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第3話「正解しか知らない少年」

三割増えれば、みんな幸せになる

「食料は、三割増えます」

ノア・ベルンは笑っていた。

十二歳の少年が差し出した《叡智の書庫》には、鮮やかな青い文字が浮かんでいる。

《推定食料生産量》

《現状比 +30.4%》

村長が椅子を蹴るように立ち上がった。

「三割!?」

「はい」

「本当に!?」

「条件どおりに農地を整理すれば」

ノアは胸を張った。

「もっとみんなを幸せにできます」

その言葉に、部屋の大人たちから歓声が上がった。

三割。

豊かな国なら、ただの数字かもしれない。

この村では違う。

冬に食べ物を減らさなくていい。

子どもに、もう一口食べさせられる。

病人へ、少し多く栄養を回せる。

不作の年に、飢えなくて済む。

奇跡。

そう呼んでもよかった。

「さすが神童だ!」

村長がノアの肩を叩く。

「これで来年は楽になるぞ!」

「はい!」

ノアは嬉しかった。

村を救いたかった。

母を。

ミナを。

友達を。

みんなを。

だから《叡智の書庫》に聞いた。

そして、正しい答えをもらった。

なのに、母のエマだけは少し離れた場所から農地図を見ていた。

笑っていなかった。

「ノア」

「何?」

「この線」

母の指先。

小さく曲がった境界。

「消すの?」

「うん」

即答した。

「無駄だから」

部屋が少し静かになった。

ノアは気づかない。

現在の農地図。

細い。小さい。曲がっている。

三角形。台形。途中だけ突き出ている土地。

効率だけ見れば、ひどい。

《叡智の書庫》が作った新しい地図は美しかった。

真っすぐ。

大きく。

作物別に整理され、水路も最短。

移動距離も最小。

「ここも」

村長が別の線を指す。

「消すのか?」

「はい」

「この小さい畑は?」

「隣と統合します」

「誰の土地になる?」

ノアが首を傾げた。

「村みんなの土地にすればいいでしょう?」

「…………」

「その方が効率的です」

村長は返事をしなかった。

ノアには、その沈黙の意味が分からなかった。

百年以上、村人たちは石や木、小さな水路で土地を分けてきた。

あの石から、あの木まで。

こっちは俺の家。

向こうは隣の家。

正式な書類なんてない。

ただ、何十年も、何百年も、そうしてきた。

ノアも知っていた。

ただ、それが重要だとは思っていなかった。

《叡智の書庫》にも重要項目として表示されなかったから。

「大丈夫です」

ノアはみんなへ笑った。

「三割増えるんですから」

正しい数字には、人を黙らせる力があった。

死んだ息子と作った畑

翌朝、農地整理が始まった。

「この杭も抜くぞ!」

「石も邪魔だ!」

村人たちは最初、楽しそうだった。

「三割増えるんだってよ」

「ノアが言うなら間違いない」

「最近、あの子が外したことないからな」

神童。

誰も、その呼び名を疑わなくなっていた。

ノアが言えば正しい。

《叡智の書庫》が言えば、もっと正しい。

一本、杭が抜かれる。

一つ、石が動かされる。

昨日まであった畑と畑の境界が消えていく。

「そこ」

老人の声。

作業していた男が止まった。

「何です、ローデンさん?」

「その石は動かすな」

土に半分埋まった石。

何の変哲もない、ただの灰色の石。

「でも」

男が困った顔をする。

「ノアの計画では、ここを平らにするって」

「分かってる」

ローデンはゆっくり畑へ入った。

腰が曲がっている。

白い髪。

震える指で石を撫でた。

「ここだけ、残してくれんか」

ノアが農地図から顔を上げる。

「どうしてですか?」

「息子が置いた」

「息子さん?」

「ああ」

老人が少し笑う。

「初めてこいつと畑を広げた日に」

ノアは石を見る。

普通の石だ。

「残した場合の影響を確認します」

本を開く。

「ノア」

母が小さく呼んだ。

少年は聞こえなかった。

質問。

計算。

数秒。

《推定損失》

《全体生産量比 0.08%》

「0.08%です」

ローデンがほっと息を吐いた。

「なら、いいだろ」

ノアはページを見る。

《非推奨》

「でも」

少年は首を傾げた。

「残す意味がありません」

空気が止まった。

ローデンの笑顔も消えた。

「今、言っただろう」

「息子さんが置いた」

「ああ」

「でも」

ノアは本当に悪気なく続けた。

「息子さんは、もう亡くなってますよね?」

誰かが息をのんだ。

「ノア!」

エマが今度は強く呼んだ。

少年は振り向いた。

「何?」

「……何でもない」

母は、それ以上言えなかった。

だって、ノアは間違ったことを言っていない。

「食べ物が増えれば」

ノアは老人へ向き直る。

「今、生きている人が助かります」

正しい。

「昔の形を残すより」

正しい。

「今の人を優先した方がいいと思います」

正しい。

全部、正しい。

だから余計に痛かった。

ローデンは石へ手を置いたまま、しばらく黙っていた。

やがて、ぽつりと言った。

「十七だった」

「え?」

「息子が」

老人は畑を見た。

「初めて自分の鍬を持った」

硬い土。

大量の石。

二人で朝から晩まで土を起こした。

何度も喧嘩した。

鍬を折った。

父親が怒鳴り、息子が怒鳴り返した。

それでも日が沈む頃、二人でこの石を置いた。

翌年。

息子は病気で死んだ。

「その畑はな」

ローデンは震える手で地面を撫でた。

「死んだ息子と、一緒に作った畑だったんだ」

ノアは青い本を見た。

《土地利用効率》

《水路効率》

《作業時間》

《生産量》

《維持コスト》

どこを探しても、思い出という項目はなかった。

「でも」

ノアは本当に分からなかった。

「思い出なら、石がなくても残りますよね?」

ローデンは何も言わなかった。

怒らない。

怒鳴らない。

ただ、「そうか」とだけ呟いた。

そして畑を出ていった。

「好きにしろ」

その背中をノアは見送る。

何か、間違えた?

でも、《叡智の書庫》は正しい。

だったら、間違ってない。

少年は作業員へ向き直った。

「続けてください」

石が持ち上げられた。

ごろり。

そして、百年以上続いた境界から一つ、名前が消えた。

数字だけなら、大成功

一週間後。

村の農地は別の場所みたいになっていた。

区画は広い。

水路は真っすぐ。

作物も種類ごとにまとまっている。

「すげえ……」

村長が記録表を見て息をのんだ。

「作業時間が二割以上減ってる」

「まだ改善できます」

「収穫予測は?」

「約三割増」

「本当に?」

「はい」

村長が笑う。

「大成功じゃないか!」

ノアも笑った。

そう。

大成功。

数字では、完璧だった。

なのに。

村は以前より静かだった。

昔なら畑の向こうから声が飛んできた。

「昼、一緒に食うか!」

「うちの山羊が逃げた!」

「またかよ!」

「今度はお前の畑だ!」

「笑うな!」

そんな、どうでもいい会話。

最近、減った。

畑が家ごとではなく作物ごとに分かれた。

麦担当。

豆担当。

水路担当。

管理担当。

効率的。

でも、毎日隣にいた人が別の場所になった。

親子が別々に作業するようになった。

兄弟も分かれた。

そしてローデンは毎朝、昔の畑の端に立っていた。

もう石はない。

ただ、そこを見ている。

ノアには分からなかった。

「三割増えるのに」

昼。

ノアが呟いた。

隣でミナがパンをかじる。

「何?」

「みんな、喜んでない」

「そりゃそうでしょ」

「なんで?」

「畑なくなった人いるし」

「なくなってないよ」

ノアは即座に訂正した。

「統合しただけ」

ミナがじっとノアを見る。

「同じじゃない?」

「違うよ」

「ローデンじいちゃんの畑は?」

「共同区画」

「じゃあ、ローデンじいちゃんの畑は?」

ノアが口を閉じる。

「……村全体の土地になった」

「だから」

ミナがパンを指でくるくる回す。

「なくなったんじゃん」

「でも!」

少し声が大きくなった。

「食料は増えるんだよ!」

「知ってる」

「三割!」

「知ってるってば」

「冬も困らない!」

「うん」

「だったら!」

ノアは本当に理解できなかった。

「なんで喜ばないの?」

ミナはしばらく少年を見た。

そして自分の髪を両手で持った。

「ノア」

「何?」

「私の髪、明日から全部切れって言われたらどう思う?」

「なんで?」

「作業に邪魔だから」

「結べばいいじゃん」

「例え!」

「分かりにくいよ!」

「ノアが分かりにくくなったの!」

「何それ!」

二人は睨み合う。

普段なら、ここでどちらかが笑う。

でも今日はミナが立った。

「帰る」

「午後の仕事は?」

「休む」

「でも」

ノアの手が《叡智の書庫》へ伸びる。

ミナがその手を見た。

「また?」

「何が?」

「また本に聞くの?」

「予定を確認するだけ」

「そうじゃなくて」

ミナの声が少し寂しくなる。

「自分で言ってよ」

「何を?」

「行かないでって」

ノアは固まった。

ミナが少しだけ待つ。

ノアは考えた。

午後。

必要人数。

予定。

作業効率。

「……人数が足りなくなる」

ミナの顔がほんの少し曇った。

「そっか」

歩き出す。

ノアは追いかけない。

代わりに本を開いた。

「午後の人員不足を補う方法」

《推奨案を生成します》

数秒。

答えはすぐに出た。

いつもなら安心する。

今日はなぜか、胸の奥が少し痛かった。

母さんの料理にも正解がある

夜。

家へ戻る。

「おかえり」

母のエマが夕食を並べていた。

パン。

野菜のスープ。

そして小さな皿。

蜂蜜。

ノアが目を止める。

「蜂蜜?」

「久しぶりに手に入ったの」

母が笑った。

「好きだったでしょう?」

昔。

好きだった。

焼いたパンに、少しだけ蜂蜜。

「うん」

答えようとして止まる。

本を見る。

明日の作業量。

糖分。

水分。

消化。

「ノア」

母の声。

「今日は、本に聞かないで食べてみない?」

「どうして?」

「食べたいと思ったら」

母は笑おうとした。

「食べればいいでしょう?」

ノアが蜂蜜を見る。

食べたい?

分からない。

昨日、ユリアにも聞かれた。

何が好き?

その時も答えられなかった。

「母さん」

「うん」

「僕、蜂蜜好きだった?」

エマの顔が止まった。

「……好きだったよ」

「今も?」

「それは」

母が寂しそうに笑う。

「お母さんに聞くことじゃないでしょう?」

簡単な質問。

なのに答えられない。

「分からない」

その瞬間、母の目から涙が落ちた。

「なんで泣くの?」

「泣いてない」

「泣いてる」

「玉ねぎ」

「今日、入ってないよ」

「…………」

エマは少し笑った。

「そういうところは、自分で気づくのね」

「何それ」

「ううん」

ノアはパンを取った。

蜂蜜をつける。

一口。

甘い。

懐かしい。

「……おいしい?」

母が聞く。

ノアは本を見なかった。

「うん」

「本当?」

「うん」

少し考える。

「たぶん」

「そこは言い切ってよ」

母が泣きながら笑った。

ノアも笑った。

でも、なぜ母が泣いたのか。

少年にはまだ分からなかった。

正しい答えが、喧嘩を増やした

二週間後。

最初の収穫予測が出た。

《+29.8%》

ほぼ計算どおり。

村長が呆然と数字を見た。

「本当に、三割増える……」

成功。

誰が見ても成功。

その日の夕方。

共同畑で殴り合い寸前の喧嘩が起きた。

「そこは俺がやる!」

「担当表では俺だ!」

「昔から俺の土地なんだぞ!」

「今は共同区画だろ!」

「お前に何が分かる!」

別の場所でも。

「水を先に回して!」

「順番が違う!」

「前は相談してただろ!」

「今は規則どおりだ!」

規則。

担当。

時間。

水量。

すべて最適化されている。

だから誰かが融通を利かせようとすると、

「規則と違う」

で、終わる。

以前、村は非効率だった。

だから話し合っていた。

今日はお前が先。

明日は俺。

うちは今年、子どもが生まれたからこっちを手伝って。

余った苗、少しもらえない?

正解がないから、人と人が話して答えを作っていた。

今は正解がある。

だから、話す必要がなくなった。

「待って!」

ノアが叫ぶ。

「水路の順番を再計算します!」

誰も聞かない。

「作業担当を最適化すれば!」

また怒鳴り声。

「収穫配分を!」

誰かが泣いている。

どうして?

少年は本を見る。

食料は増える。

作業時間は減る。

水も無駄にならない。

全部、良くなった。

なのに。

「なんで」

ノアの声が震えた。

「なんで幸せにならないの?」

《叡智の書庫》は答えない。

質問されていないから。

ノアは急いで入力しようとする。

「村の幸福度を改善する方法」

その手首を掴まれた。

ローデンだった。

「やめろ」

「離してください!」

「今日は本を閉じろ」

「でも!」

「ノア」

老人が静かに言う。

「人を見ろ」

「……え?」

「数字じゃない」

周囲。

怒っている男。

泣いている女性。

口をきかなくなった兄弟。

畑の端に一人で座る老人。

そして、ミナ。

少年を見ている。

「俺たちを見ろ」

ノアは見た。

本を開く前に。

初めて村を見た。

怖くなった。

だって、みんな違う。

畑を残したい人。

食料を増やしたい人。

昔のままがいい人。

変えたい人。

効率を上げたい人。

思い出を守りたい人。

「……無理です」

ノアが小さく言った。

「何が?」

「全員」

少年の目に涙が浮かぶ。

「言うことが違う」

「そうだな」

「じゃあ」

声が震える。

「どれが正解なんですか?」

ローデンは答えなかった。

「どっちなんですか!」

返事がない。

「畑を残すんですか!?」

沈黙。

「食料を増やすんですか!?」

誰も答えられない。

「じゃあ!」

ノアはとうとう叫んだ。

「どうすればいいんですか!」

その沈黙が、十二歳の少年には何より怖かった。

だから、また青い本へ手を伸ばした。

正しいって、何ですか

その夜。

光太郎は宿の扉を叩く音で目を覚ました。

どん。

どん。

どん。

「誰だ?」

「僕です!」

扉を開ける。

ノア。

泥だらけ。

目が赤い。

腕の中には《叡智の書庫》。

「どうした?」

「教えてください」

「何を?」

ノアは震える声で言った。

「僕」

一度、唇を噛む。

「間違ってません」

光太郎は黙って聞く。

「食料は増えました」

「うん」

「作業時間も減った」

「うん」

「水も無駄にならない」

「うん」

「全部」

少年の頬を涙が流れる。

「全部、正しかったんです」

「…………」

「なのに」

泣きながら笑おうとする。

笑えない。

「みんな、前より怒ってる」

光太郎の胸が痛んだ。

その顔を知っている。

正しい知識を使った。

救えると思った。

なのに、人が笑わない。

第1部。

あの村で。

自分も同じ顔をしていた。

「光太郎さん」

ノアが本を抱きしめる。

「正しいって、何ですか?」

光太郎は答えなかった。

答えられない。

ではなく。

答えてはいけない。

そう思った。

ここで自分が「正しさとはこういうものだ」と教えたら、《叡智の書庫》と何が違う?

だから、しゃがんだ。

ノアと同じ目線まで。

「ノア」

「はい」

「明日」

少年を見る。

「一緒に畑へ行こう」

「答えを教えてくれるんですか?」

「いや」

ノアの顔に不安が浮かぶ。

「一緒に考える」

「……それだけ?」

「ああ」

「光太郎さんでも分からないんですか?」

「分からない」

即答した。

ノアが驚いた。

英雄。

王都を救った男。

戦争を止めた男。

《叡智の書庫》を使っていた憧れの人。

そんな人が、分からないと言った。

「でも」

ノアが小さく言う。

「光太郎さんは、いっぱい成功してます」

「いっぱい失敗もした」

「英雄なのに?」

「英雄になると失敗禁止になるの!?」

部屋の奥から声。

「コータローは結構失敗してるよ」

「ユリア!?」

銀髪のエルフが眠そうな顔で出てきた。

「起きてたの?」

「今起きた」

「どこから聞いてた?」

「英雄なのに、くらい」

「一番嫌なところから!」

ノアが少し笑った。

光太郎も息を吐く。

よかった。

まだ笑える。

「光太郎さん」

「ん?」

「僕」

少年の表情が少し変わる。

泣いた目。

それでも憧れだけは消えていない。

「もっと光太郎さんのこと、知りたいです」

「俺?」

「はい」

そして目を輝かせた。

「僕、光太郎さんみたいになりたいです!」

「…………」

光太郎、沈黙。

ユリアが横を見る。

「コータロー?」

心の中で一つの言葉が、はっきり浮かんだ。

やめろ。

割と本気で。

目の前にいるのは十二歳の少年。

でも光太郎には、別のものが見えていた。

昔の自分。

AIがあれば救える。

正しい知識があれば間違えない。

答えがあれば人を幸せにできる。

そう信じていた昔の神谷光太郎。

「……ユリア」

「何?」

「俺」

「うん」

「昔の俺を」

ノアを見る。

「ちょっと殴りたい」

「ノア君を殴ったら、私がコータローを殴るよ」

「違う!」

「じゃあ誰?」

「昔の俺!」

「どうやって?」

「それを今考えてる!」

ノアがぽかんとしている。

「僕、殴られます?」

「殴らない!」

「本当に?」

「十二歳は殴らない!」

「十三歳なら?」

「そこ掘るな!」

ユリアがとうとう吹き出した。

ノアも少し遅れて笑った。

だけど光太郎だけは、笑いながら決めていた。

明日。

この少年と本気で話す。

AIを取り上げるためじゃない。

正解を禁止するためでもない。

もっと難しいことをするため。

自分で選ぶことを、もう一度教えるために。

それが本当に正しいかは、まだ分からない。

でも、だからこそ。

光太郎は自分で決めた。

今度は《叡智の書庫》に聞かずに。

第5部 第3話 完

次回 第4話

「昔の俺を殴りたい」

「僕、光太郎さんみたいになりたいです!」

無邪気な憧れに、光太郎は笑えなかった。

知識があれば救える。

正解があれば失敗しない。

AIに聞けば間違えない。

それは全部、かつての自分が信じていたことだった。

だから光太郎は決める。

ノアを止める前に、まず昔の自分と向き合う。



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