第3話 名前
「(さっき、急に警戒心が収まったのはなぜだろうか)」
彼は薄暗い路地を抜け、光で満ちる少し広めの土の道へと歩み出る。
──そこには木材と石でできた、クリーム色の外壁と焦げ茶色の屋根をもつ大きな家々がびっしりと立ち並んでいた。
「(……いや、逆だ。おかしいのは恐らく今、この状態だ。殺されたとは言え、警戒心…というより思考力の高まりが急すぎる)」
正面は家屋で埋め尽くされ、左右に3m程の広めの土の道がカーブを描きながら形成されている。彼が元々いた暗い路地の両壁側にも同じように家屋が連なっているのだろう。
「(さっきの巻き戻しの影響か…?少なくとも、好都合だ。何も知らない場所と人々、今の自分でいる方が100倍ましだ)」
そんな道を多くの人々が行き交っていた。ぼろ布を纏った先ほどの子たちぐらいの子供や大人、革の鎧のようなものを身に着けた男性に、比較的綺麗なワンピース型の水色の布を纏った女性。みな頭は黒髪や茶髪で足にはサンダルや裸足、ツルツルした革靴など様々なものを履いている。
彼はその光景を瞳に焼きつけながら、右を向いて人々の流れに沿って歩いて行く。
「(なるべく自然体でいるべきだ……怪しまれたら、どうなるのかも分からない。……それにしても、なんて悪臭だ)」
彼は鼻を引くつかせる。視界の端、道の片隅の方には排泄物や吐瀉物が多くぶちまけられていた。現状を冷静に観察できるようになった今、初めてその臭いを実感する。
「お、おいランド!近づかない方がいいって!絶対危険だろ!」
「大丈夫だって、どうせ大したことない魔熱だよ!」
彼の向かい側から2人の少年が走ってくる。ランドと呼ばれた活発そうな子は7歳前後で、下の前歯が抜けており元気一杯な印象を受ける。もう一人の子も同い年ぐらいに見え、ランドの後ろから必死に制止の声を上げている。
「(魔熱……?ランド、か……ステータスには名前の欄があったが、空白だったな)」
子供たちは彼の左側を抜け走り去っていく。その服も裸足も手足も髪も、他の人たちと同じようにどこまでも汚れきっていた。
しばらく警戒して歩きながら考え込んだ後。
「(そうだな……うん、あれがいい。なぜだか、とてもしっくりくる……僕の、名前は…)」
彼は少し歩みを止め、ゆっくりと空を見上げる。透き通る青空と、漂う白い雲の向こう──
「(リターンだ)」
──そこには、どこまでも優しく世界を照らす、1つの太陽があった。
***
カルガラン歴4208年208日
世界を照らしていた青白く眩い光が、一人の少女へと収束する。
少女には、火傷跡のある兎のような片耳に、汚れ切って灰色にくすんだ体毛、根本から引きちぎられた丸い尻尾の名残が存在した。年は6歳程だが、身体はやせ細りそれ以上に小さく、儚く見える。
彼女は膝を内側に寄せて座り込みながらハァッ、ハァッと荒い呼吸をしている。
そこは石で造られた四角い住居のようなものが少し間を開けて立ち並ぶ、大きな都市であった。都市の片隅、人目につかないような暗い路地に彼女───キャロルはいた。
彼女の目の前には25歳前後に見えるヒューマンの男女2人組と、身体のあらゆる箇所が折れ、凹み、腫れ上がっているヒューマンの女性1人の亡骸がある。
2人組はそれぞれ手に持っていた鉄の棒をゆっくりと構えなおしながら、青く発光したキャロルを困惑しながら警戒している。
キャロルはそんな2人組を、ボサボサに荒れた少し長めの髪の間から、深い深い情念と絶望が入り混じる真っ赤な瞳でジッと見つめていた。
──瞬間、2人組の身体が青白く光る。
その光は、先ほど少女に収まったものと同じくらい──とても、とても美しい光であった。
***
カルガラン歴5211年54日
木材と石でできた住居区画に多く点在する大きな広場の1つに、ヒューマンの青年は胡坐で座っていた。
──リターンである。
「(僕は…恐らくなにか、大切な記憶を失っている)」
自身の状態についてしっかりと確かめておきたかった彼は、歩いている中発見した踏み固められた土の広場でチェックすることにした。
「(記憶のヒントは恐らく──ヒーロー、だろう)」
まず自身の服装をじっくりと見る。上半身には少しゴワゴワした布でできた、薄茶色の簡素な衣服。胸元には縦に大きめの切れ込みが入り、黄みがかった薄い橙色の肌が露出。筋肉量はそこまでなくやや平べったい肉体である。衣服は半袖で丈は少し長く、腰に巻いてある革紐のベルトで締められている。
「(……ステータスを見たい)」
下半身には焦げ茶色の薄い革でできた、ややゆったりとしている膝下までのズボンを履いている。トップスに隠れて分かりにくいがなにか別の紐で腰に固定しているようだ。さらにその下に重ねて、タイツのような黒い布で足先まで覆われていた。
「(ッ!……異能……再使用可能まで、あと994日13時間25分?)」
リターンは動揺し、目をピクリと動かす。予想だにしていない情報だったようだ。
「(名前がリターンになっているのはまだ分かる……つまりこの名前の欄は、本人の認識によって変わる、ということだろうか)」
思考を続けながら再び自身の外見を確認していく。
周囲では多くの子供たちや武装をした大人たち、少し小綺麗な格好をした者たちなど様々なヒューマンがいた。彼らはスープや干した野菜のようなものを食べたり、遊んだり、雑談したり、祈ったり……それぞれが伸び伸びと過ごしている。
「(…この塗り潰されて全く見えない部分は、異能の名称か?……リターン…なのだろうか)」
リターンは胡坐の下から左足を少し抜き、自身の履いている靴を見る。一枚の革でできた黒い短靴で紐で縫い合わされていた。触ってみるとサイズは丁度よく、彼に合わせて作られているかのようだ。
「(この異能が、恐らく巻き戻しの力……そして、今の僕の精神に影響を及ぼしているもの……かもしれない)」
続いて彼は腰のベルトに括り付けられている、2つのモノを観察する。何かが詰まった革袋と、ナイフのようなものだ。
「(そして、あの低い声の男……あいつは、僕のことを何か知っていた……どうしようもない、ヒーローであると)」
まずは革袋の方を調べてみる。歩いている途中でも気になっていたが、持ち上げてみると中からずっしりとした重みが感じられる。
彼は何気なく眼をぐるりと回し周囲を確認する。こちらを見ているヒトはいない。そのまま反対側を向いて座りなおし同じように周囲を確認すると、袋の紐を解きチラッと中を上から覗き見た。
「(あの状況をそう表現したのかもしれないが……しかし、子供が大事だとも言っていたはずだ)」
中には10数枚の金色の硬貨と、その半量程の銅色の硬貨が詰まっていた。袋の中で銅色の硬貨を持ち上げて見ると片面には漢字で『百』、裏面には小さな円とそこから出る6本の曲線が描かれている。
「(……しかし、あの男と接触を図ろうとするのは危険すぎる。恐らく巻き戻しの力も、もう使い物にならないだろう)」
そのままスッと金色の硬貨も持つ。裏面の図形は同じだが、もう片面には漢字で『万』と彫られている。それを確認したリターンは自然体かつすばやく袋を締め、ベルトに括りなおした。
「(100円に、10000円……ってことか……?なぜか、分かる…というか、そもそも言語が分かること自体も気にするべきだ)」
最後にナイフを調べる。鞘は焦げ茶色の厚い革でできており、ベルトに革紐で固定されていた。ナイフの柄まで革である。
周囲のほとんどの大人の腰には、ナイフであったり剣であったり何かしらの刃物が備わっている。中には鞘から抜いて手入れをしているヒューマンもいる。
「(元々、僕はこの街で暮らしていたのか……?いや、あの男は、今現れたと言っていた……どういうことだ)」
鞘から抜いて見ても問題はない。そう判断したリターンはスッと刃を出す。
──その片刃は、太陽からの明るい光を受け、キラッと白い輝きを放った。
「(……ヒーローという言葉の意味も分かっていないんだ。記憶を、取り戻す……そのためにも、とりあえず動いてみなければ、見えるものも見えてこないだろう)」
その鉄のナイフの刃渡りは20㎝程度。それにあの男は刃を動かさずに子供たちの首を瞬時に斬る、なにか強大な力を持っていた。あの時事前にナイフに気づけていても、何も変えられなかったと確信できる。
「(それに、今この瞬間にも、何かを忘れていっているような、そんな感覚がある──急がなければ)」
大きく鼻で息を吸い、その後少し開いた口から小さく長く溜息をついたリターンは、ナイフを鞘へとしまいこんだ。




