1章15話 帰る場所
果たして気がついているのだろうか?
まだその感情を表現する言葉を知らない幼さを補うように身振り手振りを交えて、そして同時に、幼いながらに表現できてしまう寂しさとやるせなさを言葉で、一生懸命に俺達に伝えてくれた詩音の目からは静かな涙が溢れていた。
「なるほどな……」
そして、それに対して、俺はそう呟くしか無かった。
ここまで来ていて変な話ではあるのだが、俺は本当の意味ではトラさんの気持ちを想像していなかったのかもしれない。
寂しいという思念は聞いた。
だが、それよりも、犬は嗅覚が優れていることを調べたりといった興味の方が大きかったのだ。
犬の脳の嗅覚に関する部分は全体の脳の約12.5%を占めているらしく、長期間の記憶を持っているから警察犬として機能するのだとか、数キロ先の自宅の匂いすら嗅ぎ分けられるとか。
また、磁気を感じ取る能力もあるから帰巣本能も強いのだとか。
そんな知識として、または想像が合っていたちょっとした謎解き感覚での心配をしていたのだ。
詩音の言葉がなければ、せいぜい東京に銅像があるらしい有名な忠犬を思い浮かべて、元の飼い主への忠誠なのだとか、そんなことを考えていたかもしれない。
俺達は、俺達の尺度でしか物を判断できないのだから。
だが、ここに来るまでに考えていた想像と、直前に聞いて知った事実と、詩音が読み取った真実。
目の前の老犬は、聞いた通り失っていて、想像通り寂しくて帰りたくて、でも実は、その上で帰れないこともまたわかっていたのだと知って。
そして、その上で、迷いのようなものがその足を止めているのだとしたら、少しだけ俺にも、その気持ちが実感としてわかってしまった。
でもだからこそ俺は、できることは何だろうかと考えてしまう。
しかし、昔から俺がそうやって何かをうまくやろうとする時はたいてい何も思いつかないのだ。
「ねぇトラさん、帰ろう」「あのね、あたし達はトラさんといたいよ?」
だが、幼い方が余程、大事なことを知っている。
大人の俺が逡巡している間に、絵美と絵夢が、きちんと詩音から聞いた話を咀嚼して、それを言葉にしてトラさんに告げた。
「そのおじいちゃんやおばあちゃんほど一緒にいたわけじゃないけれどね」「絵美と絵夢も、ちゃんとトラさんのことが大好きだよ?」
「…………」
「「だからさ、一緒にかえろう?」」
そんな、感じたままに、抱きしめるようにして告げる言葉のほうが余程、うまくいくのだとでも言うように、双子の少女達が必死な言葉を紡ぐのを聞いてか、老犬はゆっくりと振り向く。
その顔を見て、犬というものが涙を流すのだということを、俺は初めて知った。
絵美と絵夢もまた、その瞳に気づいたのか。またさらに少し泣きそうな声で、それでも頑張ってたどたどしい言葉を、形にしていく。
「絵美さ。詩音くんと楽兄さんのおかげでちゃんとお家もわかったけどね、本当の家がわかったら、もしかしたらトラさんは帰っちゃうのかなって思ったりもしたんだけどね……あのね」
「……いなくなっちゃって悲しいのもわかったんだけど、だからトラさんを拾えて良かったと思うし、一緒に帰れたら嬉しいとも思うよ、絵夢は!」
"あたし"という一人称は、少し幼く自分の名前を呼ぶ人称に変わっていた。
そんな一生懸命という文字が見えるような二人のそんな声に振り向いた彼は、もう一度、何も無くなった場所を見つめて。
――――ワォン!
とても短く、鳴いた。
今のは別れを告げる言葉だったのだと、俺にもわかるような声で。
そして、その考えを肯定するかのようにして、トラさんは身体を起こして絵美と絵夢の手をそれぞれ優しく舐める。そして、詩音にもまた、御礼を告げるかのように鼻をこすりつけた。
「「トラさん!!!」」
「ふふ……そうだね、良かったね――――トラさんにはちゃんと、帰れる家ができて」
詩音の告げた言葉の後半は絵美と絵夢の歓声に被ったが、俺はそれを聞いてしまった。
それに対してまた、何かを言おうかと思ったが、言葉が出ない。
「よし、これでめでたしめでたし、だね……帰ろっか!」
しかし、そんな俺の、俺達の空気を察したように、パンパンと手を打って、茜が明るく言った声に皆は頷いた。
本当に、こういう時の茜には助けられてしまう。そう考えながら俺は目線だけで礼を言って、茜はそれに目元だけで笑った。
黄昏時、境目の時間は過ぎて、夜の気配が濃くなってきた頃。
こうして、ちょっとした犬の家出騒動は幕を閉じたのだった。




