第五話:【義務配信】カメラの切り忘れ
「……よし、今日の分の水やりは終わりだな。明日は、トマトの支柱でも立て直すか」
勝手口の先にある家庭菜園の畝を整え終え、川野誠(三十八歳)は古びた鍬を物置へと片付けた。
頭上でホバリングする国給のドローンカメラは、主人の移動に合わせて静かに角度を変える。画面の隅に表示されたリアルタイム視聴者数は『七人』。少しずつだが、おっさんの日常に居着く常連が増えていた。
誠は物置の扉を閉め、ふと自宅の西側、自分が十五年かけて舗装した美しいレンガ通りの先を見つめた。
空間が、まるでガラスがひび割れるかのように、パキパキと不気味な音を立てて歪み始めている。
「……ん? なんだ、また配管の詰まりか?」
誠がボソリと独り言をこぼした次の瞬間、空間の亀裂が激しく弾け飛んだ。
そこから這い出てきたのは、四百層の通常の生態系には存在しない、禍々しい漆黒の魔力を全身から放つ異形の巨獣――ダンジョンの理を無視して突発的に出現する、最悪の天災『深淵の崩壊龍』だった。
もし地上に出現すれば、一つの国家が数日で地図から消滅するとされる、絶望のイレギュラーボスである。
『え、待って待って! 今日のボスキャラ、エフェクトの気合いの入り方が昨日までと段違いなんだけど!』
『空間が割れる演出凄すぎw』
『おじさん、今日も電波悪くなって配信切れる流れ?』
画面の向こうの七人のリスナーたちは、相変わらずのんきにコメントを打っていた。超リアルな自作CG映画の、特別な演出回だと本気で思い込んでいるのだ。
「……チッ、また作業の邪魔を」
誠はわずかに眉をひそめた。
いつもなら、精密機械であるドローンが魔力の余波で壊れて始末書を書かされるのを嫌い、即座に配信端末のスイッチを切る。それが彼のルーティンだった。
だが、今日の誠は重度の機械音痴であり、かつ人付き合いが苦手なコミュ障だ。
ナスの浅漬けの味付け(塩と鷹の爪の割合)に脳の大部分を支配されていた彼は、端末の画面をろくに見ず、指先の感覚だけでスイッチを押してしまった。
――カチッ。
誠が押したのは、配信を終了するボタンではなく、マイクを消音する「音声ミュート」のボタンだった。
プツン、と誠の吐く吐息や衣擦れの音が途絶え、配信画面は完全な『無音』へと切り替わる。だが、映像の配信はオンのまま――決定的なミュートミスだった。
キィィィィン……ッ!!
無音の映像の中で、崩壊龍が、世界そのものを噛み砕くような絶望的な咆哮を上げる。画面から音が消えているにもかかわらず、その圧倒的な威圧感によって、大気が激しく歪んでいく様子が視覚的に伝わってくる。
巨獣が巨大な鋭爪を振り下ろすと、余波だけで誠が舗装した周囲のレンガ通りが粉々に爆裂し、無音のまま瓦礫が宙を舞った。
だが、誠は歩調すら変えず、ただ、一歩前に踏み出した。
大砲の弾のような速度で迫る巨爪を、半身をわずかにずらす最低限の動きだけで、完全に見切って躱す。
そしてすれ違いざま、手首のスナップだけで、右手に持っていた「ただの鉄パイプの端材」を崩壊龍の眉間へとピタッと『置いた』。
ドムッ。
そんな音が聞こえてきそうなほど、おっさんの動きは軽くて静かだった。
次の瞬間、体長数十メートルを超える崩壊龍の巨体が、頭部から内側に向けて、信じられないほどの圧力でペシャンコに陥没した。
世界を滅ぼすはずの災厄が、悲鳴を上げることすら許されず、一撃で、文字通りのワンパンで光の粒子となって爆散していく。戦闘時間は、一秒にも満たなかった。
すべては、不気味なほどの完全な静寂の中で行われた。
『………………………………は?』
『え? 今、何が起きた?』
『おじさん、音が消えてるけど配信切れてない! 切れてないよ!!』
『待って、今の、何……? 鉄パイプで、あのデカい龍が……消えた……?』
『音がないから余計に怖いんだけど。今のガチの映像だろ……レンガの壊れ方がおかしい』
コメント欄の時間が、完全に停止した。
いつもなら暗転して見えないはずの「戦闘シーン」。それがボタンミスにより、極めて鮮明に、画面の向こうへと垂れ流されてしまったのだ。
カメラがまだ回っていることなど露ほども気づかない誠は、鉄パイプの端材をポイと地面に投げ捨てると、再びのんびりとした足取りで裏庭へと歩き去っていった。画面の端では、再びナスを収穫しようと無言で土を覗き込むジャージ姿の背中だけが映し出されている。
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