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第68話 「制裁の拒絶」

 多分、夢を見ているのだと思う。

 周囲は暗く、漆黒の闇が世界を覆っている。

 闇以外には何もない。この空間には、僕という存在がいるだけで、本当に何もない。


「……怖いよ」


 体の震えが止まらない。

 別に寒いわけではない。ただ単に、恐怖が胸から消えてくれない。

 それどころか、胸の内の恐怖は時を重ねるごとに増幅していき、僕を蝕んでいく。


「怖い……辛いよ……誰か……」


 それは、誰かに対して放つ言葉だった。

 僕は人が怖い。

 それがどれだけいい人に見えても、実際にやさしい人だとしても。

 その人の本質なんてわからない。

 全人類は僕を傷つける可能性が存在する。

 考えうる苦痛を想像するだけで、どのような人であっても、僕にとって苦痛になりえると思ってしまうから。

 僕は人が怖い。


 なのに、僕は願っている。


「助けて!」


 誰に届くでもない叫びが、暗闇の中へと消えていく。


     *


「ユイ、起きて」


 声が聞こえる。

 とてもやさしい声だった。

 かつての世界ではついぞ与えられることのなかった、僕を心配する声。

 ゆっくりと瞼を上げ、意識を覚醒させる。


「お嬢……様……」


 うすぼんやりとした意識のまま、お嬢様を確認する。

 お嬢様の心配そうな顔が瞳に移る。

 僕の手を握ってくれていて、その温もりに安心感を抱いていることに気づいた。

 そして、意識がはっきりすればするほど、徐々に増幅していく感情。


 ……ごめんなさい。

 僕はあなたが、怖いです。


「大丈夫なの?」


「はい……大丈夫です」


 心配そうに僕の顔を覗き込むお嬢様に、目を合わせないように額のあたりを見ながら答える。

 我慢して手の震えを抑え込み、ベッドから上体を起き上がらせ、握られている手をさりげなく手放す。

 僕の手はひんやりとした汗が滲んでおり、僕の感情を気取られたかもしれない。

 お嬢様に対して、恐怖を抱いていると。


「ねえユイ、起きてすぐで悪いけど、ちょっと時間をもらってもいい?」


「時間ですか? 別に、構いませんけど」


 本当なら一人になって落ち着く時間が欲しい。

 けど誰にも嫌われたくないという思いから、僕は無理をして承諾する。


「ありがと。アニス、入ってきていいわよ」


 お嬢様は入り口の扉に向かって声をかけた。

 その声に反応して、扉が音を立ててゆっくりと開いていく。

 そこには、名前を呼ばれたアニスさんは当然として、それ以外の人が、6人いた。

 1人は、


「ユイ様。お加減は大丈夫ですの? 何かしてほしいことがあれば、このライムに遠慮なく言ってくださいませ」


 ライムさんが僕のもとへと駆けより、僕の頬に手を当ててそう言った。

 ……ああ、この人はこんなに僕のことを心配してくれているのに、怖くてたまらない。

 距離が近づくだけで、触れ合うだけで、息がかかるだけで、拒絶したくなってしまう。


 けど、ライムさんへの恐怖以上に、扉の前で待機している5人の女性に、尋常ではない恐怖を感じた。

 僕をいじめた、僕の心をへし折った、理不尽な暴力を浴びせた、5人の女性たち。

 見ているだけで、胸が苦しくなってくる。


「あ……はっ……!」


 うまく息が出来ないでいる僕の背中を、お嬢様がさすってくれている。

 そしてお嬢様は、僕に向けてではないが、しっかりと感じられるほどの殺意を、5人に向けだした。


「あんたら、覚悟はできているんでしょうね?」


「「「ひっ……!」」」


 お嬢様の声を聞いて震える5人。

 見れば、全員の顔に殴られた跡が見える。ここに連れられるまでの間に何があったのか、想像に難くない。


「ねえユイ、あなたをいじめたあいつら、どうしてほしい?」


「え?」


 急に問いかけられて、僕は頭の中が空っぽになった。

 しかし空になった頭は、すぐに答えを導き出してくれる。

 どうしてほしい?

 そんなの決まり切っている。

 頭に浮かんだ文章を、僕は嘘偽りなく口にする。


「もう……関わりたくないです」


 あの人たちは、僕をいじめる人間だ。

 お嬢様やライムさんたちは、まだ僕をいじめていない。怖いけど、まだいじめる可能性がある人間という認識だ。

 けどあの人たちは、僕を確実にいじめる。

 自らが楽しむためだけに、僕をおもちゃにすることがわかりきっている。

 だから僕は、もう関わりたくない。


「関わりたくない……か。だってさ、どうするの?」


 僕の言葉を聞いたお嬢様が5人に問いかける。

 すると、僕をいじめる人たちのリーダー格と思しき、ジーナさん……だったかな?

 彼女が慌てふためいた様子で僕に近づいてきた。


「ご、ごめんなさいユミさん! 私、あなたに対してひどいことをしてしまって……本当に反省しています! だからどうか、私に対してあなたから罰を与えてください! 罪を償わせてください!」


 ジーナさんは額を地面にこすり合わせ、必死の懇願をしてきた。

 心をへし折った人が血相を変えて謝罪する姿は非常に痛々しかったし、気持ちよさなんて欠片もない。

 僕の望むことは先ほども言ったようにただ一つ、


「もう……いいです。罰なんて与えないですから、もう、帰っていいです」


 やり返そうなんて微塵も思っていない。

 僕はただ、僕自身を傷つけないでくれるのなら、それだけで満足だ。

 僕をいじめる人たち、そんな人たちには二度と関わりを持たない。

 それが僕の望みだった。


「そ、そんなことを言わないで! 私は本当にひどいことをしたと思っているの! 嫉妬なんて醜い感情であなたに危害を加えてしまったことを後悔しているの! だから私に、償うチャンスをください! お願いします!」


 ……ジーナさんの態度が、少し異常だ。

 僕は帰っていいと言っているのだ。何の罰も与えず、無傷で帰っていいと。

 僕の経験上、いじめをする人は反省なんかしない。仮にしたとしても、自分から罰を求めるほどできた人間なら、はじめからいじめなんかしない。

 普通なら、たとえ反省してもちょっと悪いことしたかな、ぐらいにしか思わない。

 なのに、ジーナさんはこんなにも必死に罰を求めてくる。

 それが僕にとっては、苦しくてたまらない。


「罰なんて与えたくないです。だから、帰ってください」


 かたくなに罰を与えないと言い続ける。

 与えないんじゃない、与えたくないんだ。

 そんなことをしても、何の意味もない。


「どうか、どうか……!」


 僕が拒絶してもなお必死に頭をこすりつけるジーナさん。

 それに倣うように、他の4人の学生たちも一斉に土下座をしだした。

 目の前で5人の女性が土下座しても、僕は困惑するだけだ。

 困っておろおろとする僕に、アニスさんが問いかけてくる。


「ユイ……いえ、ユミさん、こいつらが憎くないんですか?」


「……憎い?」


 頭の中になかった単語だ。

 そういえば僕は、いじめに対して恐怖を抱き、理不尽に嘆きもした。

 だけど、いじめた人間に対して、憎いと思ったことがあるか?

 答えは否だ。

 僕は人を憎いと思ったことはない。


「ユミさんがこのクズどもに制裁を加えるのは至極当然の流れです。報復だって恐れなくていいんですよ? 私たちが守りますので」


 違う、そうじゃない。

 報復を恐れているんじゃない。確かに傷つけられることは怖いと思っている。

 けど、やり返そうと思わない理由は、それじゃないんだ。


「制裁なんて、したくないです」


「どうしてですか?」


 アニスさんは穏やかな口調で問いかける。

 僕に恐れを抱かせないため、冷静でいられるようにするためだろう。

 それがわかるから、僕はいまだ恐怖を抱いている人に対してでも、本音を伝えることができた。


「だって、殴られたら痛いんですよ?」


 それが、僕のやり返さない理由だった。

 殴られたら痛い。普通なら傷つくことが怖くない人間なんていない。

 僕は痛みを知っている。恐怖を知っている。

 痛みを誰かに味わわせたいなんて、微塵も思わない。

 あんなこと、まともな人間のすることじゃない。


「そう……ですか。優しいですね、あなたは」


 アニスさんは納得したような顔を見せた。

 お嬢様もライムさんも僕の答えを聞いて、2人が頷きあった。

 その行為の意味するものを僕は知らないが、ジーナさんを含む5人の女性は、見る見るうちに顔が青くなっていった。


「決まりね。ユイ、悪かったわね、時間をとらせて。今日はもう休んでていいから」


 お嬢様は半ば無理やり僕を寝かせ、毛布を掛けてくれた。


「あんたたちも、もう帰っていいわよ。二度とうちの子に近づくんじゃないわよ」


「は、はい……わかり、ました」


 力なく返事をするジーナさんたち。

 彼女たちを立ち上がらせ、お嬢様たちは部屋から出て行った。

 僕は先ほどまでずっと寝ていたにもかかわらず、緊張の糸が途切れたからなのか、気絶するように意識を失った。

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