第1話 AIを手に入れた少年
第5部「第二のAI使い」前書き
世界から《叡智の書庫》が消えた。
正解を失った光太郎たちは、それでも自分たちで考え、間違え、選びながら前へ進み始めます。
けれど、その頃。
遠く離れた小さな村で、一人の少年の前に青い本が現れていました。
十二歳の少年、ノア・ベルン。
彼が最初に願ったのは、力でも、お金でもありません。
病気の母親を助けること。
《叡智の書庫》は、その願いに答えます。
病気を救い。
村の問題を解決し。
飢えを遠ざけ。
少年はやがて「神童」と呼ばれるようになる。
それは、かつて光太郎が歩いた道とよく似ています。
AIは、人を救える。
知識は、人生を変えられる。
それは間違いありません。
だからこそ、第5部ではもう一歩先へ進みます。
正しい答えをいつでも教えてもらえる人間は、自分で選ぶ必要があるのでしょうか。
間違えない。
失敗しない。
迷わない。
そんな人生は、本当に幸せなのか。
そして、かつてAIだけを武器に異世界を生き抜いた光太郎は、自分と同じ力を手に入れた少年と出会ったとき、何を伝えるのか。
「AIを使うな」とは言えない。
なぜなら。
誰よりもAIに救われたのは、光太郎自身だから。
第5部「第二のAI使い」。
これは、新しいAI使いの物語であると同時に。
光太郎が、かつての自分と向き合う物語です。
それでは、第1話。
「AIを手に入れた少年」
始まります。
十二歳のノア・ベルンが、AIに最初に聞いたこと。
それは。
世界を変える方法でも。
金持ちになる方法でも。
強くなる方法でもなかった。
「母さんを助けるには、どうしたらいい?」
青い本が。
静かに開いた。
母さんを助けて
《症状を入力してください》
「……しょうじょう?」
ノアは眉を寄せた。
知らない言葉だった。
狭い家。
泥と石を固めた壁。
夜風が隙間から入り込んでいる。
粗末な寝台では、母親が荒い息を繰り返していた。
三日前から熱が下がらない。
昨日から食事もほとんど取れていない。
村に医者はいない。
薬を買う金もない。
父親は、もういない。
だから。
十二歳のノアが何とかするしかなかった。
「難しい言葉、分からないよ」
青い本へ言う。
「僕でも分かるように教えて」
少し間があった。
《分かりました》
ノアが目を見開く。
《お母様の状態を、一つずつ確認しましょう》
「……うん」
《まず、声をかけてください》
ノアは寝台へ駆け寄った。
「母さん」
肩に触れる。
「母さん。僕が分かる?」
「……ノア?」
弱い。
けれど。
返事があった。
「返事した!」
《次に、水を少量ずつ与えてください》
木のコップへ水を入れる。
「母さん、水」
「いらない……」
《一度に飲ませる必要はありません》
「ちょっとだけ」
背中を支える。
一口。
休む。
もう一口。
母親は吐かなかった。
「飲めた」
《そのまま続けてください》
ノアの目に。
涙が浮かんだ。
まだ。
母親は治っていない。
熱もある。
明日の朝まで生きている保証だってない。
それでも。
さっきまで。
何をすればいいのかすら分からなかった。
今は。
次にすることが分かる。
それだけで。
真っ暗だった世界に。
一本だけ。
道ができた。
「次は?」
《身体を冷やしすぎないよう注意してください》
「その次は?」
《呼吸の状態を確認します》
「その次!」
青い本は。
何度聞いても。
答えてくれた。
ノアは夜が明けるまで。
何度も。
何度も。
質問した。
何回聞いても、怒られない
朝。
「……お腹、すいたわね」
その声を聞いた瞬間。
ノアは泣いた。
「ノア?」
「よかった……!」
「大げさねえ」
母親が弱々しく笑う。
「まだ死ぬつもりはないわよ」
「そういうこと言うなよ!」
袖で涙を拭う。
机の上では。
青い本が浮かんでいた。
母親には見えていない。
昨夜、何度も確認した。
「母さん。これ見える?」
「何が?」
「青い本」
「熱があるのは私の方なんだけど」
「だよね……」
ノアは本へ向き直る。
「ねえ」
《はい》
「母さんは、もう大丈夫?」
少し。
返事が遅れた。
《確実とは言えません》
笑顔が消える。
《医療従事者による診察を推奨します》
「医者なんていないよ」
《最寄りの医療施設までの距離は?》
「馬車で三日くらい」
《移送にも危険が伴います》
「じゃあ、どうすればいい?」
すぐに。
文字が現れた。
《現在の状況で可能な対処方法を提示します》
水分。
保温。
食事。
衛生。
経過観察。
危険な兆候。
知らない言葉が出るたび。
ノアは聞いた。
「これは?」
答える。
「こっちは?」
答える。
「もう一回説明して」
答える。
何度でも。
嫌な顔をしない。
ため息もつかない。
馬鹿にもしない。
ノアは。
それが。
とても嬉しかった。
今まで。
大人に質問するのが怖かった。
そんなことも知らないのか。
何回聞けば分かる。
子どもには関係ない。
自分で考えろ。
でも。
この本は。
一度も言わない。
「君……何なの?」
《叡智の書庫》
「えいちの、しょこ?」
《膨大な知識を参照し、使用者の質問に対して情報を》
「分からない」
《質問に答える本です》
ノアは吹き出した。
「最初からそう言ってよ!」
《申し訳ありません》
「謝った!?」
母親がこちらを見る。
「ノア?」
「な、なんでもない!」
「朝から一人で笑ってると心配になるわよ」
「母さんにだけは言われたくない!」
久しぶりに。
二人で笑った。
その時だった。
外から。
怒鳴り声が響いた。
「水車が壊れたぞ!」
ノアの笑顔が。
消えた。
そして。
青い本を見た。
僕に聞けばいい
村の水車は。
完全に止まっていた。
「軸が割れてる」
村長が吐き捨てる。
「新しい軸を作る木もねえ」
今年は。
ただでさえ凶作だった。
残った麦を挽くための水車まで止まれば。
村は。
本当に冬を越せない。
「直せないの?」
ノアが聞く。
「簡単に言うな」
「森に木はあるよ」
「何でも使えるわけじゃねえんだ」
「じゃあ、どんな木ならいいの?」
村長が。
面倒そうに手を振った。
「子どもは母ちゃんを見てろ」
「でも」
「大人が考える」
ノアは。
口を閉じた。
大人が考える。
いつも。
そうだった。
お前には分からない。
子どもは黙っていろ。
昨日までなら。
それで終わっていた。
でも。
今日は違う。
ノアは。
物陰へ走った。
「叡智の書庫」
青い本が現れる。
「水車の軸が壊れた。新しい木がない」
息を整える。
「どうしたらいい?」
《水車の構造、軸径、回転速度、負荷、使用可能な木材について情報が必要です》
「……難しい」
《一つずつ確認します》
ノアは。
笑った。
「うん!」
水車へ走る。
見る。
戻る。
聞く。
また走る。
木材置き場を見る。
戻る。
聞く。
村長が不審そうに言った。
「お前、さっきから何してる?」
「考えてる!」
「走りながら?」
「その方が考えやすいんだよ!」
「変な奴だな……」
何度も往復して。
ようやく。
一つの方法へたどり着いた。
壊れた軸を完全交換するのではない。
一部を補強して。
負荷を下げる。
ノアは地面へ図を描いた。
「村長!」
「今度は何だ」
「これなら動くかもしれない」
村長が。
図を見る。
そして。
ノアを見る。
「誰に教わった?」
心臓が跳ねた。
「え」
「お前が知ってるわけないだろ」
「父さん!」
「お前の父ちゃん、水車職人じゃねえぞ」
「本で読んだ!」
「この村にそんな本ねえぞ」
「夢で見た!」
「話がどんどん怪しくなってるぞ」
「とにかく試してよ!」
他に。
方法はなかった。
村長は渋々。
大人たちを集めた。
数時間後。
ぎ。
ぎぎ。
水車が。
ゆっくりと。
回った。
「……動いた」
一人が呟く。
次の瞬間。
歓声が上がった。
「動いたぞ!」
「ノア!」
「すげえじゃねえか!」
肩を叩かれる。
頭を撫でられる。
昨日まで。
誰も。
ノアの意見なんて聞かなかった。
今は。
大人たちが。
自分を見ている。
「こいつ、頭よかったんだな!」
「前から賢そうな顔してたぞ!」
絶対。
嘘だ。
昨日まで一度も言われなかった。
それでも。
ノアは。
嬉しかった。
ものすごく。
嬉しかった。
青い本を見る。
僕じゃない。
本が教えてくれた。
そう思った。
でも。
次に。
こんなことも思った。
僕に聞けばいい。
僕が。
この本に聞けば。
みんなを助けられる。
冬を越せない
その日の夕方。
ノアは。
初めて大人たちの話し合いへ呼ばれた。
机の上には。
麦袋が三つ。
「冬までもたねえ」
村長が言った。
今年は雨が少なかった。
畑は枯れ。
収穫は例年の半分以下。
「あと何日?」
「節約して百日」
「冬が終わるまで?」
「百六十日」
六十日。
足りない。
誰も。
答えを持っていなかった。
ノアは。
青い本のことを考えた。
「ちょっと外行ってくる」
「会議中だぞ」
「おしっこ!」
沈黙。
「……行ってこい」
「はい!」
家の裏へ飛び出す。
「叡智の書庫!」
《はい》
「食べ物が足りない!」
村の人数。
食料。
畑。
家畜。
森。
水。
分からないことを聞かれるたび。
ノアは村長のところへ戻った。
「ヤギ何頭!?」
「十二頭!」
「分かった!」
「お前、小便は!?」
「出なかった!」
「大丈夫か!?」
「大丈夫!」
三度目には。
村長が怒鳴った。
「もう裏で会議しろ!」
やがて。
一つの計画ができた。
水の使い方を変える。
保存食を共同管理する。
食べられる野草を集める。
家畜用の餌を調整する。
「それでも足りねえ」
村長が言う。
「うん」
ノアも。
そこは分かっていた。
「だから、炭を売る」
「炭?」
「森の木を、そのまま運ぶのは大変だから」
ノアは。
地面へ図を描く。
「炭にして町へ持っていく」
「誰が炭焼きなんて知ってる?」
その質問に。
ノアは。
ほんの少し。
胸を張った。
「僕が知ってる」
言ってから。
自分で驚いた。
僕が知ってる。
昨日まで。
そんな言葉。
怖くて言えなかった。
神童
最初の炭窯は。
失敗した。
「……真っ黒だ」
「炭なんだから黒いだろ」
「そういう意味じゃない!」
半分近く。
使い物にならなかった。
大人たちの空気が重くなる。
ノアは。
泣きそうになった。
「僕が……間違えた?」
《叡智の書庫》を開く。
《原因を確認します》
「怒らないの?」
《質問の意図が不明です》
「失敗したのに」
《失敗した結果から原因を分析できます》
ノアは。
しばらく。
青い文字を見ていた。
怒られない。
責められない。
失敗しても。
次の答えをくれる。
「……そっか」
二度目。
炭窯は成功した。
炭は町で売れた。
麦。
塩。
薬。
村に必要なものを。
少しだけ買えた。
そこから。
ノアの毎日は変わった。
「畑の水を減らす方法は?」
答えが返る。
「麦を長く保存するには?」
答えが返る。
「赤ん坊がお腹を壊した!」
答えが返る。
「ヤギが餌を食べない!」
答えが返る。
「橋が壊れそうだ!」
答えが返る。
何を聞いても。
答えがあった。
そして。
その答えを使うたび。
誰かが助かった。
ある朝。
家を出ると。
村人が待っていた。
「ノア! 畑を見てくれ!」
「先に牛だ!」
「うちの屋根も頼む!」
「僕、一人しかいないよ!」
「神童なら何とかしろ!」
ノアは。
止まった。
「……神童?」
「お前だよ」
村人たちが笑う。
「この村の神童だ」
胸の奥が。
熱くなった。
昨日まで。
ただの子どもだった。
何も知らなかった。
母親すら。
助けられなかった。
それが。
今は。
みんなが。
自分を必要としている。
「分かった!」
ノアは笑った。
「順番に行く!」
青い本を開く。
《次の質問を入力してください》
その文字を見るだけで。
安心した。
分からなくても。
大丈夫。
聞けばいい。
失敗しても。
大丈夫。
また聞けばいい。
困ったら。
全部。
ここに聞けばいい。
答えは。
ここにある。
明日、何をすればいい?
一か月後。
冬を越せないと言われていた村には。
食料が積まれていた。
炭を載せた馬車が。
町へ向かう。
水車が回る。
そして。
母親は。
畑へ出られるまで回復した。
夕食。
「ノア」
母親が言った。
「最近、村のみんな、あなたの話ばかりよ」
「そう?」
「村長さんなんて」
笑う。
「ノアが村を救ったって」
少年の手が。
止まった。
「僕が……」
村を。
救った。
本当は。
《叡智の書庫》だ。
でも。
嬉しかった。
「父さんが生きてたら」
母親が言う。
「きっと喜んだわ」
「……うん」
その夜。
ノアは。
青い本を開いた。
「ねえ」
《はい》
「僕って、頭いいのかな」
《知性を単一の尺度で評価することは》
「難しいの禁止」
文字が。
止まった。
《あなたは学習能力が高く、提示された情報を実行へ移す能力があります》
「それって」
ノアは笑う。
「頭いいってこと?」
《そのように表現することも可能です》
「そっか」
嬉しかった。
だから。
もう一つ。
聞いた。
「明日、何したらいい?」
《優先順位を算出します》
一。
水路点検。
二。
保存食確認。
三。
炭窯改善。
四。
病人の経過確認。
五。
春季作付計画。
「分かった」
本を閉じる。
これで。
明日も大丈夫。
何をすればいいか。
分かっている。
だから。
怖くない。
ノアは。
安心して目を閉じた。
自分が。
明日。
何をしたいのか。
それだけは。
一度も考えなかった。
昔の俺だ
同じ頃。
数百キロ離れた王都。
「暇だ」
俺は。
机へ突っ伏していた。
「仕事すれば?」
ユリアが冷たい。
「してる」
「今、暇って言ったよね」
「仕事してるけど心が暇なんだ」
「面倒くさい人になったね」
ひどい。
帝国軍十万との戦争を。
戦わずに終わらせてから一か月。
世界は。
思ったより普通に続いていた。
国境問題。
食料支援。
捕虜交換。
帝国との交渉。
AI停止後の混乱。
仕事は。
むしろ増えている。
なのに。
時々。
癖で呼んでしまう。
「叡智の書庫」
何も出ない。
「またやってる」
「一日一回だけ」
「昨日三回聞いた」
「数えるなよ」
ユリアが。
向かいへ座った。
「でも」
「何?」
「前よりいい顔してる」
「そうか?」
「うん」
少し笑う。
「間違える顔になった」
「それ褒めてる?」
「すごく」
人間の褒め方は。
やっぱり難しい。
「そういえば」
ユリアが。
一枚の報告書を差し出した。
「北西部から変な報告が来てる」
「変?」
「飢饉寸前だった村が、一か月で立ち直った」
「へえ」
紙を見る。
水車修理。
炭焼き。
保存方法の改善。
水管理。
衛生。
「……誰がやった?」
「それが変なの」
一番下。
《改革主導者》
《ノア・ベルン》
《十二歳》
俺の指が。
止まった。
「十二?」
「うん」
「十二歳?」
「二回言ったね」
水車。
農業。
衛生。
炭焼き。
一つなら。
天才で済む。
全部?
胸の奥が。
ざわついた。
一か月前。
最後に見た。
青い文字。
《第二試験対象を選定》
《対象》
《神谷光太郎ではありません》
「玲奈を呼んでくれ」
立ち上がる。
「今すぐ」
ユリアの顔から。
笑みが消えた。
「コータロー?」
その瞬間。
視界が。
青く染まった。
「……え?」
懐かしい。
忘れるはずがない。
《観測情報》
「叡智の書庫!?」
手を伸ばす。
だが。
画面は。
俺に答えなかった。
ただ。
一行。
表示する。
《新規知識魔法使用者を確認》
呼吸が。
止まった。
俺は。
報告書へ目を落とした。
ノア・ベルン。
十二歳。
村を救った少年。
昔の俺なら。
喜んだ。
知識が広がる。
救える人が増える。
いいことしかないと。
思ったはずだ。
でも。
今は。
知っている。
答えが。
人間を救うことを。
そして。
答えを持ちすぎた人間が。
何を失うことがあるのかも。
「ユリア」
「何?」
「この村」
報告書を握る。
「場所を調べてくれ」
「行くの?」
俺は。
すぐには答えられなかった。
ただ。
一つだけ。
分かった。
この少年を。
俺は知っている。
会ったことなんて。
一度もない。
それでも。
知っている。
「……昔の俺だ」
その夜。
遠く離れた村で。
ノア・ベルンは。
また。
青い本を開いていた。
「ねえ」
《はい》
「明日の朝ご飯」
少年は。
何の迷いもなく尋ねた。
「何を食べればいい?」
《現在の栄養状態と明日の活動予定から推奨します》
「うん」
ノアは。
嬉しそうに。
答えを待った。
何が食べたいか。
自分へ聞くことは。
もう。
しなかった。
第5部 第1話 完
次回 第2話
「失敗しない子ども」
朝食。
服。
勉強。
友達。
そして。
恋。
ノアは、あらゆることを《叡智の書庫》へ尋ね始める。
正しい答えを選べば。
失敗しない。
嫌われない。
傷つかない。
そんな少年へ。
ユリアが尋ねる。
「ノア君は、何が好き?」
正解を知っている少年は。
その質問にだけ。
答えられなかった。




