異客
1965年7月
袖を通しながら、早瀬は一度だけ手を止めた。古い生地の匂いがした。誰かがかつてこれを着ていた、という感触だけがある。その人間がどんな目でどんな場所に立っていたのか、早瀬は知らない。知らないまま、同じものを着ている。
早瀬は姿見に全体を写し、肩についた埃を取り除いて、自分にうなずいて部屋を後にした。
早瀬俊介、三十五歳。防衛大学校を卒業した年、新潟の災害派遣で名を上げた。翌年、檜町へ転属。日米図上演習で米軍指揮官の意表を突いた、とだけ記録にある。その翌年、総理府直轄の特殊部隊への配属辞令が届いた。理由は記されていなかった。
総理府についた早瀬は、ロビーで待っていた黒木と落ち合った。
「早瀬一等陸尉、お待ちしておりました。」
黒木は直立し、素早く敬礼を行う。
早瀬は、手を軽く振り、楽な姿勢をするよう促した。
「定刻になります。参りましょう」
そのまま作戦司令の執務室に向かう。
二人は直立不動の姿勢をとった。
重厚なマホガニーのデスクに座っていたのは、この特殊任務の全権を握る男だ。男は無言で、早瀬の身を包む「白」を鋭い眼光でなめた。
「……似合っているな、早瀬」
男の声が低く響く。
「その礼服は、かつて誇り高き先人たちが、国の命運を背負う際のみに着用したものだ。今の貴様には、それだけの重みがある。自覚しろ」
「はっ、身に余る光栄です」
早瀬の声はわずかに震えていた。緊張ではない。
司令はデスクの上の封筒を指先で押し出した。
「早瀬一等陸尉。これが君の初任務、『作戦命令書』だ」
「……はっ。謹んで受領いたします」
「楽にしろ。今回は民間人の保護のため、広島に飛んでもらう。
例の私兵集団、通称「魔女狩り」が広島に入ったという情報がある。
我が国は法治国家だ。民間人が、民間人を殺していい法はない。
たとえ魔女と噂されていてもだ 」
「魔女だった場合、どう対応するのでしょうか」
早瀬の後方に控えていた黒木が遠慮がちに問う。
「魔女であったとしてもだ。私的なリンチは認めない。何よりも法が優先される。
我が国には、元より魔女を公的に殺害を認める法はまだない」
「他に、質問はあるか」
司令の問いに、早瀬は短く答えた。
「ありません。これより作戦行動に移行します」
「よろしい。失敗は許されんぞ」
「……承知しております」
早瀬は一礼し、音もなく背を向けた。黒木もそれに続く。
背後で、司令が書類に目を戻す微かな紙の音が聞こえた。
*
この町には、山から市内や瀬戸内を一望できるロープウェイがある。そのロープウェイ乗り場から、道を北に少し進んだ所に大きな駐車場があった。
桜が咲くころには多くの見物客が花見をしようとここに集まり、麓は大混乱に陥る。
そこで、この駐車場に無断で車を止める観光客が後を絶たない。
その都度、常駐の管理者がそういった客を見つけては、理由を説明して退場を促していた。
低いエンジン音を響かせて、2台の深緑色の車が駐車場に入ってきた。停車と同時にあたりに砂埃がまう。
管理者がまたかといった表情を浮かべて前のジープに近づいて行く。
二、三言のやりとりの後、管理者は血相を変えて事務所に戻り、受話器を取った。
後方のトラックから降りてきたのは、カーキ色の服で統一された10人の隊員たちだ。彼らはすぐに隊列を組んで静止した。そこに、ジープから降りてきた二人が、隊の前に立った。二人のうちひとりは隊と同じカーキ色の軍服でもうひとりは白い正装用の軍服に身を包んでいた。
二人は何か耳元で話をして、カーキ色の男が、隊に向かって話をすると、隊列を組んだ10名は再びトラックの荷台に乗り込んでいった。
二人は、駐車場から繋がる小道を進み始めた。
小道はすぐに古い石畳が残る自然豊かな険しい斜面に変わった。大人二人が横に並ぶとギリギリの小さな小道だ。道の両脇にヤブランが茂り、石畳だけが場違いなほどしっかりしている。
早瀬俊介は坂道の途中で足を止め、一度だけ頭上を仰いだ。
樹々の深い緑を割って姿を現したのは、三階建ての洋館だ。重厚な石積みの外壁に、年月の重みを象徴するような鉄柵。その奥へと続く石畳は、現世から切り離された異界への入り口のようでもあった。
「……これか」
「地図の通りですね」
傍らに立つ黒木の返答には、余計な感情が混じっていない。
「相応の家格だ」
「ええ」
鉄柵の前で身分を明かすと、ほどなくしてタキシード姿の初老の男が姿を見せた。家令の斎藤と名乗るその男は、音もなく重い扉を引き開け、二人を中へと促した。
総理府特殊部隊——その実態は機密の深層にある。早瀬はあらかじめ用意していた表向きの肩書きを告げた。
「陸上自衛隊 陸上幕僚監部 第二部付、特別連絡班の早瀬俊介です。本日はご挨拶かたがた、ご協力いただきたい件についてご説明に参りました」
「黒木賢治です」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
案内された玄関ホールは、見上げるような吹き抜けになっていた。外のうだるような暑さが嘘のように、そこには静謐な涼しさが満ちている。
「少々お待ちください。お嬢様を呼んで参ります」
斎藤が階段を上っていく足音さえ、厚い絨毯に吸い込まれて消えた。残された二人は、その圧倒的な沈黙の中に立ち、互いに口を開かなかった。
「お待たせいたしました」
不意に、頭上から声が降ってきた。
見上げれば、二階の踊り場に一人の女が立っていた。三十代半ばだろうか。薄緑色の小紋に白い帯を締め、髪を緩く結い上げている。その佇まいは周囲の静寂に馴染み、最初からそこにあったもののようだった。
「西ヶ花真奈でございます」
階段を下り、静かに頭を下げる彼女に、早瀬は改めて名乗った。
「早瀬俊介一等陸尉です。こちらは黒木三等陸尉」
真奈は早瀬の白い礼服を一瞥したが、それ以上に視線を動かすことはなかった。
応接間に通されると、微かなコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。メイドが手際よくティーワゴンを押してきて、革張りのソファに腰を落ち着けた早瀬たちの前に、黒い液体が差し出された。
真奈が向かいの席に座り、静かに口を開いた。
「本邸からお話は伺っておりますが……陸上幕僚監部からお越しとは、穏やかではないですね」
探るような響きはなかった。ただ、言葉の選び方に隙がない。
「ご不安をおかけするつもりはありません。皆様のご安全を確認するためにお伺いしました」
「私どもの、安全を……」
真奈は繰り返した。否定でも肯定でもなく、その言葉の重さを静かに量るような間があった。
「あの、妹も、同席させた方がよろしいでしょうか」
「……ええ、できれば」
真奈が廊下へ出ると、部屋には再び沈黙が訪れた。黒木は壁の絵画に視線を向け、早瀬は冷め始めたコーヒーを一口啜った。
廊下から、微かな声が聞こえた。
やがて扉が開き、風が変わった。
「失礼します」
真奈の後方から声がする。早瀬は声に反応したように、急に立ち上がった。テーブルのコーヒーカップが抗議の声をもらす。
「妹の美代子です」
紺色のスカートに白いブラウス。真奈よりいくらか年下に見えた。早瀬は、椅子に座り直し、喉をならして、書類に目を落とした。
美代子は対面の椅子に座ると、早瀬の方をまっすぐに見た。品定めをしているわけではなかった。ただ、静かに、見ていた。
早瀬は一つ咳払いし、話し始めた。
「はい。詳しくはこれからご説明いたします」
真奈は一度だけ目を伏せ、「承ります」と短く応じた。
早瀬は要点だけを淡々と伝えた。民間人を私的暴力から守るための組織であること。今回の駐留の目的。そして、館内に入るのは自分たち二人のみであること。
「ある組織が広島に潜伏したという情報があります。標的は不明ですが、念のためご承知おきください」
「どうして、警護の対象が私達なのでしょうか」
早瀬は少し戸惑った表情を見せたが、言葉を選びながら、誤魔化さずに話した。
「組織と言うのが、現在警察、自衛隊など総動員で追いかけている武装組織で、通称「魔女狩り」と言われています。彼らの行いは、突出した才能を持つ女性を『魔女』などと決めつけ、殺害、テロ行為に及んでいます」
「魔女、ですか」
真奈はその言葉を、不慣れな異国の単語をなぞるように繰り返した。
早瀬は説明を続ける。
「広島に入ったとの情報を受け、県内全域で我々の部隊が展開中です。
福山、呉、広島市……。各地点で、真奈さんや美代子さんのように、その存在自体がこの国の新しい可能性である方々を、同時並行で警護しております」
「……わかりました。ですが、わたくしたちには不要です」
早瀬の表情が固くなり、二の句が継げずにいると、黒木が慌てた表情で話を続ける。
「もう少し、ご説明させてください」
「説明もなにも、そのような者に命を狙われる覚えはございません」
真奈も美代子も当惑の表情を隠せない。
黒木は、早瀬の顔を一瞥して、さらに熱がこもった説得を試みる。
「お二人の功績は、十二分に復興して間もないこの国に貢献しております。テロの対象であることは間違いございません。我々を助けると思って警護をお受けください」
真奈と美代子はお互い向き合い、眉を下げて困った表情を浮かべた。
美代子が口を開く。
「わかりました。警護を受け入れます。断っても、あなた様方が困ってしまいますものね 」
説得が実を結び、 黒木は背もたれに体重を乗せた。背もたれのクッションが小さく悲鳴をあげる。
「……ご不便をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
早瀬が発した言葉は、用意していたはずなのに、ひどく月並みな響きを伴っていた。
「はい。こちらこそ」
短い返事だったが、美代子の声には妙な残響があった。
段取りの説明に移っても、視野の端で美代子がカップを口へ運ぶ所作が目に入るたびに、書類の文字が頭に入らなかった。早瀬は書類に落としていたはずの目が、幾度となく美代子の手元へ流れていくのを止められなかった。
一通りの説明を終え、早瀬は書類を鞄に収めた。
立ち上がった拍子に、テーブルの端に置いていたカップに袖が触れた。
乾いた硬質な音がして、早瀬は反射的に目を閉じた。しかし、カップは割れる音を響かせることなく石の床の上で、ただ無防備に横倒しになっている。欠けてもいない。割れてもいない。
拾い上げ、テーブルに戻す。
「……失礼しました」
真奈が「いいえ」と言った。美代子は何も言わなかったが、口の端がほんのわずかに動いたような気がした。
玄関先で早瀬たちが靴を履いていると、見事な仕立ての背広を纏った初老の男が現れた。男は彼らに気づくと、帽子を脱いで丁寧に会釈する。薄くなった頭髪が、重ねてきた年月を物語っていた。
早瀬たちが会釈を返すと、執事の斎藤が歩み寄った。
「田中様、お暑い中ご苦労様です」
田中と呼ばれた男は、斎藤に低く尋ねる。
「お嬢様方は、どちらに?」
「応接間におられます」
「そうですか」
田中はもう一度早瀬たちに会釈を送り、建物の奥へと消えていった。その背中を見送った早瀬たちは、斎藤に軽く挨拶を済ませ、重厚な館を後にした。
早瀬と黒木が去った後の応接間。真奈と美代子の間には、言いようのない困惑が漂っていた。
真奈は、先ほど渡された名刺の角をテーブルに当て、指先で器用にくるくると回す。
「早瀬、と言ったわね。確か昔、呉の海軍兵学校の校長に、そんな名前の方がいらしたわ」
「お姉様、ずいぶん昔のお話ですこと。関わりがあるのかしら」
美代子の問いに重なるように、ドアを叩く音がした。「失礼します」という声と共に、田中が入室してくる。
真奈は回していた名刺をテーブルに置いた。
「そうか、今日はあの日でしたね」
田中は深く一礼し、いつもの定位置に音もなく立った。指示があるまで動かないその様は、もはや自然な癖のようでもあった。
「田中さん、こちらへ」
促されるまま、田中はソファに腰を下ろした。
運ばれてきたコーヒーを手に取ると、彼は玄関で見かけた軍服の男について口を開いた。
「お客様がお見えだったのですね。珍しいこともあるものだ」
「陸自の方よ。早瀬さんとおっしゃるの」
真奈が名刺を差し出すと、田中はそれを手にとって目を細めた。
「陸上幕僚監部……。これは、また随分と」
真奈はコーヒーを一口含み、視線を落とした。
「さっきまで美代子と話していたの。昔、呉にいた早瀬という方のことを」
「恐縮です、私の不勉強で存じ上げませんが……」
田中が手帳を開きかけた時、ふと思い出したように顔を上げた。
「ああ、そういえば、本家の方に呉基地の方がお見えになるそうですよ」
「そうですか」
真奈はそれ以上追及せず、「始めましょうか」とだけ言った。
彼女が美代子の手を取り、静かに目を閉じる。美代子もそれに倣った。
突如、部屋の温度が急降下した。吐き出す息が白く染まる。
ボウ・ウィンドウの外側にはみるみるうちに霜が走り、古びた館が「ミシミシ」と苦しげな鳴き声を上げた。
田中はカップを静かに置き、手帳を大切そうに胸に抱えた。
数秒の後、真奈がゆっくりと目を開ける。
引き潮のように冷気が去り、館の軋みも止んだ。
真奈は傍らのペンを執ると、紙片に日付と4桁の番号、そしていくつかの金額を書き連ねた。
「田中さん。今週は、これでお願いします」
差し出されたメモを、田中は恭しく受け取った。
石畳の坂を下りながら、黒木がぽつりと呟いた。
「あの妹さん……少し、変わっていますね」
「そうか」
「何と言えばいいのか。……すべてを見透かされているような、奇妙な感覚でした」
早瀬は答えなかった。
坂の中ほどまで差し掛かった時、小さく息を吐いた。
「……行くぞ」
「はい」
夏の山道は、帰り道も相変わらず無機質に続いていた。ただ、早瀬の足取りだけは、来た時よりもわずかに重く、湿り気を帯びているようだった。




