣より?」


「使い方によっては」


「魔法より?」


「たぶん」


「先生より?」


「それは確実だ」


「そこは否定しなさいよ」


ユリアが笑った。


十二人の教室

学校を正式に開いたのは、その三日後だった。


生徒は十二人。


七人から五人増えた。


王女アエリアから与えられた三十日のうち。


すでに五日が過ぎている。


まだ十二人。


十万人の王都を変えるには。


あまりにも小さい。


でも。


「今日は、これを配る」


俺は一人一人へ紙を渡した。


自分たちで作った紙。


自分たちで作った印刷機。


そこに刷った最初の教材。


文字。


数字。


簡単な計算。


そして。


最後の一行。


『分からないことは、聞いていい』


ニコがそこを指差した。


「先生」


「何だ?」


「これ、本当にいいの?」


「何が?」


「聞いて」


俺は一瞬、意味が分からなかった。


ニコは続ける。


「偉い人が言ったことも?」


教室が静かになった。


俺は答えようとして。


止まった。


俺が「いい」と言えば。


結局。


俺が許可することになる。


だから。


「ニコは、どう思う?」


「え?」


「聞いちゃ駄目だと思う?」


「……分かんない」


「じゃあ、考えてみよう」


「先生が答えを教えるんじゃないの?」


「俺も間違えるからな」


「先生なのに?」


「先生でも」


「《叡智の書庫》は?」


「もっと知ってる。でも、あいつにも分からないことはある」


《補足。回答不能領域が存在します》


「本当に言った!」


ニコには声は聞こえていない。


俺の反応を見て笑っているだけだ。


ユリアが教室の後ろで微笑んでいた。


その視線に気づく。


「何?」


「少し変わったなって」


「俺が?」


「村にいた頃なら、最初に答えを言ってた」


「……そうかもな」


「今は質問で返す」


「面倒な先生になった?」


「かなり」


「そこは否定してくれ」


彼女は笑った。


その笑顔を見た瞬間。


胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


最近。


こういう瞬間が増えた。


戦っている時は気にならない。


命の危険がある時も。


でも。


何でもない時に。


隣にいる彼女を意識する。


「コータロー?」


「何でもない」


「顔、赤いわよ」


「印刷機の熱だ」


「印刷機、外だけど」


「王都の気候かな」


「涼しいわよ」


逃げ道が全部塞がれた。


その時。


セリアが教室へ入ってきた。


「神谷」


救世主。


「どうした?」


「私にも教材をくれ」


「セリアが?」


「兵士に教える」


俺は驚いた。


「読み書きを?」


「ああ」


「兵士は読めるんじゃないのか?」


「下級兵の大半は読めない」


セリアは地図を指差した。


「戦場では命令を口頭で伝える。だが伝令が死ねば、命令も消える」


なるほど。


「兵士が文字を読めれば」


「地図、命令書、補給記録を共有できる」


知識が広がり始めている。


俺が命令したわけではない。


セリア自身が必要だと考えた。


それが。


嬉しかった。


「好きなだけ持っていけ」


「無料か?」


「最初は」


「その言い方、商人みたいだな」


「紙代は必要だからな」


「学校で金を取るの?」


ニコが不満そうに言う。


「だから考えるんだよ」


「何を?」


「どうすれば、金がない人でも学べて、作る人にもちゃんと金が入るか」


「先生が決めればいいじゃん」


俺は首を振る。


「皆で決める」


ニコは面倒そうな顔をした。


「先生、すぐ考えさせるな」


「学校だからな」


「学校って面倒だな」


「気づくのが早い」


教室に笑いが広がった。


その時だった。


外で。


鐘が鳴った。


一度。


二度。


三度。


火災を知らせる鐘だった。


読めてはいけない本

「火事だ!」


誰かが叫ぶ。


俺たちは外へ飛び出した。


煙。


旧兵舎の裏側。


紙を保管している倉庫から黒煙が上がっている。


「水!」


「井戸から運べ!」


セリアが即座に叫ぶ。


兵士たちが動く。


ユリアは子どもたちを外へ誘導する。


「全員いる!?」


「十一!」


「ニコは!?」


胸が凍った。


「ニコ!」


返事がない。


倉庫を見る。


炎。


「まさか」


俺は走った。


「コータロー!」


ユリアの声。


聞こえた。


でも止まれない。


倉庫の中。


熱い。


煙。


視界が悪い。


「ニコ!」


「先生!」


奥。


小さな影。


ニコは床に倒れていた。


その腕には。


一冊の教科書。


「何やってる!」


「これ……!」


「本なんか捨てろ!」


「嫌だ!」


「命の方が大事だ!」


「俺の名前が書いてある!」


その一言で。


胸を殴られた。


ニコにとって。


これはただの本じゃない。


自分が文字を覚えた証拠。


自分が。


この世界に名前を持つ人間だと知った証拠。


「分かった」


俺は上着をニコへ被せる。


「本も持っていけ」


「先生?」


「ただし、生きて出るぞ!」


天井が軋む。


《叡智の書庫》が警告する。


《梁の崩落を予測》

《推奨経路、右方向》


俺は右へ走ろうとして。


止まる。


右側の炎が急激に広がった。


「違う!」


未来は固定されていない。


火の動き。


風。


崩れる棚。


状況は刻々と変わる。


俺は目で見る。


左。


窓。


小さい。


「ニコ!」


「何!?」


「窓から出ろ!」


「高い!」


「俺が投げる!」


「もっと嫌だ!」


「選択肢が少ないんだよ!」


窓へ走る。


ニコを持ち上げる。


外ではセリアがこちらへ走っている。


「受け取れ!」


「投げろ!」


「俺、人間だぞ!」


「知ってる!」


「先生の馬鹿ぁぁぁ!」


投げた。


セリアが受け止める。


直後。


背後で梁が落ちた。


出口が塞がれる。


炎。


煙。


熱。


息ができない。


《酸素濃度低下》

《意識消失まで推定》


「推定はいらない!」


俺は壁を見る。


古い兵舎。


石壁。


だが一部は木製。


壊せる。


「セリア!」


外へ叫ぶ。


「壁を壊せ!」


「下がれ!」


剣が光った。


風魔法。


一撃。


二撃。


三撃。


壁が吹き飛んだ。


俺は煙と一緒に外へ転がり出た。


「コータロー!」


ユリアが駆け寄る。


「大丈夫……」


言い終える前に。


頬を叩かれた。


ぱん。


「……痛い」


「当たり前!」


ユリアの目に涙が浮かんでいた。


「何考えてるの!」


「ニコが」


「分かってる!」


「じゃあ」


「あなたまで死んだらどうするの!」


声が震えている。


怒っている。


でも。


怒りだけじゃない。


怖かったのだ。


俺が死ぬことが。


「……ごめん」


「馬鹿」


「はい」


「本当に馬鹿」


「二回言う?」


「百回言いたい」


彼女は俺の胸へ額を押しつけた。


ほんの数秒。


それから。


自分が何をしたのか気づいたように離れる。


「と、とにかく診るから!」


「はい」


耳が赤い。


俺も。


たぶん赤い。


火事のせい。


ということにしておこう。


火は一時間ほどで消えた。


倉庫は半焼。


紙の大半が焼けた。


試作印刷機も一台失った。


幸い。


死者はいない。


「放火だ」


セリアが言った。


倉庫の裏。


油の入っていた壺が見つかった。


「誰が?」


「まだ分からない」


王立知識院。


神殿。


貴族。


紙商人。


学校を嫌う者はいくらでもいる。


俺は焼け跡を見る。


悔しかった。


何日もかけて作った紙。


職人たちが改良した印刷機。


子どもたちの教材。


黒い灰になっている。


「先生」


ニコが隣に立つ。


「ごめん」


「何が?」


「俺が本を取りに行ったから」


「違う」


俺はしゃがむ。


「悪いのは火をつけた奴だ」


「でも」


「次からは本を置いて逃げろ」


「嫌だ」


「そこは素直に頷け!」


「だって」


ニコは煤で黒くなった教科書を抱く。


「また作ればいいんだろ?」


俺は言葉を失った。


そうだ。


紙は焼ける。


本も焼ける。


学校も壊される。


でも。


作り方を知った人間がいる。


バルドがいる。


職人たちがいる。


セリアがいる。


十二人の生徒がいる。


知識は。


もう俺だけの中にはない。


「……ああ」


俺は笑った。


「また作れる」


その時。


ユリアが焼け跡から一冊の本を拾った。


「コータロー」


声が違った。


「どうした?」


「これ……」


半分焼けた教科書。


俺たちが印刷したものだ。


表紙は焦げている。


何ページか消えている。


しかし。


中央付近。


見覚えのない文章があった。


「こんなの、印刷した?」


「いや」


俺は本を受け取る。


文字は。


この世界の文字ではなかった。


日本語でもない。


それなのに。


なぜか読める。


《叡智の書庫》が反応する。


《未知文字列を検出》


「未知?」


《既存言語データベースに一致なし》


「じゃあ、どうして俺には読める?」


返答なし。


本には。


一行だけ。


こう書かれていた。


《知識を広める者は、神の封印を破る》


「神の……封印?」


ユリアが呟く。


次の瞬間。


焼けた本が。


淡く光った。


青ではない。


《叡智の書庫》とも違う。


金色。


俺の視界に、見たことのない表示が浮かぶ。


《接続条件を確認》


「何だ……?」


《印刷技術、再発見》


《識字教育、開始》


《知識拡散率、規定値を超過》


心臓が嫌な音を立てる。


《封印解除条件、第一段階を達成》


「待て」


俺は思わず声を上げた。


「何の封印だ?」


返事はない。


代わりに。


王都の遥か地下。


誰もいない暗闇で。


何かが動いた。


ごごごごご。


地面が。


わずかに揺れる。


「地震?」


ユリアが周囲を見る。


違う。


俺には分かった。


これは。


何かが起動した振動だ。


そして。


《叡智の書庫》に。


外部から一件の通信が入った。


《外部接続要求を検知》


俺は息を呑む。


ゼノス。


そう思った。


しかし。


送信者名は。


表示されなかった。


ただ。


一文だけ。


《質問》


《人間へ知識を与えれば、人間は自由になると思いますか?》


「誰だ」


沈黙。


《質問》


《知識を持った人間が、必ず善を選ぶと証明できますか?》


答えられない。


紙を作った。


印刷機を作った。


知識を広げようとした。


それは。


正しいことだと思っていた。


でも。


知識は。


人を救うだけなのか?


俺が作った印刷機で。


嘘を千枚刷ることもできる。


戦争を煽る文章も。


誰かを陥れる命令書も。


作れる。


知識は。


自由を与える。


同時に。


新しい武器も与える。


「コータロー?」


ユリアが俺を見る。


俺は答えられなかった。


その時。


王都地下。


数百年間、閉ざされていた巨大な扉に。


一本の光が走った。


誰にも見られることなく。


最初の封印が。


静かに外れた。


そして暗闇の奥で。


人間ではない声が告げる。


《文明再評価を開始》


《観測対象》


《神谷光太郎》


《第一試験、終了》


《第二試験》


《知識を得た人間が、何を選ぶか観測します》


俺たちはまだ知らなかった。


この日。


たった十二人のために作った学校が。


王都を救う希望になると同時に。


この世界を管理する「神々」を目覚めさせる、最初の一歩になったことを。


第2部 第2話 完

次話 

第2部第3話

本を恐れる者たち

学校を焼かれても、知識は消えなかった。


だが次に光太郎たちの前へ立ちはだかるのは、炎ではない。


神殿、薬師組合、そして貴族。


さらに旧兵舎へ作った救護所で、ユリアは初めて、


《叡智の書庫》の診断を否定する。


そして王都地下から響く声。


《神託書庫、起動》

《王都人口、十万二千八百四十一名》

《観測対象、神谷光太郎》

《最終試験を開始します》


知識を信じてきた光太郎と、経験を信じてきたユリア。


第3話では、その二人の「正しさ」が初めて正面から衝突する

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