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第3話 野戦病院の少女

第3部から、この物語は少しだけ重くなります。




これまで光太郎は、《叡智の書庫》の知識を使いながら、村や王都で起きる問題と向き合ってきました。




しかし今回、AIが示すのは「どうすれば全員を救えるか」という答えではありません。




「誰を諦めれば、より多くの人を救えるか」




という答えです。




六万の帝国軍。




ユリアの故郷、白樹都市リュネール。




そこに暮らす十万人。




そして、《叡智の書庫》が示した極めて合理的な最適解。




一つの都市を犠牲にすれば、王国全体を救える。




数字だけを見れば、それは正しいのかもしれません。




けれど、その「一つ」の中には。




誰かの家があり。




家族がいて。




思い出があり。




生きてきた時間があります。




第3部で光太郎が戦うのは、帝国軍だけではありません。




「正しい答えなら、人間は従うべきなのか」




その問いそのものと戦います。




さらに、これまでほとんど語られてこなかったユリアの過去。




彼女がなぜ故郷を離れたのか。




そして、彼女の中に眠る謎も少しずつ動き始めます。




AIは答えをくれる。




けれど。




その答えを選ぶのは誰なのか。




ここから、『AIだけが使える異世界』は本当の意味で「AIと人間の物語」へ入っていきます。




第3部。




戦争編「一つの都市と十万人の命」




光太郎たちが選ぶ答えを、最後まで見届けていただければ嬉しいです。

青い区画に残した人

「ミレナ先生を、青い区画へ」


その一言で。


俺は、ユリアが昨日までとは違う場所に立ったのだと知った。


青い区画。


限られた薬も、人手も、優先して回せない患者たちの場所だ。


そしてミレナは。


ユリアを拾った。


育てた。


薬草を教えた。


母親を失ったユリアにとって、もう一人の母親だった人だ。


その人を。


ユリア自身が、青い区画へ送った。


「ユリア!」


叫び声。


振り向く。


七歳くらいの少年が、寝台の上で激しく震えていた。


「痙攣!」


さっき月白草を飲ませた患者だ。


ユリアは一瞬だけ青い区画を見た。


白い布の向こう。


そこにミレナがいる。


けれど。


次の瞬間には走っていた。


「周りの物をどけて!」


誰かが少年の腕を押さえようとする。


「押さえないで!」


ユリアが叫ぶ。


「頭の下に布を!」


俺も家族を下がらせた。


「口に棒を入れるな!」


「でも、舌を噛むぞ!」


「入れる方が危ない!」


「舌を飲み込むって聞いた!」


「飲み込まない!」


少年の身体が大きく跳ねる。


母親が泣きながら手を伸ばした。


「お願い! 息子を助けて!」


「助ける」


ユリアは即答した。


迷いはない。


でも。


俺には見えていた。


少年へ触れる指が、ほんの少し震えている。


ミレナのことが頭から消えているはずがない。


《痙攣継続時間 一分十二秒》


青い文字が視界に浮かぶ。


《気道閉塞の危険性を監視してください》


「ユリア、呼吸!」


「ある。でも弱い」


少年の顔を横へ向ける。


吐いたものが喉に詰まらないようにする。


一分半。


二分。


時間が。


異様に長い。


「止まって……」


ユリアが呟いた。


薬師の指示ではない。


祈りだった。


だが。


病気は祈りを聞いてくれない。


《痙攣継続時間 二分三十八秒》


ユリアが顔を上げる。


「光魔法を使える人!」


若い女性が手を挙げた。


「使えます!」


「治癒魔法は?」


「傷を塞ぐ程度なら!」


「頭には使わないで。胸と背中を温めて」


女性が戸惑う。


「温めるだけですか?」


「うん。強く治そうとしないで」


ユリアは少年の手を握った。


「大きな魔力を流したら、今の身体には負担になるかもしれない」


俺は彼女を見る。


「何か気づいた?」


「月白草を使った患者の何人かが、急に寒がってた」


「副作用?」


「分からない。でも」


少年の指先に触れる。


「この子も冷たい」


月白草。


熱を下げる薬草。


なら。


「効きすぎてる?」


「かもしれない」


《仮説を記録します》


《体温低下と痙攣との関連性を検討》


柔らかな光が少年の胸を包んだ。


傷を治すためじゃない。


温めるためだ。


この世界では、治癒魔法は傷を消す奇跡だった。


でも今。


ユリアは、その奇跡を医療の道具として使おうとしている。


少年の震えが弱くなった。


腕。


脚。


そして。


止まる。


「呼吸は?」


ユリアが少年の口元へ耳を寄せた。


一秒。


二秒。


「……ある」


母親が崩れ落ちる。


「助かったんですか?」


「痙攣は止まりました。でも、まだ危険です」


ユリアは少年の額に触れた。


「身体を冷やさないで。呼吸がおかしくなったら、すぐ呼んでください」


「ありがとうございます……!」


母親が何度も頭を下げる。


ユリアが立ち上がった。


そして。


また青い区画を見る。


白い布。


その向こうにミレナがいる。


駆け寄りたいはずだ。


呼吸を確かめたい。


手を握りたい。


まだ自分の名前を呼んでくれるのか。


確かめたい。


「薬師様!」


赤い区画から声が飛んだ。


「こっちの患者が息をしていません!」


ユリアは一秒だけ目を閉じた。


そして。


青い区画へ背を向ける。


「今行きます!」


俺はその背中を追った。


「ユリア」


「なに?」


「ミレナさんは俺が見る」


足が止まった。


「でも、コータローには他にも」


「診断はできない」


俺は青い区画を見る。


「でも、呼吸と脈くらいは確認できる。変わったらすぐ呼ぶ」


「……」


「ユリアにしかできないことを、ユリアがやってる」


だから。


「俺にできることは、俺がやる」


ユリアの唇が、かすかに震えた。


「……死なせないで」


小さな声だった。


薬師から助手への指示じゃない。


一人の娘の願いだった。


だからこそ。


俺は「大丈夫」とは言えなかった。


昨日。


俺たちは思い知った。


命に絶対なんてない。


だから。


「一人にはしない」


そう答えた。


ユリアが小さく頷く。


「お願い」


そして。


また患者のもとへ走っていった。


俺はその背中を見送った。


強くなった。


そう思う。


でも。


強くなったから、悲しくなくなるわけじゃない。


悲しいまま。


怖いまま。


それでも次の患者へ走れること。


きっと。


それが、本当の強さなんだ。


病院を作るのは、薬師だけじゃない

夜明け。


白樹神殿前の広場は、限界を迎えていた。


患者、四百八十一人。


重症、九十六人。


死亡、二十七人。


そして。


まだ増えている。


「寝かせる場所がありません!」


「薬草を置く場所もない!」


「西側の天幕、水が足りません!」


「家族が勝手に区画へ入っています!」


昨日まで市場だった広場は、人で埋め尽くされていた。


呻き声。


咳。


泣き声。


怒鳴り声。


水を運ぶ者と患者を運ぶ者がぶつかる。


新しい布と使い終わった布が、同じ籠へ放り込まれている。


薬師は重症患者へ集中。


軽症患者が悪化しても、誰も気づけない。


知識だけでは、人は救えない。


薬だけでも足りない。


仕組みが必要だ。


「コータロー」


肩を揺すられた。


「寝てない」


「まだ何も言ってない」


「顔が寝てたって言ってる」


「どんな顔だよ」


ユリアは真顔だった。


「私がコータローを見る時の顔」


「……それ何?」


「だいたい呆れてる顔」


「やっぱり寝てたと思ってるじゃん」


ユリアが、ほんの少し笑った。


こういう時。


一秒の笑いがありがたい。


彼女の視線は、すぐ青い区画へ戻った。


「先生は?」


「呼吸は弱い。でも変わってない」


ミレナは眠ったままだ。


胸がゆっくり上下している。


今は。


それだけでいい。


「患者が多すぎる」


ユリアが呟いた。


「私たちだけじゃ無理」


「なら」


俺は広場を見る。


「俺たちだけでやるのをやめよう」


「え?」


薬師、二十三人。


治癒魔法を使える者、十六人。


患者、五百人近く。


薬師が水を運び。


身体を拭き。


布を替え。


症状を見て。


全部やれば。


患者より先に薬師が倒れる。


「仕事を分ける」


「薬師じゃない人にも?」


「診断と治療方針は薬師がやる。でも」


指を折る。


「水を運ぶ」


「うん」


「布を替える」


「うん」


「患者の変化を見る」


ユリアの目が少し大きくなった。


「看護する人?」


「そう」


俺は《叡智の書庫》へ問いかけた。


「最低限、何を見ればいい?」


《呼吸状態》


《意識状態》


《水分摂取》


《排泄》


《体温変化》


《接触後の手指・器具洗浄》


《症状悪化時の報告》


「難しい」


《簡略化します》


よし。


俺は木箱へ上った。


「聞いてくれ!」


誰も聞かない。


まあ。


そうだよな。


地獄みたいな広場で男一人が叫んでも、誰も振り向かない。


ガンッ!


突然、金属音が響いた。


全員が止まる。


セリアが剣の鞘で盾を叩いていた。


「光太郎が話します!」


静寂。


「……助かるけど、もっと穏やかな方法ない?」


「ありません」


即答。


本当に怖い。


「薬師だけじゃ患者を救えない!」


俺は叫んだ。


「手伝ってくれる人が必要だ!」


住民たちが顔を見合わせる。


「薬草なんて知らんぞ!」


「知らなくていい!」


「なら何をする!」


「患者のそばにいる!」


「それだけか?」


「それだけじゃない!」


指を一本立てる。


「呼んでも返事をしなくなったら薬師を呼ぶ!」


二本。


「息が急に速くなったり、止まりそうになったら呼ぶ!」


三本。


「飲んだ水の量と、吐いた回数を記録する!」


「文字を書けない者はどうする!」


……そうだった。


この世界では、字を書けない人も多い。


俺は足元を見る。


白い石。


黒い石。


赤い石。


「石を使う!」


「石?」


白い石を拾った。


「水を一杯飲んだら白を一個!」


黒。


「吐いたら黒!」


赤。


「息が苦しくなったら赤!」


三つを地面へ並べる。


「これなら文字がなくても記録できる!」


ざわめきが広がった。


ユリアが俺の隣へ立つ。


「患者さんに触った後は、必ず手を洗ってください!」


「水が足りん!」


「飲む水とは分けて、洗浄用の水を用意して!」


「布は?」


「一度使った布を別の患者へ使わない! 洗って、煮て、乾かしてから!」


「家族は一緒にいていいのか?」


ユリアが一瞬考える。


患者から完全に離せば、人手が足りない。


自由に出入りさせれば、病気が広がる。


「一人」


「一人?」


「患者一人につき、付き添いは一人だけ」


はっきりと言った。


「区画から出る時は、手と靴を洗ってください」


それでも。


すぐに動く者はいなかった。


当然だ。


怖い。


病人に近づけば。


自分も病気になるかもしれない。


最初に手を挙げたのは。


一人の女性だった。


「私がやります」


黒い斑点の少女の母親。


「娘を助けてもらいました」


彼女は娘を見た。


そして。


「今度は私が、誰かを見ます」


次に手を挙げたのは、一人の男。


昨日。


父親を青い区画へ送られ。


ユリアへ怒鳴った男だった。


「俺にも教えてくれ」


ユリアが驚く。


「でも、お父さんは……」


「助からないかもしれない」


男は拳を握った。


青い区画を見る。


「でも、親父なら言う」


少しだけ笑う。


「泣いてる暇があるなら、誰か助けろって」


一人。


また一人。


人が集まる。


「この人たちを」


俺は言った。


「看護班と呼ぶ」


「カンゴ?」


「患者のそばで」


少し考える。


「命を見守る人だ」


薬師は病気を見る。


看護班は、人を見る。


水を運ぶ。


布を洗う。


食事を手伝う。


変化を記録する。


患者を運ぶ。


そして時には。


亡くなった人を運ぶ。


少しずつ。


広場に流れが生まれた。


「黄色区画十二番! 白い石が増えてません!」


ユリアが走る。


患者は水を飲めない。


意識も落ちている。


「赤へ移して!」


別の場所から声。


「赤区画八番! 黒い石が減りました!」


吐く回数が減った。


回復の兆候だ。


白。


黒。


赤。


小さな石が。


命の変化を教えている。


ユリアが広場を見回した。


騎士が鍋を洗い。


神官が石を数え。


農民が水を運び。


商人が患者の身体を支えている。


身分も。


種族も。


関係ない。


「コータロー」


「ん?」


「病院って」


ユリアがぽつりと言った。


「こうやって作るんだね」


俺は首を振った。


「俺が知ってる病院とも違う」


「失敗?」


「違う」


少し笑う。


「こっちの世界の病院だ」


ユリアは広場を見た。


そして。


ほんの少し。


誇らしそうに笑った。


AIが知らなかった薬

昼前。


患者の症状を書いた木札が山になっていた。


高熱。


嘔吐。


下痢。


呼吸困難。


黒い斑点。


痙攣。


ユリアが、それを三つの山へ分ける。


「高熱と下痢」


一つ。


「呼吸が苦しい人」


二つ。


「急に意識を失う人」


三つ。


「一つの病気じゃない」


「ああ」


《症状群を再分類》


《少なくとも三種類の作用機序が存在する可能性》


「さようきじょ?」


「身体の中で、どう働いて症状を起こすかってこと」


「難しい」


「俺も説明しててそう思った」


ユリアが木札を指した。


「月白草が効いてるのは、高熱の人」


「呼吸が苦しい人には?」


「ほとんど効いてない」


「でも、光魔法で温めると楽になった患者がいる」


「うん」


「意識を失った人は?」


「中央井戸」


ユリアは迷わず答えた。


「西の湧き水を飲んだ人には少ない」


中央井戸。


毒。


その可能性は高い。


「解毒用の薬草は?」


「毒が分からないと選べない」


《毒物特定に必要な情報が不足しています》


「叡智の書庫でも無理か……」


俺がため息をつく。


その横で。


ユリアは中央井戸の水を入れた瓶を見ていた。


底に。


小さな黒い沈殿。


手を伸ばす。


「触るな」


「分かってる」


「今日何回目?」


「コータローに言われると腹が立つ」


「俺、いつもこんな感じ?」


「もっと」


反省しよう。


ユリアが細い銀針を水へ入れた。


針が黒ずむ。


「金属に反応してる」


「毒の種類は?」


「分からない」


少し考える。


「赤粘土」


「土?」


「この辺では、毒を飲んで腹を壊した人に使うことがある」


「吸着?」


「きゅうちゃく?」


「毒を土にくっつける」


「ああ」


《仮説として成立》


《全ての毒物への有効性は保証されません》


その通りだ。


患者へいきなり使うわけにはいかない。


「試す」


ユリアが言った。


「誰に?」


「水に」


器を三つ用意する。


一つは汚染水だけ。


一つは赤粘土。


最後の一つには。


砕いた白樹炭。


混ぜる。


濾す。


銀針を入れる。


何もしなかった水は黒い。


赤粘土は、少し反応が弱い。


そして。


白樹炭。


さらに弱い。


「白樹炭が一番反応を減らしてる」


「昔から使ってる」


「薬として?」


「腐った物を食べた人に、少し飲ませる」


その瞬間。


《既存データに存在しない治療素材です》


「……え?」


表示を見直す。


《対応物質なし》


そうか。


白樹は。


俺の世界には存在しない。


だから。


AIは知らない。


「叡智の書庫……知らないの?」


ユリアも驚いている。


「ああ」


「でも」


白樹炭を見る。


「薬師ならみんな知ってる」


その一言が。


妙に深く刺さった。


今まで。


俺は、この世界へ知識を持ってくる人間だと思っていた。


農業。


衛生。


教育。


医療。


地球の知識を、この世界へ渡す。


でも。


違う。


この世界にも。


何百年。


何千年。


人が生きてきた。


試して。


失敗して。


誰かが死んで。


誰かが助かって。


そうやって残った知識がある。


「それが大事なんだ」


「何?」


「俺だけじゃ駄目なんだ」


俺は《叡智の書庫》を見る。


「こいつだけでも駄目」


そして。


ユリアを見る。


「この世界の経験が必要なんだ」


ユリアの口元が少し上がった。


「やっと分かった?」


「前から思ってた?」


「ちょっと」


「言ってよ」


「コータロー、最初は何でも叡智の書庫に聞いてたから」


「痛い」


「どこが?」


「心」


「薬いる?」


「それは効かない」


ユリアが笑った。


俺も笑う。


ほんの数秒。


でも。


次の問題は笑えない。


患者へ使うのか。


《安全性未確認》


《推奨不能》


AIは答えない。


データがないからだ。


「どうする?」


俺が聞く。


ユリアは患者たちを見る。


「説明する」


「患者に?」


「うん」


「何を?」


「分かってること」


指を一本。


「分かってないこと」


二本。


「危ない可能性」


三本。


そして。


「本人に決めてもらう」


俺はユリアを見る。


「意識がない人は?」


「家族」


「家族もいなかったら?」


少しだけ沈黙。


そして。


「私が決める」


以前なら。


俺を見ただろう。


《叡智の書庫》へ答えを求めただろう。


でも今は違う。


ユリア自身が。


考えている。


最初に白樹炭を試したのは、三十代の男だった。


嘔吐。


意識低下。


妻が手を握っている。


「効くんですか?」


ユリアは誤魔化さなかった。


「分かりません」


妻の表情が曇る。


「白樹炭は、この街で昔から毒を飲んだ人に使われています。でも」


一度言葉を切る。


「今回の毒に効く保証はありません」


「危険は?」


「意識が悪くなれば、飲ませた物が喉へ入る危険があります」


妻は夫を見た。


長い沈黙。


そして。


「お願いします」


白樹炭を薄く水へ混ぜる。


少量ずつ。


看護班が呼吸と意識を確認する。


十分。


二十分。


「変わらない?」


「悪くなってない」


三十分。


男のまぶたが動いた。


「……水」


妻が息を呑む。


「分かる? 私が分かる?」


男が小さく頷いた。


《意識状態改善》


《白樹炭との因果関係は確定不能》


「確定はできない」


俺が言う。


「でも」


ユリアは木札へ書き込んだ。


「次も記録する」


一人。


二人。


同じ症状。


同じ治療。


同じような変化。


少しずつ。


経験が知識へ変わっていく。


月白草。


光魔法。


白樹炭。


煮沸水。


看護班。


記録。


どれ一つ。


奇跡じゃない。


でも。


組み合わせれば。


助かる人が増える。


これは。


地球の医学じゃない。


昔からの異世界医療だけでもない。


二つが混ざり合って。


新しいものになろうとしている。


「ユリア」


「なに?」


「記録しよう」


「してる」


「もっとちゃんと」


積み上がった木札を見る。


「本にする」


「本?」


「次に同じことが起きた時」


患者たちを見る。


「誰かが最初から全部やり直さなくていいように」


ユリアは少し考えた。


「失敗したことも?」


「もちろん」


「助けられなかった人も?」


「書く」


「名前は?」


「本人や家族が望まなければ書かない」


でも。


何が起きたか。


何をしたか。


どうなったか。


それは残す。


ユリアが木札を持った。


「じゃあ、私が書く」


「字、大丈夫?」


「王都で練習した」


「ちょっと斜めじゃない?」


「コータローより読める」


「異世界文字だけな!」


ユリアが得意そうに笑った。


「この世界の治療法だから」


白樹炭を見る。


「この世界の文字で残す」


その瞬間。


俺は気づいた。


俺が。


この世界へ医学を教える物語は。


もう。


終わり始めている。


これから医学を作るのは。


俺でも。


《叡智の書庫》でもない。


ユリアだ。


そのことが。


なぜか。


たまらなく嬉しかった。


黒い瓶

「光太郎」


セリアの低い声。


嫌な予感しかしない。


彼女の手に。


小さな黒い瓶があった。


「昨日、薬師の一人が隠していた物です」


「本人は?」


「拘束しました」


「中身は?」


「未確認です」


ユリアが手を伸ばす。


俺は止めた。


「素手禁止」


「分かってる」


「本当に?」


「今日何回目?」


「安全確認は大事です」


「コータローが言うと説得力ない」


……否定できない。


布越しに瓶を開ける。


黒い液体。


《中央井戸採取物との照合》


《類似成分を検出》


俺。


ユリア。


セリア。


三人とも黙った。


「井戸に入っていたものだ」


拘束された男の名前はレイル。


三十代。


この街の薬師だった。


「瓶をどこで手に入れた」


レイルは黙る。


セリアの声が冷える。


「黙っていれば、井戸へ毒を入れた犯人として扱います」


「俺じゃない!」


「なら話せ」


レイルの視線がユリアへ向く。


怯えていた。


「話したら……家族が殺される」


「誰に?」


「知らない」


「知らない?」


「顔を隠していた」


三日前。


娘が消えた。


家に残されていた。


黒い瓶。


そして手紙。


神殿地下へ運べ。


従えば娘を返す。


誰かに話せば殺す。


「井戸に入れた?」


「違う!」


レイルが身を乗り出した。


「地下へ運んだだけだ!」


「なのに瓶は空だ」


「途中で少し移した!」


「なぜ?」


「何を運ばされてるか、確かめたかった!」


ユリアが黒い小瓶を見る。


「これ?」


レイルが頷く。


「地下に誰がいた?」


「誰も」


「じゃあ、どこへ?」


「祭壇の下の穴」


その瞬間。


俺の視界に警告が走った。


《送信元》


《白樹神殿地下》


さらに。


《終焉演算機構との接続を確認》


心臓が嫌な音を立てる。


ゼノス。


あいつのAI。


この街で起きていることは。


帝国軍だけじゃない。


「入口を教えて」


レイルは首を振った。


「駄目だ」


「娘がいるから?」


「ああ!」


「このままでも助からない」


言った瞬間。


レイルの顔が歪んだ。


「お前に何が分かる!」


「分からない」


俺はすぐ答えた。


「だから、助けるなんて簡単には言えない」


レイルを見る。


「でも、何もしなければ」


一拍。


「相手の思い通りになる」


レイルが拳を握る。


ユリアが彼の前へしゃがんだ。


「娘さんの名前は?」


「……リナ」


「何歳?」


「九歳」


ユリアの目が少し大きくなった。


「薬草倉庫へよく来る子?」


レイルが顔を上げる。


「知ってるのか?」


「髪が長くて」


一拍。


「計算が得意」


レイルの目から涙が落ちた。


「助けたい」


ユリアは言った。


「でも、私たちだけじゃ入口が分からない」


「俺を信じるのか?」


ユリアは首を振った。


「まだ」


「……何?」


「信じるかどうかは」


まっすぐ彼を見る。


「話を聞いてから決める」


俺は少し笑った。


それでいい。


信じる。


疑う。


その二つだけじゃない。


情報を集めて。


考えて。


それから決める。


長い沈黙。


そして。


レイルが口を開いた。


「祭壇の裏だ」


その瞬間。


ドンッ!


爆発音。


白樹の枝が大きく揺れた。


悲鳴。


騎士が飛び込んでくる。


「北門!」


「帝国軍の先遣隊が攻撃を開始!」


「早すぎる!」


《予測より早く到達》


《市内協力者が北門防御機構を停止させた可能性》


セリアが剣を抜いた。


「私は北門へ」


「俺たちは地下へ」


セリアが俺を睨む。


「危険です」


「井戸を止めないと」


俺は答えた。


「門を守っても、街が内側から死ぬ」


一秒。


「騎士二人を付けます」


「患者側も人手がいる」


「一人」


「セリア」


「一人です」


怖い目。


「それ以下は認めません」


「はい」


完全敗北。


セリアは走り出した。


途中で振り返る。


「光太郎!」


「何!」


「死なないでください!」


「努力する!」


「約束してください!」


俺はユリアを見る。


そして。


「患者に『必ず』って言うなって教わった!」


「あなたは患者ではありません!」


「狭いところで邪魔になる人?」


「今は!」


セリアが本気で怒鳴った。


「勝手に危険へ突っ込む人です!」


……何も言えない。


隣を見る。


ユリアが肩を震わせている。


「笑うな」


「笑ってない」


「笑ってる」


「ちょっと」


こんな時なのに。


一秒だけ。


怖さが遠くなった。


助けた患者が、敵だった

神殿へ向かう前。


俺たちはもう一度、野戦病院へ戻った。


広場は少しだけ落ち着いている。


「赤区画二十三番、意識戻りました!」


「黄色区画、水不足!」


「白樹炭を使った三人、嘔吐が減っています!」


看護班が。


俺たちがいなくても動いている。


仕組みが。


自分の足で歩き始めていた。


ユリアは青い区画へ向かう。


ミレナの横には。


黒い斑点の少女の母親がいた。


「呼吸、変わってません」


「水は?」


「二口です」


白い石。


二つ。


「吐いてません」


ユリアがミレナの手を握った。


温かい。


「先生」


まぶたが。


ほんの少し動く。


「……ユリア」


ユリアの目が一瞬で潤んだ。


「神殿の地下へ行ってくる」


「そうかい」


「すぐ戻る」


ミレナが、かすかな声で言った。


「患者に……必ずとは」


ユリアは泣きそうな顔で笑った。


「言ってないよ」


そして。


少し考える。


「戻れるように頑張る」


ミレナの口元が、ほんの少し上がった。


「合格だよ」


ユリアは何も言えなかった。


俺も。


少し離れて待った。


こういう時。


何か言うより。


黙っている方がいい。


やがて。


ユリアが立ち上がる。


俺を見る。


「行こう」


「うん」


その時。


「待ってください!」


看護班の若い女性が走ってきた。


「患者が一人いません!」


「誰?」


差し出された木札。


北方砦から逃げてきた兵士。


名前。


「ガルド」


俺の中で。


何かが止まった。


二日前に街へ来た。


今朝。


高熱。


黒い斑点。


中央井戸の水を飲んだと申告。


患者として。


野戦病院へ入った。


「いつ消えた?」


「少し前です」


「歩ける状態だった?」


「はい。でも、さっきまで寝ていて……」


「《叡智の書庫》」


《患者記録を再確認》


青い文字。


そして。


赤。


《ガルドの症状経過に不自然な点を検出》


「どこ?」


《発熱上昇速度が他患者と不一致》


さらに。


《黒色斑点》


《位置が時間経過で変化していません》


ユリアが木札を見る。


そして。


小さく呟いた。


「……描いた?」


俺も同じ結論へたどり着いた。


「病気のふりだ」


「野戦病院へ入るため?」


俺たちは広場を見る。


薬草。


患者記録。


水。


看護班。


指揮系統。


ここへ入れば。


全部見える。


そして。


もっと悪い可能性。


「地下へ行く話……」


ユリアが俺を見る。


「聞かれた?」


その瞬間。


視界が真っ赤に染まった。


《警告》


《白樹神殿地下から通信量急増》


《終焉演算機構との接続》


そして。


《地下施設》


《自己破壊手順開始》


「……は?」


数字が浮かぶ。


《推定完了まで》


《十九分》


十九分。


地下の証拠。


毒物。


通信設備。


そして。


レイルの娘。


リナ。


全部消える。


「走るぞ!」


俺たちは神殿へ駆け出した。


第二段階

同じ頃。


白樹神殿。


鐘楼。


一人の男が、患者用の外套を脱いだ。


ガルド。


高熱も。


衰弱も。


その身体には残っていない。


背筋はまっすぐ。


足取りは。


兵士そのもの。


その手にあるのは。


黒い板。


文字が浮かぶ。


《潜入任務》


《第一段階完了》


《野戦病院指揮系統を記録》


《医療資源配置を記録》


《知識魔法使い》


《神殿地下へ移動》


ガルドは広場を見下ろした。


自分へ水を運んだ者。


身体を拭いた看護班。


そして。


何度も自分の額へ触れた。


銀髪の薬師。


「治してくれて感謝するよ」


その声には。


温度がなかった。


黒い板へ指を触れる。


《第二段階を開始》


その瞬間。


野戦病院。


ぽこ。


水桶の底から、小さな泡が浮いた。


一つ。


二つ。


三つ。


「……何?」


看護班の女性が覗き込む。


次の瞬間。


黒い煙が噴き上がった。


「水から離れて!」


「触るな!」


「ユリアを呼べ!」


「光太郎は!?」


患者たちは逃げられない。


黒い煙が。


白樹の枝の下を這っていく。


鐘楼。


黒い板に文字が浮かぶ。


《第二段階》


《正常作動》


そして。


新たな表示。


《知識魔法使いの行動予測を開始》


ガルドの眉が動いた。


「行動予測?」


《対象》


《神谷光太郎》


《予測》


一瞬。


表示が止まる。


ガルドの表情が。


初めて変わった。


《警告》


《対象 K-07》


《標準行動モデルから逸脱》


さらに。


《終焉演算機構》


《再計算開始》


ガルドは、ゆっくりと神殿地下へ目を向けた。


「……何者なんだ、お前は」


その頃。


俺はまだ知らなかった。


俺を見ているAIが。


《叡智の書庫》だけではないことを。


もう一つのAIが。


俺の行動を読み。


俺の選択を計算していることを。


そして。


そのAIが俺を。


神谷光太郎ではなく。


《対象 K-07》


と呼んでいることを。


この戦争は。


王国と帝国だけの戦争じゃない。


人間同士だけの戦争でもない。


俺たちはもう。


もっと大きな何かの中へ。


足を踏み入れていた。


第3話 完

次回 第4話

「都市を燃やさず、橋を燃やす」

帝国軍六万人。


都市を守るために、都市を焼く。


それが最も合理的な答えだとしても。


光太郎は、その答えを選ばない。


ならば。


人を焼かずに、何を燃やせばいい?


そして敵は。


すでに光太郎が選ぶ「次の答え」まで読み始めていた。

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