第7話 森の中の妖精
その後、ルーカスはピュアハーブとサナト草を無事に採取し、残るハルティアの蜜も手に入れた。
「ふぅ……これで全部揃った」
一仕事終えて、汗を拭いつつ空を見上げる。陽は既に高く、森の木々が淡い陽光を透かして、穏やかに葉音を立てていた。
あとは、あの大熊に見つからないようにしながら、素材を持ってゼルドアに帰るだけだ。
……しかし、その前に喉が渇いた。
夢中で採取していたせいで気づかなかったが、体は正直だった。
「帰る前に、水でも飲んでいこうかな」
たしか近くに、小さな泉があったはずだ。冷たい湧き水が流れ込み、飲んでも問題ないどころか、とびきり美味しかった記憶がある。
ルーカスは背負子を近くの木の根元に下ろし、陶器のコップを手に取りながら、泉へと向かった。薬草程度であれば盗まれる心配も少ないと判断したのだ。
茂る樹木の門を抜けた先で、不意に照らした陽光が目を眩ませた。
「眩しっ⁉︎」
思わず手をかざすルーカス。やがて目が明るさに慣れていき、その手を下ろしたのだが……
「……あっ」
小鳥のさえずりとは違う、人の声。可愛らしくも張りつめたような、小さなその声が、静かな森にやけに明瞭に響き渡った。
ルーカスが反射的に視線を向けたその先。
泉の中心、陽光を受けてきらめく水面の中に——一人の少女がいた。
薄紫の長髪は濡れて背に張りつき、トパーズのような瞳が驚きに見開かれている。透き通るような白い肌。水の滴る肩先。
どう見ても、水浴びの真っ最中だった。
(……うそ、だろ……?)
状況を理解するのに、数秒を要した。動けない、息もできない。手に持っていたコップも、力が抜けて落としてしまった。
目の前に、妖艶な少女がいるという光景が、現実とは思えなかった。
そして——
チャポン。
彼女の髪から一滴の雫が波紋を広げ、静寂が破られた。
「きゃああああああああっ‼︎」
涙ぐんだ少女の、羞恥の悲鳴が森に響き渡る。
「ッ⁉︎ 待ってくれっ‼︎ 僕は何も見てな——」
「う、うう嘘だっ‼︎ 絶対見たっ‼︎ この変態っ‼︎」
咄嗟に弁明するルーカスだったが、少女は羞恥と怒りで我を忘れているのか、まったく耳を貸そうとしない。
「見ないでぇぇぇ〜っ‼︎」
その瞬間——彼女の叫びに呼応するように、大地がズズンと揺れはじめた。地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、そこから突如として現れたのは、極太の蔓。
ニョキニョキと、けれども天を突くように伸び上がった幾本もの天然の鞭は、まるで彼女の感情を具現化したかのようだった。
(……こ、これってマズいんじゃ……⁉︎)
咄嗟に身を引こうとするも——間に合わない。
バシュッ‼︎
しなるように弧を描いた一本の蔓が、空気を裂いてルーカスの脇腹へと叩きつけられた。
「ぐっ……⁉︎」
苦悶の声を漏らしながら、地面を転がるルーカス。だが、彼は痛みにうめきながらも、目の前の光景を冷静に観察した。
(攻撃が……明らかに無差別だっ‼︎)
蔓は、少女の意思というより、“感情”に呼応して動いている。まるで怒りと羞恥が渦巻く嵐のように、無差別にあたりを薙ぎ払っている。
(このままだとマズい……!)
痛みを堪えながらも、ルーカスは立ち上がった。なんとかして誤解を解かねばならない。彼女を落ち着かせるには、しっかりと声を届けるしかない。
だが、襲いくる蔓の連撃が行手を阻む。彼は必死に猛攻を避け続けた。そして叫ぶ。
「頼むっ、話だけでも——!」
刹那、一本の蔓が声を遮るかのように頭上から襲いかかった。紙一重のところで躱したものの、鋭い皮が頬を掠め、赤い線が浮かぶ。
「くっ……!」
ルーカスはたまらず木の陰へと身を滑り込ませた。だが、依然として蔓の勢いは止まらない。爆発した感情をそのままに、一切合切を破壊せんと振るわれる。
隙を見て、再び声を張り上げる。
「聞いてくれっ‼︎ 僕は、本当に覗くつもりなんて——」
——その瞬間。
バキバキ……バキィィンッ!
真後ろで、何かが折れる鋭い音。その方向に目を向けると、さきほどの蔓がはね飛ばした樹木が、軋みを上げながら傾いていた。
しかも、その先には——
(まずいっ、あの子の方に倒れる!)
すかさずルーカスは木陰から飛び出し、少女のもとへ駆け寄った。同時に、声が枯れるほどの大声で叫んだ。
「危ないっ‼︎ 避けろぉぉぉぉぉ‼︎」
必死の叫びに、思わず顔を上げる少女。振り向いたその先では、太く乾いた枯れ木が唸りを上げて、頭上に迫っていた。
「……ッ⁉︎ ひゃあっ‼︎」
その顔に、怯えの色が浮かぶ。避けようとするも、足が水に取られ、その場で体勢を崩してしまう。
(ッ! 間に合えぇ‼︎)
ルーカスは迷わず飛び出した。少女の身体を抱きかかえるようにして飛び込み、そのまま泉の淵を転がり込む。
ドォォン!!
枯れ木が地に倒れ、地響きとともに水飛沫が盛大に上がる。しぶきが、雨のように二人に降り注いだ。
「っ……だ、大丈夫?」
少女を庇うように覆い被さったルーカスは、ずぶ濡れのまま息を切らしながら問いかける。すぐ目の前には、目を見開いたまま固まる彼女の顔。
「……う、うん……」
小さく頷いた少女の顔は、ほんのり赤い。
「そっか。なら、よかった」
ひとまず怪我がないとわかり、ルーカスは安堵の息をついた。
周囲の蔓は、いつのまにか静止していた。まるで、少女の動揺が沈静化したことを察したように、森が再び平穏を取り戻しつつある。
そんな空気を感じながら、ルーカスはそっと水の中から身体を起こそうとした——そのときだった。
「……ふぇっ⁉︎」
少女から、小動物のような可愛らしい悲鳴が溢れる。
直後、ルーカスは自分の片腕の位置に気づき、全身が凍りつく。
(……えっ)
その手が、触れていたのは——水面下、彼女の柔らかな部位だった。
「っっっあああああああああっっ⁉︎」
今度はルーカスが、全力で悲鳴を上げた。咄嗟に手を引っ込め、顔を真っ赤にしながら勢いよく目を逸らす。
「ご、ご、ごめんっ! わざとじゃないんだっ‼︎ 本当にっ‼︎」
声が裏返り、謝罪の言葉が途切れ途切れに飛び出す。
だが、彼女は返事をしない。ただ小さくプルプルと震えながら、その場で膝を抱えるようにうずくまり、華奢な両腕で必死に身体を隠していた。
その背中からは、羞恥と困惑と、あと少しだけ怒りが滲み出ていた。
傷つけるつもりなど一切なかった。けれど、結果的に彼女の心をかき乱してしまった。ルーカスはそのことに、ひどく後悔していた。
「……その、お詫びというのもなんだけど……」
そう言いながら、彼は羽織っているコートを脱いで、そっと差し出す。
「取り敢えず……これ着なよ。濡れたままだと、風邪ひいちゃうからさ」
視線を合わせるのもはばかられるほどの気まずさと、静かな空気。けれど、彼の手は微かに震えながらも、真っ直ぐに紺色のコートを差し出していた。
少女は少しの間、じっとしていたが——
「……ありがとう」
小さな声で、そう呟くと、そっとコートを受け取った。
ピリついた空気がだんだんと和らいでいく。気持ちが落ち着いたのか、彼女は再び口を開いた。
「あなた……名前は?」
「……えっ? 僕?」
ルーカスは、少し驚いたように問い返す。少女の声はまだか細かったが、先ほどまでの怒気や動揺は、ほとんど感じられなかった。
「……うん。その、助けてもらったから……聞いておきたいなって」
濡れた髪を手で押さえながら、彼女は視線を逸らしたまま答える。恥ずかしさはまだ完全に抜けきっていないようだったが、その表情はほんの少し和らいでいる。
「……ルーカス」
「ルーカス……ルーカス……」
少女は静かにその名を繰り返し、まるで心の中に刻むように呟いた。
「そう言う君は?」
ルーカスが逆に問いかけると、少女は少しだけ間を置いて——
「……シルヴィ」
「へぇ……綺麗な響きだね」
ルーカスの率直な呟きに、彼女は顔を逸らす。その後ろ姿からは恥じらいと、少しばかり照れた様子が感じられた。
森の中で偶然交わされた、ほんの短い名前のやり取り。それは確かに、錬金術師と妖精少女との、絆の第一歩……? となった。
しかし、この出会いの一連の騒動は、静けさに包まれていた森の“脈”を乱してしまったらしい。
「グルル……グガァウ……‼︎」
森の奥深くから、唸るような重低音が響いてきた。乾いた枝葉が軋み、土が震える。鋭い眼光に、逆立つモヒカンのような毛並み。隆々たる巨体を揺らしながら姿を現したのは——
——“狂爪大熊”。
それは、脅威そのものだった。




