19 名前
「いつも妻がお世話になっております。夫のラウルスです」
スキヌム診療所の受付の机で朝食を摂っていたネレイにラウルは挨拶した。
ネレイは食べていたサンドイッチを机に落とした。
「えっ……ティーリャ……既婚者……なの……?」
ティーリャとラウルを交互に見ながら尋ねた。
「違う」
「間違いなく夫婦です」
「えっえっどういう事……?」
狼狽するネレイを置いて、ティーリャはキトと猫と共に奥の部屋へ行こうとする。
「ちょ、ちょ、説明して……ティーリャ……」
「滞在申請する時に勝手に夫婦にされた」
「ティーリャさん、他人にその事を言ってはいけません」
「そいつは大丈夫だろ、なあ」
ラウルはネレイを品定めするように眺める。
その視線に怯えつつネレイは答える。
「う、うん、他の人に言ったりしないよ……ところで、ラウルスさんは冒険者?」
「ええ」
「アシオーは冒険者の滞在申請手続きを簡略化してるけど、その分不正が発覚したら罰則は厳しいよ?」
「存じております」
「知ってるのに夫婦って偽ったんだ……」
「現在は共に生活しており、間違いなく夫婦ですので」
ティーリャは溜息を吐いて、今度こそ奥の部屋へ行った。その後ろ姿にラウルは声を掛ける。
「ティーリャさん。私は向かいの喫茶店におりますので用がありましたら、いつでもお呼びください」
診療所でいつもティーリャがだらけている部屋は狭い為、ラウルには入るなと言っていた。
「それでは」
ラウルは軽く会釈して、診療所を出ていった。
ポカンとしていたネレイは机に落ちたサンドイッチを手に取り、再びモシャモシャと食べ始めた。
「ティーリャ……男いたのかあ……」
奥の部屋からティーリャの「違う!」という声が聞こえた。
昼の休憩時間になり、ネレイはティーリャのいる部屋にお茶と菓子を持ってきた。
「これさっきラウルスさんが、差し入れだってさー」
「ふーん」
机にそれらを並べてから椅子に座るネレイ。
「あの人ずっと喫茶店にいるけど、仕事は?」
「しばらく休むって」
「へえー、何かあったの?」
「まあ、ちょっと」
あまり語ろうとしないという事は知られたくないのだろう。だが、ネレイも馬鹿では無いのでティーリャが特級ポーションを作れる事と関係があるのだろうとは容易に気づける。
ティーリャも何となくネレイが察しているだろうとは思う。
「困った事あったら気軽に相談してね。僕に出来る事は少ないかもしれないけど」
「…………ん、ありがとう」
ネレイとは最近出会ったばかりなので、そんな事を言われるとは思わなかった。面倒事を持ち込むなとクビにされる可能性もあり、その覚悟はしていた。だからラウルにも職場には来てほしくなかったのだが。
一切下心を感じない善意は久しぶりでむず痒くなる。強引に話を変える事にした。
「ところで、お前、何で借金あるんだ?」
「この診療所って規模に不釣り合いな医療用魔導機械があるでしょ、祖父が新しい物好きで勝手に新型魔導機械を増やしてさー……」
「それさえ無かったらお前1人で薬屋としてやっていけたのかー」
「そうそう……」
今ある医療用魔導機全部売り払っても購入時の三分の二程の値なので結局借金は残るらしい。それならば売らずに診療所をやっていきながら借金を返したほうが早く完済できるとの事。
「お前も大変だな」
「まあね……」
ティーリャは春にここを去るので、この診療所で長く働いてくれる治癒術師が早く見つかるといいなと思った。
ラウルがティーリャの傍に居るようになってから数日が経過した。神殿の者は来ていない。
仕事が終わり、診療所から出てきたティーリャをラウルが迎えに来た。
「お仕事お疲れ様です。さ、帰りましょうか」
「ん」
ティーリャはキトの上に猫を乗せ、偶には自分の足で歩くことにした。
「神殿の奴等来ないな」
「来ないに越した事はないではありませんか」
「……来ないなら、やっぱお前も普段通りに働いたら?」
「その件については散々話し合ったでしょう。私は貴方の傍から離れませんよ」
ラウルがティーリャの肩を抱こうとするので彼女はその手を叩き落とした。
「喫茶店も1日中入り浸られて迷惑だろ」
ティーリャの仕事が終わるまで、ラウルはずっと向かいの喫茶店で待機している。
「迷惑ではないと思います。店長が話し相手になってくれと言ってお茶を持ってきますから」
「はあー相変わらず良いご身分で」
カムプスの喫茶店と同じく無料で茶が提供されるようになっていた。
「私には妻がいると言っているのですが……しつこく誘ってくるので少々困っています」
店長は柔らかな雰囲気の女性で、これ見よがしに豊かな胸を机に乗せて上目遣いで見詰めてくるが、その目は肉食獣そのもので全くラウルの好みでは無い。
「……その店長にわたしが妻とか説明したのか」
「ええ」
最近、診療所の通りに面する窓辺に居ると何故か不穏な視線を感じたが、店長かもしれないとティーリャは気づいた。
「お前のせいで、そのうちわたしが刺されそうなんだが」
「大丈夫、貴方は私が守ります」
「お前も刺されるかもな」
「素人に刺される程、間抜けではありませんよ」
「あっそ」
会話を打ち切り、キトの背中でうごうごしだした猫を抱っこする。
「こら猫、落ちるぞ。じっとしてろ」
抱っこされると猫は喉を鳴らし始めた。ティーリャは微笑む。
「まだ名を付けてないのですか」
「猫って呼んだら反応するから、もう猫が名前でいいや」
その会話でラウルは思い出した。
「そういえば、私は一度も名を呼ばれた事が無いのですが」
「ふーん」
「名前を呼んで頂きたいです」
真っ直ぐに目を見詰めて言った。
「……」
何も言わずにプイと顔を逸らすティーリャ。
「ティーリャさん」
切なそうな声で呼ぶが反応は無い。
「お前はお前で充分だろ」
「ああ、夫をお前様、なんて呼ぶ事もありますからね」
ラウルは満足そうに頷いた。
「……じゃあこれから変態野郎って呼ぶわ」
「ティーリャさん?」
圧を感じたのでティーリャは再び余所を向く。
「はあ、全く、夫の名前すら呼べないとは。私の妻は照れ屋さんで可愛いですねえ」
「妻じゃない」
そして、次の日に神殿の者が来たのだった。




