3章7話 梅雨空と詩音の悩み
朝から少し湿った空気の一日だった。ノートが少しだけ、いつもよりも水分を含んでいる気がする。
6月になって、梅雨入りしたというニュースを聞いたのが今朝のことだった。
雨。傘。紫陽花。
『紫の紫陽花って結構好きなんだよねぇ、詩音はどう思う?』
『うーん、僕も好き、青とか紫とか綺麗』
『うんうん、だよねだよね! ということで今日はお好み焼きに決定!』
『おかあさん? なんで紫陽花が綺麗だとお好み焼きなの?』
『え? だって紫陽花見てたら、葉牡丹が思い浮かんで、キャベツ買おうって思ったんだけど……?』
『え、そんな、なんでわかんないの? みたいに言われても……でもお好み焼きは大賛成!』
『んん! うちの息子が今日も可愛いわぁ!』
ふと去年の今頃のお母さんとのそんなやり取りを思い出してしまって、僕は、ぼんやりとしてしまっていた。
「……し……ん。……詩音くん?」
そんな僕を、現実に引き戻す声。先生だ。
「あ……はい! ごめんなさい、聞いてませんでした」
授業中なのに、いけない。そう思いながら、先生にそう言って謝ると、先生は怒るのではなくて少し心配そうな顔で言った。
「詩音くんが授業中にお話を聞けていないのは初めてですね。何か困ったことでもありましたか? 体調が悪かったら遠慮しないで言ってくださいね? 勿論それ以外のことでも」
「……大丈夫です、ちょっと考え事をしちゃってました」
「そうですか? じゃあ改めて、この計算なんですけれど――――」
授業が再開されて、僕は質問されたことを考えて答える。
(いけないいけない、ちゃんと聞かなきゃ)
そう思いつつ、映されているモニターや、先生がわかりやすく説明してくれる声や、黒板にどうしても集中できない僕がいた。
原因はわかっている。
体調は悪くないし、困っているわけでもなかった。
ただ、どうしても、お母さんのことが頭から離れないでいた。
◇◆
「詩音さ、その、何かあったのか?」
「悠太…………えっと、大丈夫だよ?」
放課後のホームルームが終わって、掃除の時間に悠太がそう言葉をかけてくれるのに、僕は少し迷いながら、答える。
だけど、悠太は全然信じていない顔で、言った。
「…………全然大丈夫そうじゃねぇんだよな。詩音にしては珍しくぼーっとして先生にも心配されてたしよ」
「うん……ごめんね、ありがとう」
僕自身、なんと言ったら良いものかわからない。
「こら二人、掃除さぼらないの」「特に悠太」
そして、迷っていると、後ろからそんな注意の言葉が掛かった。
絵美と絵夢の声だ。最近少しだけ、どちらの声かがわかるようになってきていて、決して長くはないけれど、僕がここに来て時間が経ったんだなと思う。
「……わりぃわりぃ、でもさぼってるわけじゃなくてよ」
「まぁ、心配なのはわかるけどね」
「頭が痛いとかお腹が痛いとかじゃないならいいんだけど」
僕の方を見る。それぞれの視線がとても、優しかった。
「ありがとう……」
でも、僕はそれにお礼だけを言って、それ以上を言葉にできないでいる。
おばあちゃんからお母さんを視てから、僕の頭の中はずっともやがかかったようだった。
眠って起きても、宿題をしていても、給食を食べても。
驚くほど色んなところに、お母さんと過ごした思い出につながるものが見つかってしまう。
一人分の布団を見るだけで、知らなかった漢字を知るたびに、お母さんが嫌いな食べ物が出てくるということでも、僕の頭はその時を再生し始めるのだった。
「詩音? またか? しんどいか?」
すると、今のようにまた、ぼーっとして名前を呼ばれてしまう。
「……ねぇねぇ。今、何考えてるの?」
そして、僕を見かねたのだろうか。絵夢が、真っ直ぐな目で僕を見てそう言った。
「絵夢?」「ちょっと、そういうのは聞かないほうが大人なんじゃないの?」
すぐに悠太と絵美が続けて止めるようにして、でも、絵夢はそれに首を振って続ける。
「あまり話したくないのかなぁって思ったんだけど、でも、わかんないから聞いちゃおうと思って。詩音は話したくない? なら聞かない。でも心配」
僕は絵夢を見て、そんな絵夢と僕を心配そうな目で見てくれている悠太と絵美を見た。そして、僕は駄目だなぁと思って、告げる。
「……僕が言うのもだけど、掃除だけ終わらせたら、帰りながら話してもいい?」
すると、三人は笑顔で頷いてくれたのだった。




