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第5話 未来が見えなくても、選ぶことはできる

もし、異世界に転生したあなたに与えられた力が、剣でも魔法でもなく、ChatGPTだけだったら。








この物語は、そんな少し変わった問いから始まります。








主人公・神谷光太郎が手にしたのは、万能の力ではありません。AIは知識を示し、選択肢を増やし、時には人を救います。けれど、最後に決めるのはいつも人間です。








正解を選べば、誰も傷つかないのか。




効率を求めれば、みんな幸せになれるのか。




間違える自由まで捨てた先に、本当に幸福はあるのか。








光太郎は、銀髪のエルフ・ユリアや仲間たちと出会い、笑い、迷い、失敗しながら、AIでは答えきれない問題に向き合っていきます。








そして物語が進むほど、問いは大きくなります。








AIをどう使うのか。




やがてそれは、




人間とAIは、どう一緒に生きるのか。




という問いへ変わっていきます。








難しいテーマも扱いますが、物語の中心にあるのは、冒険、友情、恋愛、失敗、そして成長です。








正解がなくても。




何度間違えても。




それでも、自分たちで未来を選んでいく。








そんな物語を、光太郎たちと一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。








それでは。








『AIだけが使える異世界』〜ChatGPTだけが俺のスキルだった〜








物語の扉を、開いてください。

王女は、十年前から光太郎を知っていた

《神谷光太郎殿》

《あなたがこの世界へ来ることを、十年前から待っていました》


広場から、音が消えた。


風は吹いている。


燃えかけた空き家では、村人たちが水桶を運んでいる。


領主軍の兵士たちも、まだ完全には武器を下ろしていない。


それなのに光太郎には、すべてが遠く感じられた。


「十年前……?」


自分がこの世界へ来たのは、数日前だ。


十年前どころか、この国の名前すら知らなかった。


第一王女アエリア・ルクシア・アルセリア。


会ったこともない人物が、なぜ光太郎の名前を知っている。


しかも、到来を待っていたという。


「コータロー?」


ユリアが顔を覗き込んだ。


先ほどまで光太郎を抱き止めていた腕は、まだ背中へ回されたままだ。


近い。


普段なら気まずさを覚える距離だった。


だが今は、そこから伝わる温度が、自分を現実へつなぎ止めてくれている。


「王都から、招待状が来た」


「今?」


「ああ」


「どうやって?」


「《叡智の書庫》へ直接」


セリアが険しい表情で歩み寄る。


「王女殿下からだと?」


「第一王女アエリアと書かれている」


「文面を見せろ」


「頭の中にしかない」


「便利なのか、不便なのか分からんな」


「最近、不便な方へ傾いてきた」


光太郎はもう一度、表示を読み返した。


しかし、文章は先ほどの一行から増えていない。


「王女は、十年前から俺を待っていたらしい」


セリアの顔から、わずかに血の気が引いた。


「十年前?」


「心当たりがあるのか」


「……ない」


返事が一拍遅れた。


光太郎はそれを見逃さなかった。


「今、何か隠したな」


「隠していない」


「ユリア」


「隠してる顔ね」


「なぜ薬師に分かる」


セリアが眉を寄せる。


ユリアは少し得意そうに胸を張った。


「コータローで練習したから」


「俺は教材だったのか」


「すごく分かりやすい教材よ」


「褒められてないな」


セリアは二人を交互に見てから、深く息を吐いた。


「ここで話す内容ではない」


「なら、どこで話す」


「村長の家を借りる。それから」


セリアは、黒い文字に操られていた副官へ視線を向けた。


男は地面へ倒れたまま、浅い呼吸を繰り返している。


「先に負傷者を処置する」


「敵でも?」


ユリアが尋ねる。


「私の部下だ」


セリアは即答した。


その声には、怒りも迷いもなかった。


命令へ逆らった男。


ゼノスに操られ、証人を殺そうとした男。


それでも彼女にとっては、救うべき部下なのだ。


光太郎は小さく頷く。


「ユリア」


「分かってる」


ユリアはすぐ、副官のそばへ膝をついた。


「見習いを二人呼んで。身体を横向きにして、口の中を確認して」


「毒か?」


「まだ分からない。少なくとも、呼吸はある」


光太郎も《叡智の書庫》へ尋ねようとして、止まった。


未来予測機能は失われた。


生存確率も、最適な治療法の成功率も、もう表示されない。


知識自体は残っている。


だが、どの道を選べば成功するのかは分からない。


「コータロー」


ユリアが顔を上げる。


「手を貸して」


「ああ」


その一言で十分だった。


未来が見えなくても。


目の前の人間へ手を伸ばすことはできる。


勝った村に、祝う食料はなかった

戦いが終わった後の村は、静かだった。


歓声は上がらなかった。


村は焼け残った。


死者も出なかった。


領主軍は武器を下ろした。


それでも、人々の顔に勝利の喜びはない。


畑は傷つき、食料は盗まれ、井戸は汚染されたままだ。


村人たちは、自分たちが生き残ったことを確かめるように、壊れた柵や家屋を修理していた。


「勝ったのに、誰も喜ばないんだな」


光太郎は広場の端で呟いた。


隣では、病み上がりの少年が空の木箱を運んでいる。


「お腹が空いてるからじゃない?」


「現実的だな」


「今夜、何食べるの?」


「俺に聞くな」


「ユリアの薬草粥?」


「戦争より厳しい試練を残すな」


少年が笑った。


その笑い声に、近くにいた村人たちも少しだけ表情を緩める。


生き残ったからといって、問題が消えるわけではない。


それでも、笑える。


それは光太郎が想像していた以上に、大きなことだった。


「コータロー」


ユリアが小走りで近づいてきた。


銀色の髪には煤がつき、袖には血がにじんでいる。


「副官の容体は?」


「呼吸は落ち着いた。でも、目を覚まさない」


「黒い文字は?」


「消えたわ」


「ゼノスとの接続が切れたのか」


「分からない」


ユリアが同じ言葉を返した。


光太郎は、ほんの少し笑う。


「何?」


「君も『分からない』って言うんだな」


「薬師は何でも知ってると思ってた?」


「薬草粥を美味しいと思える仕組みだけは、一生分からない」


「今夜も作るわ」


「なぜ勝利の夜に罰を受けるんだ」


「身体を温めるためよ」


「味覚は冷えそうだ」


ユリアが呆れた顔で光太郎の腕を掴んだ。


その瞬間、彼女の表情が変わる。


「血が出てる」


黒装束の男に切られた腕だ。


緊張で忘れていたが、袖の内側が赤く染まっている。


「浅い傷だ」


「患者が自分で言う『浅い』は信用しない」


「薬師の経験か?」


「あなたのせいで覚えた」


ユリアは光太郎を空き家の壁際へ座らせた。


傷口を水で洗い、布で押さえる。


冷たい指が皮膚へ触れた。


「痛い?」


「少し」


「嘘」


「どうして分かる」


「眉間の線が増えた」


「本当に便利だな、俺の顔」


ユリアは布を巻きながら、低い声で言った。


「もう少し、自分のことも守って」


「君を狙っていた」


「だから前へ出たの?」


「ああ」


「私も剣を持っていたのに」


「間に合わないと思った」


ユリアの手が止まった。


「怖かった?」


光太郎は一瞬、答えを迷った。


格好をつけるなら、怖くなかったと言うべきなのだろう。


しかし、今さら彼女へ嘘をつく意味はない。


「怖かった」


「自分が斬られることが?」


「君が斬られることが」


ユリアが顔を上げる。


緑色の瞳が、まっすぐ光太郎を見た。


近い距離。


触れた指。


周囲の騒がしさが少し遠のく。


「そういうこと、簡単に言わないで」


「簡単じゃない」


「もっと悪い」


「何が?」


「……知らない」


ユリアは包帯を強く結んだ。


「痛っ!」


「少し強くしすぎた」


「故意じゃないのか?」


「薬師の判断よ」


「個人的な感情が混じってないか?」


「混じってない」


耳の先が赤い。


明らかに混じっていた。


光太郎はそれ以上追及しなかった。


追及すれば、自分の顔にも何かが出そうだったからだ。


命令に従った者は、罪人なのか

村長の家には、ガルド、ドラン、セリア、ユリア、光太郎が集まっていた。


捕らえられた徴税兵バルドは、椅子へ座らされている。


両手は縛られていない。


逃げる力が残っていないほど、疲れ切っていたからだ。


「領主の命令だった」


ガルドが低く繰り返す。


「畑へ毒を撒き、食料を盗み、井戸を汚した」


バルドはうつむいたまま答える。


「はい」


「それで、子どもたちを鉱山へ連れていくつもりだった」


「……はい」


ドランの拳が震える。


「お前たちのせいで、何人死んだと思っている」


「分かりません」


「分からんで済むか!」


ドランが立ち上がる。


光太郎は止めなかった。


娘を飢えで失った男に、冷静になれとは言えない。


バルドも逃げなかった。


「殴ってください」


「何?」


「殺しても構いません」


「命令されたから仕方なかったとでも言うつもりか!」


「違います」


バルドは顔を上げた。


目には涙が浮かんでいる。


「最初は、仕方がないと思いました。逆らえば家族を鉱山へ送ると言われた。だから命令に従った」


「なら、被害者だと言うのか」


「いいえ」


バルドは首を振った。


「一度目は怖かった。二度目は、考えないようにした。三度目からは、村人の顔を見なくなった」


部屋が静まる。


「命令に従うたび、少しずつ楽になった。自分で決めていないと思えば、罪悪感を感じずに済んだからです」


光太郎の胸に、その言葉が刺さった。


AIの答え。


上官の命令。


多数を救うための合理性。


誰かが選んでくれれば、自分は責任を負わずに済む。


バルドが逃げ込んだ場所と、光太郎がAIへ求めていたものは、完全に別ではなかった。


「命令した者が悪い」


セリアが言う。


「だが、従った者に責任がないわけではない」


「隊長」


「私も同じだ」


セリアの声は硬かった。


「反乱鎮圧という命令を受け、村を調べずに百人の兵を率いてきた」


「あなたは途中で止めた」


光太郎が言う。


「事実を知った後だ。知らないまま攻撃していれば、私は命令を理由に人を殺していた」


ガルドは全員を見回す。


「では、この男をどうする」


処刑。


監禁。


領主軍へ引き渡す。


王都へ証人として送る。


光太郎は無意識に《叡智の書庫》へ問いかけようとした。


だが、途中で止めた。


確率はもう出ない。


何人が納得するのか。


どの選択が村の未来に最も有利なのか。


答えはない。


「バルド」


光太郎は尋ねた。


「王都で証言できるか」


男の顔が強張る。


「証言すれば、家族が」


「家族はどこにいる」


「領都です」


セリアが口を開く。


「私の部下を送る。領主に気づかれる前に保護する」


「間に合いますか」


以前なら、生存確率を聞いていた。


だがセリアは、ただ正直に答えた。


「分からない」


その言葉を聞き、バルドは目を閉じた。


長い沈黙。


やがて、震える声で言う。


「証言します」


「怖くないのか」


「怖いです」


「なら、なぜ」


バルドはドランを見た。


「命令に従うことを選び続けた結果が、今です」


次に光太郎を見る。


「今度は、自分で選びたい」


ドランの拳がゆっくりと下がる。


許したわけではない。


失ったものが戻るわけでもない。


それでも、殴らなかった。


「王都へ連れていけ」


ドランは吐き出すように言った。


「全部話せ」


「はい」


「その後で、罰を受けろ」


「はい」


バルドは深く頭を下げた。


王女の招待状

話し合いが終わると、セリアは窓を閉めた。


外に兵士がいないことを確認し、声を落とす。


「アエリア殿下が十年前からお前を待っていたという話だ」


「ああ」


「正確な文面は?」


光太郎は一字ずつ読み上げた。


《神谷光太郎殿》

《あなたがこの世界へ来ることを、十年前から待っていました》


セリアは腕を組み、険しい顔で黙り込む。


「王女は今、何歳だ」


「十九歳だ」


「九歳の時から俺を知っていた?」


「そうなる」


「子どもの頃から予言を受けていた可能性は?」


「ある」


「黒い書庫は?」


セリアの目が鋭くなった。


「その名前を、どこで知った」


「ゼノスが使うものと《叡智の書庫》が同じ系統なら、他にも似たものがあるかもしれない」


「質問へ答えろ」


光太郎は彼女を見返す。


「君も隠さないでくれ」


セリアはしばらく黙った。


やがて、諦めたように椅子へ座る。


「王都の地下には、王家が封印した遺跡がある」


「遺跡?」


「正式名称は残っていない。騎士団では《黒い書庫》と呼んでいる」


ユリアが息を呑む。


「何があるの?」


「誰にも分からない」


「入った者はいないのか」


「いる」


セリアの声が低くなる。


「十年前、当時九歳だったアエリア殿下が入り込んだ」


「王女が?」


「三日後に発見された。怪我はなかったが、殿下は何度も同じ名前を口にしていた」


光太郎は嫌な予感を覚える。


「何という名前だ」


セリアは答えた。


「カミヤ・コータロー」


部屋の空気が冷えた。


「王女は、俺と会ったことがある?」


「本人は覚えていないと言っている」


「でも、名前は覚えていた」


「ああ。それから十年間、殿下は秘密裏にお前を探していた」


「どうやって」


「黒髪の異邦人。五大魔法に適性を持たない者。知識に関する未知の能力を持つ者」


光太郎の特徴そのものだった。


「なぜ、もっと早く話さなかった」


「お前が本物か判断できなかった」


「本物?」


「《黒い書庫》から戻った王女は、もう一つ予言を残した」


セリアは光太郎をまっすぐ見る。


「神谷光太郎は、二人現れる」


ユリアの手がわずかに動いた。


「二人?」


「一人は、この国を救う」


セリアは続ける。


「もう一人は、この世界から人間の選択を奪う」


ゼノスの言葉が蘇る。


お前が、この世界を壊した日からずっと。


AIに未来を選ばせたのは、お前だ。


「俺が二人いるということか」


「同じ顔なのか、同じ名前なのか、同じ存在が二つに分かれるのか。そこまでは分からない」


「ゼノスが、もう一人の俺?」


「可能性はある」


ユリアが首を振る。


「声も姿も違う」


「姿を変える技術があれば?」


光太郎が言うと、ユリアは黙った。


《叡智の書庫》のような存在がある世界だ。


人の姿や声を偽る方法があっても、不思議ではない。


「王都へ行く」


光太郎は決めた。


「危険よ」


ユリアが言う。


「ここに残っても、ゼノスは接続してくる」


「それでも」


「王女に会わないと分からない。黒い書庫も、ゼノスも、俺がこの世界へ来た理由も」


「村はどうする」


「畑も井戸も、まだ途中だ」


言葉にした瞬間、光太郎の胸が重くなる。


村を救う。


そう決めた。


だが、問題を残したまま王都へ行くことになる。


「俺が残った方がいいのかもしれない」


《回答不能》


《叡智の書庫》が短く告げた。


「聞いてない」


《ユーザーの迷いを検知しました》


「勝手に答えるな」


《未来予測機能は使用できません》


「分かってるよ」


以前なら、どちらを選ぶべきか計算させていた。


村へ残る場合の生存率。


王都へ行く場合の国の存続率。


数字を比較して、正解らしい方へ進んでいた。


今は、それができない。


「コータロー」


ユリアが呼ぶ。


「王都へ行って」


「君は?」


「私も行く」


「村の薬師がいなくなる」


「見習い二人へ教えた。井戸水の扱いも、患者の記録方法も」


「それでも危険だ」


「あなた一人で行かせる方が危険よ」


「セリアがいる」


「セリアも危険そう」


セリアの眉が動く。


「私まで含めるな」


「百人を率いて一人で前へ出る人は、十分危険よ」


「任務だ」


「毒矢を受けそうになったのも?」


「状況確認だ」


「無茶をする人は、皆そう言うわ」


セリアは反論しようとして、言葉を失った。


光太郎は思わず笑う。


「二人とも、似てるな」


「似てない!」


返事も同時だった。


「やっぱり似てる」


ユリアが光太郎を睨む。


「笑ってる場合じゃないでしょう」


「少し楽になった」


「何が?」


「一人で決めなくていいことが」


光太郎は二人を見る。


セリア。


ユリア。


ガルド。


ドラン。


村人たち。


AIが未来を示さなくても、相談できる相手はいる。


「村長」


光太郎はガルドへ向き直る。


「俺は王都へ行きたい」


「許可を求めるのか」


「約束したからです。村を守ると」


「お前が一人で守った村ではない」


ガルドは淡々と言った。


「畑にはドランがいる。病人には薬師の見習いがいる。井戸は若者たちが修理する」


「でも」


「お前がいなければ何もできん村にしたいのか」


光太郎は言葉を失った。


「知識を渡し、人に選ばせると言ったのはお前だ」


ガルドは窓の外を見る。


「なら、信じろ」


村人たちを。


自分がいなくても考え、選び、失敗できる人間として。


「……分かりました」


「王都へ行け」


ガルドは光太郎を見る。


「ただし、必ず戻れ」


「約束します」


「約束は、守ってから価値が出る」


「厳しいな」


「村長だからな」


薬草粥で始まる送別会

その夜。


村の広場で、小さな食事会が開かれた。


祝勝会でも、送別会でもない。


明日から何が起きるか分からない者たちが、今夜だけ同じ火を囲むための集まりだった。


料理は少ない。


焼いた芋。


薄い豆のスープ。


堅い黒パン。


そして、大鍋いっぱいの薬草粥。


「なぜ最後に、これなんだ」


光太郎は緑色の鍋を見下ろした。


「身体にいいから」


ユリアが木杓子を構えている。


「王都まで何日かかると思ってるの」


「徒歩で六日。馬なら三日」


「馬に乗れるの?」


「乗ったことはない」


「じゃあ六日ね」


「教える選択肢は?」


セリアが横から答える。


「落馬して出発が七日後になる」


「未来予測機能を失った俺より断言するな」


「容易に想像できる」


「信用がないな」


ユリアが粥を椀へよそう。


「大丈夫。馬車を用意するから」


「最初からそれを言ってくれ」


「でも、揺れるわよ」


「薬草粥をこぼさない程度なら耐える」


「持っていくつもりはなかったけど」


「今、試されたのか?」


ユリアが笑う。


周囲の村人たちも声を上げて笑った。


ドランが光太郎の隣へ座り、小さな布袋を差し出す。


「何ですか?」


「種だ」


袋の中には、畑で生き残った麦の種が数粒入っていた。


「王都へ持っていけ」


「どうして」


「偉い連中に見せろ」


ドランは焚き火を見る。


「毒を撒かれ、変な肥料で枯らされても、生き残った麦だ」


「変な肥料の部分は必要ですか?」


「事実だ」


「反省しています」


「忘れるな」


ドランは光太郎の肩を叩いた。


「土は、一度の失敗でお前を追い出したりはせん」


「村の人には、追い出されそうになりましたけど」


「人間は土より気が短い」


「名言みたいに言わないでください」


少し離れたところでは、領主軍の兵士と村人が同じ火を囲んでいる。


完全に打ち解けたわけではない。


互いに距離を取り、警戒している。


それでも、剣ではなく椀を持っている。


セリアが薬草粥を一口食べ、眉を寄せた。


「……これは薬か?」


「料理です」


ユリアが即答する。


「私も最初は同じことを言った」


光太郎が笑う。


「味はどう?」


ユリアが尋ねる。


セリアは長い沈黙の後、答えた。


「身体にはよさそうだ」


「外交的な返答だな」


「騎士は無用な争いを避ける」


「私は争われてるの?」


ユリアが不満そうにする。


「味覚の話です」


光太郎が言うと、また肘が脇腹へ飛んできた。


あなたがいない未来を、考えたくない

夜が深まり、村人たちが家へ戻った後。


光太郎は一人で井戸のそばに立っていた。


縄は外され、蓋には新しい板が打ちつけられている。


この井戸から、病気が広がった。


底から領主家の瓶が見つかった。


明日から村人たちは、石組みを外して修理を始める。


「眠れない?」


ユリアの声がした。


振り返ると、彼女が二つの木の杯を持って立っている。


「薬草茶よ」


「粥じゃない?」


「飲み物まで粥にしないわ」


「少し安心した」


杯を受け取る。


温かい香りが、夜の冷たい空気へ広がった。


二人で井戸の縁へ座る。


しばらく、どちらも話さなかった。


「本当に来るのか」


光太郎が尋ねる。


「王都へ?」


「ああ」


「来てほしくない?」


「危険だから」


「答えになってない」


ユリアは光太郎の顔を覗き込む。


「来てほしい?」


「……来てほしい」


正直に答えると、ユリアが少し驚いた顔をした。


「でも、村へ残ってほしい気持ちもある」


「欲張りね」


「ああ」


「全部を救おうとすると、全部を失うんでしょう?」


ゼノスの言葉。


光太郎は杯を握る。


「そう言われた」


「信じるの?」


「分からない」


「私は信じない」


ユリアはきっぱり言った。


「どうして?」


「全部を救おうとして失敗することと、最初から誰かを捨てることは同じじゃないもの」


光太郎は彼女を見る。


「失敗するかもしれない」


「するでしょうね」


「断言するな」


「あなた、もう畑を枯らしたし」


「まだ言うのか」


「一生言うわ」


ユリアは少し笑い、それから真剣な表情へ戻る。


「でも、失敗した後に一緒に考えられる」


「君がいれば?」


「私だけじゃない。村の人も。セリアも」


「《叡智の書庫》も?」


ユリアは少し考える。


「ぎりぎり入れてあげる」


《発言を記録しました》


「聞いてたぞ」


「本当に趣味が悪いわね」


《苦情受付機能は実装されていません》


「いつか絶対、直接文句を言う」


「その日が少し楽しみだ」


ユリアは杯の中を見つめた。


「コータロー」


「何だ」


「あなたが王都へ行ったまま、戻らない未来を考えた」


光太郎の胸が小さく痛む。


「それで?」


「嫌だった」


ユリアの声は、風に消えそうなほど小さい。


「薬代を返してもらってないから?」


「それもある」


「それだけ?」


ユリアは光太郎を睨んだ。


「今、聞くの?」


「聞きたい」


「ずるい」


「どうして」


「私ばかり答えてるから」


「なら、質問してくれ」


ユリアは少し迷った。


「私が王都へ来なかったら、寂しい?」


「ああ」


「即答なのね」


「嘘をつく理由がない」


ユリアの頬がゆっくり赤くなる。


「そういうところ」


「何だ」


「分からないなら、今はそのままでいて」


以前も聞いた言葉だった。


光太郎はそれ以上踏み込まなかった。


代わりに、そっと右手を差し出す。


「一緒に行こう」


ユリアはその手を見た。


そして、ゆっくり自分の手を重ねた。


「うん」


温かい。


森で初めて握った時と同じ手。


けれど、今は意味が違う。


助けられたから握ったのではない。


これから一緒に進むと決めて、握った手だった。


出発の朝

翌朝。


村の入口には、一台の荷馬車と三頭の馬が用意されていた。


セリアは馬。


護衛の騎士二人も馬。


光太郎とユリア、証人となるバルドは荷馬車へ乗る。


「本当に馬へ乗らなくていいのか」


光太郎が尋ねる。


セリアは冷静に答えた。


「村を出る前に落ちる姿を見せたいなら止めない」


「そこまで言うか」


少年が荷台の端を叩く。


「落ちたら笑うよ」


「見送りの言葉として正しいのか?」


「絶対に帰ってきて」


少年の声が少しだけ震えた。


光太郎はしゃがみ、少年と目線を合わせる。


「ああ」


「今度は変な肥料を使わないでね」


「帰ってきた直後に刺す言葉か?」


「一生言うってユリアが言ってた」


「広めるな!」


ユリアが後ろで笑っている。


ドランが鍬を肩へ担いだまま、ぶっきらぼうに言う。


「戻ってきたら排水路の続きをやれ」


「王都から帰ってきた人間へ最初にやらせる仕事ですか?」


「お前が掘り始めた」


「分かりました」


「必ずだぞ」


「ああ」


光太郎は強く頷いた。


ガルド村長が最後に前へ出る。


「王都では、知っていることを簡単に話すな」


「誰を信用すればいいですか」


「分からん」


「村長まで」


「それを決めるのがお前の役目だ」


ガルドは遠く王都の方角を見る。


「知識を持つ者が善人とは限らん。正しい言葉を話す者が、正しい目的を持っているとも限らん」


ゼノス。


王女アエリア。


黒い書庫。


もう一人の神谷光太郎。


誰を信じるべきか、まだ分からない。


「行ってきます」


光太郎が頭を下げる。


ガルドは首を横へ振った。


「その言葉は、帰った時に言え」


「何をですか」


「ただいまと」


光太郎は一瞬、言葉に詰まった。


「ああ」


村はもう、偶然立ち寄った場所ではない。


帰る場所になり始めている。


荷馬車が動き出した。


車輪が土を踏む。


子どもたちが手を振る。


村人たちの姿が少しずつ小さくなる。


ユリアは何度も後ろを振り返っていた。


光太郎は、何も言わず隣に座っている。


やがて、村が丘の向こうへ消えた。


ユリアが前を向く。


「行ってしまった」


「ああ」


「怖い?」


「かなり」


「私も」


「戻りたくなった?」


「少し」


「戻ってもいいんだぞ」


「あなたは?」


「行く」


「なら私も行く」


「知ってた」


「分かってきたわね」


荷馬車は街道を進む。


その先に王都がある。


王女アエリア。


《黒い書庫》。


ゼノス。


十年前から待っていたという予言。


未来予測機能は、もうない。


何が起こるか分からない。


どの道が正しいのかも。


それでも光太郎は、不思議と以前ほど怖くなかった。


未来が見えなくても。


隣に、一緒に選ぶ人がいる。


第1部ラスト

生存者は、ゼノスただ一人

村を出て半日が過ぎた頃。


《叡智の書庫》が短い音を鳴らした。


《王都との通信経路を確認》

《地理情報を更新》


光太郎の視界へ、巨大な都市の輪郭が浮かぶ。


城壁。


王城。


市場。


居住区。


神殿。


地下へ広がる複雑な空間。


《目的地》

《王都アルセリア》

《人口、十万二千八百四十一名》


「十万人か」


「何が?」


ユリアが尋ねる。


「王都に住んでいる人の数だ」


「そんなに?」


「この村が七百以上入る」


「想像できない」


光太郎にも想像できなかった。


これまで守ろうとしてきたのは、百三十七人の村だ。


次に向かう場所には、その何百倍もの人間が暮らしている。


《異常な人口変動予測データを検出》


光太郎の表情が変わった。


「未来予測機能は失われたはずだ」


《本機能による予測ではありません》

《王都側システムに保存された既存データです》


「既存データ?」


《三十日後の人口記録を受信》


光太郎の喉が鳴る。


未来を予測したのではない。


すでに、どこかに記録されていた未来。


《三十日後》

《王都アルセリア》

《推定生存者数、一名》


「一人……?」


ユリアが光太郎を見る。


「どうしたの?」


光太郎は答えられなかった。


十万人の王都。


三十日後。


生き残るのは、一人だけ。


《生存者情報を照合》


一瞬だけ。


心のどこかで、自分の名前が表示されるのではないかと思った。


あるいはユリア。


アエリア王女。


セリア。


しかし、表示された名は、そのどれでもなかった。


《唯一の生存者》

《ゼノス》


荷馬車の車輪は止まらない。


青空の下。


十万人が暮らす王都へ。


三十日後、ただ一人の男を残して消滅する都市へ。


そして、その時。


光太郎の頭の中へ、ゼノスの声が届いた。


「ようこそ、光太郎」


「次は、村ではない」


黒い文字が、視界を覆う。


「十万人の中から、誰を救うか選べ」


通信が切れる。


未来の確率は、もう見えない。


だが、突きつけられた問いだけは消えなかった。


十万人すべてを救うのか。


誰かを選び、誰かを捨てるのか。


それとも。


その二択そのものを壊すのか。


光太郎は隣に座るユリアの手を、静かに握った。


彼女は驚いたように光太郎を見る。


それでも、手を離さなかった。


「行こう」


「どこへ?」


「王都へ」


光太郎は、遠くに見え始めた城壁を見つめる。


「十万人全員が、自分の未来を選べる場所を作りに」


彼らの前で、巨大な王都の門が開き始めた。


その奥では。


もう一人の神谷光太郎が、静かに目を覚ましていた。


第1部 第5話 完

第1部 完


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