1章14話 トラさん
私が、どうやら人間の時間と犬の時間は違うらしい事に気づいたのは随分と昔、この間まで年上だと思っていた主人の子供はあっという間に年下になった頃のことです。
そして、気づいてからも時は流れ、いつしか老人だと思っていた主人と同様に老いて、当たり前のように追い抜くこととなりました。
生きる時間が違うのは仕方がないことです、自然の摂理というものは、私もわかっております。
しかし、だからこそ、自分が先に逝くのだとばかり思っておりました。
それまでは、いつもと同じ道を散歩して、匂いを嗅いで、穏やかに微笑む大好きな彼らと生きていくのだとばかり、そう思っていたのです。
◇◆
「じゃあ、ちょっとおじいさんを送りに行ってくるわね」
その日の朝も、いつものように始まりました。
少し前にこの家から出ていった主人の子供が、小さな子供を連れてくるようになってからというもの、主人たちはそれぞれを『おばあさん』『おじいさん』と呼ぶようになったので、私もそうしております。
そんなおばあさんは、いつも通り器に沢山の餌を入れ、水も綺麗にしてくれ、私にいつも通りを告げるようにそう言いました。それは、最近少しばかり飛んだり跳ねたりが億劫になってしまった私にはとても安心感のあるものです。
太陽の光は出ておらず、空から白く冷たい雪が舞い散る中で、私もまたおじいさんを、おばあさんが車に乗って送っていくのを見送りました。
そして、帰ってきたらおばあさんは散歩に連れて行ってくれます。
運動もしないとねぇというのが、おばあさんの口癖でした。
朝の散歩はおばあさん。夜はおじいさんの番です。
それぞれ、足腰を鍛えるためにと私を連れて昔からの散歩に出かけるのですが、おじいさんの時は、いつもの散歩に加えて、少しだけ外で待つ時間がありました。おばあさんには怒られる、ラーメン屋というものでの『一杯の時間』です。
よく、私におばあさんは『そんな風に待たされて可哀想にねぇ』というのですが、実は私はそんな時間の間に見る景色というものも嫌いではなかったりもしました。
しかし、その日に限っては、おばあさんは帰ってくることはありませんでした。
それどころか、二人共、どんなに時間が経っても、餌の皿が無くなってしまっても、水が尽きそうになっても、いつまでも帰ってこなかったのです。
心配になりました。
しかし、首にかけられたものにより、探しに行くこともできない自分にできるのは、ただ待つことのみ。
途中、雨が降ったおかげで得られていた水分も無くなった頃。
体力を奪われぬようにじっとしていた私は、門の開く音に目を開けました。
とうとう主人たちが帰ってきたのか、そう思い目を開けると、そこに居たのは見知らぬ人間達と、主人の子供の姿でした。
彼らは私には見向きもしないで、家の中へと入っていきます。
そんな中で、私に近寄る影が現れました。
「いぬさん、寝てるの?」
女の子の声です。
そして、私にはその匂いには覚えがありました。
「お散歩する?」
以前にも主人たちに連れられて散歩に行ったその小さな女の子は、その時を思い出すように私に声をかけて、小屋のフックに引っ掛けられていた紐を拙い仕草で外していきます。
主を探さなければいけない。
その時の私の頭は、それに締められておりました。
だからでしょうか、私は自由になった身体を、どこにそんなチカラが残っていたのかと自分でも疑うかのように俊敏な動きで開けられた門から飛び出していきました。
後ろから女の子の泣く声が聞こえます。しかし、ただ、なにかから逃げるようにして私は走りました。
そこから、沢山、匂いを求めて走りました。
いざ動けるようになれば、食べるものも飲み水も豊富でしたが、主人たちは全く見つかりません。
そうして、いつしか何もわからなくなった頃に懐かしい匂いを感じて歩いていた頃でした。近くにいた女の子たちが車に気がついていないのに気付き、危険を教えてあげたのは。
私は主人たちに、女の子は助けて上げてほしいと言われていた事を思い出しました。
その後、女の子達に纏わりつかれた私が困っている間に、私は捕まり、そうして、今の主人達のもとにいることとなりました。
でも、私はそれでも主人を探していたつもりです。ですが同時に、何の手がかりもないまま、穏やかな日々を過ごしてしまった。
いいえ。嘘をつきました。
本当はわかっていたのです。
長い主人たちとの生活で、私は、ある程度は人の言葉がわかるようになっておりました。
あの時、主人たちはいなくなってしまったのだと。
だから、それを意味する言葉が聞こえてきて、そして何より、悲しみの匂いが、漂っていました。逃げ出すようににして私は、飛び出したのです。
そして、そうだと分かっているのに、懐かしい匂いと、そして同時に懐かしい人々の姿が見えた気がして、私はまた、逃げ出すように、帰りたい気持ちに囚われてここまで来てしまいました。
悲しさすら、主人の残り香ですら、何も無くなってしまった、この家に。
もう、このままここで。
そんなことを思っていた時です、何故か嗅ぎ慣れた匂いがしました。
暖かく両脇を抱かれ、驚くと、共にいた今の主人たちが、すぐ近くに居て。
「かえろう」
そんな言葉はわかります。
でも、ごめんなさい、私は。
帰りたくて、逃げたくて。
もうどうすればいいのか、わからないのです。