2. 不穏な空気
――嫌な予感がする――
職員室で一人の教師が呟いた。
誰にも聞こえないようなとても小さな声で。
体育教師とは思えない自信のない寂しいく小さな細い声で。
聞く人が聞けばかなり心配したであろう声で。
小さく呟いた。
これから何が起こるというのだろうか。
呟いた本人もよくわからない。
空に雲がかかり始めた。
嫌な予感が的中したとでも言うのか、その雲は次第に大きくなっていく。
まるで生きているかのようにうねり、常にその形を変えながら。
ある人は龍のような形だと言った。
ある人はポータルのようだと言った。
一帯が不穏な空気に包まれる。
*
小・中学校から子供達が出てくる。
とにかく急いで帰ろうとする子や、呑気に話している子もいる。
高校から生徒が出てくる。ホームルームが終わったのだ。
帰宅部ガチ勢、通称GHQ(Go Home Quickly)達が走っている。
ちょうど雨が降り始めた。
急に強くなり、風が吹き始める。
人々の呑気な声が搔き消されるほどの雨音が、町を覆う。
台風の情報を確認する、建物の中の人間達。
とにかく鳴きながら、山の方へと逃げ帰っていくカラス達。
*
今日はちゃんと傘を持ってきたから、安心して帰れる。
後ろから名前を呼ばれた気がしたが、幻聴だろう。
「天馬!!」
ああ気のせいじゃなかった。
「どうした蒼馬?」
彼は同じクラスの多川蒼馬。
忘れ物を届けに来てくれたらしい。
「これ忘れ物」
「お前家反対方向だったよな。わざわざありがとう」
「いいよいいよ」
「お前最近忘れ物多いよ。ボーっとしてるなとは思ってたけど、大丈夫か?」
誰が爺だって?お?ボーっとしているのではなく考え事が多すぎてそれどころじゃないんだ。
「大丈夫。気にすんな」
大丈夫ではないが、心配されると困るなぁ。
「お前がそういうなら俺は気にしないけど、、、でも気をつけろよ?」
こいつは心配性すぎるんだよな。
安心してくれ。これでも俺は弓道部だからな。集中力はもつ方だ。
故意じゃない限り、道中で交通事故にあったりしない。はず。
蒼馬と話していると、水たまりの上を走る音が聞こえた。小さい子の足音だ。
当たった。
隣の小学校の二年生だった。
帽子に学年が書いてある。
名前は字が汚くてわからない。
どっかで見たことがある気がするがそういうもんだ。絶対に知らない子だ。
傘を忘れてしまったのだろうか。
雨の中を走って来て、長い髪がびちょびちょだ。
このままでは風邪をひいてしまうぞと言おうと思ったが、それどころじゃないような顔をしているのでまだいいか。おぢさんみたいだし。
気づいたら俺の足に掴まり雨宿りをしている。
「傘、忘れたの?」
少女に聞いてみた。
すごい勢いで首を横に振る。やめろ。水が飛んで制服が濡れる。犬かよ。
「ちがうよ。もってきてない」
「傘貸そうか? なんならあげてもいいんだけど」
いらないし。声には出さんが。
「いらない。りんは家近いから」
りんって名前なのかな。
名前は気にしてなかったんだけど、一人称が名前だと訊かなくていいからわかりやすいね。
「そうか。気を付けてね」
「うん」
俺もこのまま帰るか。
りんがびっしょびしょなのはすごい気がかりだけど、本人がそれでいいって言ったんだ。
俺は悪くないぞ。
「天馬。お前誰と話してんだ?」
蒼馬、お前馬鹿なことを言いやがって。
「ずっとここにおるやんけ。小学生ぐらいの女の子が」
「いやいねえよ。幻覚じゃねえの? お前最近精神病んじゃってるんじゃないかって思ってたけど、なんかあるなら聞いてやるよ」
「そういうんじゃねえって!」
りんが見えないのかこいつには。
俺が幻覚を見ているか、或いは幽霊か。
「そうかそうか。そういうことにしとくよ」
「馬鹿にしてんのか!」
俺が喚いてのた打ち回ろうとした瞬間、高校の屋上が強く光った。
同時に雷鳴が轟く。
「今の雷すっげえでかかったな。普通にびっくりしたんだけど」
「お、おう。でかいな。うん」
蒼馬はまだ雷が苦手です。
ふと上を見上げると、台風の目に入ったかのように雨風が止んだ。
しかし、あたりはまだ薄暗く、七月とは思えないほど寒くなっていた。
りんは多分、滅茶苦茶ビビってるだろうなぁ。
下を見てみるがいない。
俺のズボンは水をかけられたかのように濡れているのに、いや、かけられたはずだ。
さっきまでいたはずの少女の姿は無くなっていた。
周りを見渡してもいない。
どこ行った?
「りん! どこ行った!」
「お前誰探してるんだよ! 雷で目覚めたと思ったのにまたそんなこと言いやがって!」
「蒼馬、お前は何でそんなに取り乱してるんだよ」
「いや、滅茶苦茶冷静です」
嘘つけ。
蒼馬がうるさすぎてりんを探せねえじゃねえか。
また雨が降り始め、風も吹いてきた。
雷が鳴り響く。
また雷が落ちた。
「一旦学校戻ろうぜ? 危ないし。な? 天馬? な? 戻ろうぜ?」
「そうだな。でもりんを探さな――」
「はい、学校に戻りまーす!」
仕方ないか……
「うわ!」
とてつもなく大きい音と共に、雷が近くの杉の木に落ちた。
死ぬかもしれない。そう思った。
小さい頃にはよく、近くの木に雷が落ちたらすぐにしゃがむんだぞとか、おへそを隠さないとおへそを取られるぞだとか、いろんなことを大人達から聞いたが、そんな暇があったら走馬灯を見た方がいいぞ。蒼馬灯。なんちって。
目の前に落ちて反応なんてできやしない。F1レーサーでも厳しいだろ。
死んではいなかった。痛みもない。木を見ても焦げた跡すらない。
周りを見ると、さっきまでと何も変わらない。
いや、空だけが異様だった。
禍々しいオーラを放つ、ポータルのようなものが、こちらに口を開いていた。
龍のようなものが数体、周りを蠢いていて、かなり不気味だ。ほんでちょっとキモい。
光る何かが落ちてくる。一メートルはあるだろう銀色の雫のようなもの。
まるでモン〇ンのムフェト〇ーヴァの必殺技のようだ。などとは思っている暇はない。
しかし、とても美しい。
一応物陰に隠れとかないと即死かもしれない。
モン○ンではそうだった。
ゆっくりと、雫が落ちる。
そして校門のあたりに着弾した。
瞬間、何かにつかまれた気がした。小さい手に思いっきり。
つい数分前まで俺に掴まっていた、りんに似ている。というか本人だ。
俺ここで死ぬのか?
ムフェト〇ーヴァに殺されたと思えば悲しみより嬉しさが勝つ。本望というものだ。
伊達にハンターやってないからね。
ごちゃごちゃ考えているうちに俺は意識を失った。
*
爆発したかのような轟音と共に周辺が真っ白になった。
生物の声も雨風さえも、全てがかき消され、戻ることはなかった。
眩い光が消えた時、そこにはさっきまでの街並みは無かった。
学校の校舎は窓が落ち、柱がひび割れ、苔や蔦が思い思いに生い茂り、そこに佇むだけであった。
道路には車の残骸。
まるで手入れのないまま放置されたかのような風景であった。
雫が落ちた瞬間、人々が倒れた。
魂だけを何者かに抜かれたかのように力なく倒れこんだ。
しかし、一人の男子高校生だけは、その場から忽然と姿を消した。




