第41話 守護者の原点
敵意を持った人間と矛を交えるのは、いつぶりだろう。
もう何十年も、人に牙を向けておらん。
……そうだ。最後に闘ったのは、もう百五十年近くも前だ。
事の始まりは、当時の族長が討ち取られたことだった。
狩人たちに襲われていた幼い狼を庇い、その身を盾にして命を落としたそうな。知らせを聞いた同胞がすぐに駆けつけたが、遺体は既に消えていた。
突然の訃報に、誰もが悲しみに暮れた。けれども、嘆いている暇はない。次の族長は誰が選ばれるのか――一族はたちまち混乱に陥った。
「あの族長が不覚にもやられるとは……その狩人たちとやら、かなりの手練れと見た」
「ルドリファ様は、長が亡くなられたことをお知りになったのだろうか? 祝福は、雪解けの時期だが……」
「風神様は、よもや力なき我らを放逐なさるのだろうか……くっ、誉れある身として不甲斐ない」
そんな混乱の最中、北吹く風に乗って、一つの知らせが届いた。
狩人たちがこぞって森の生命を狙い、押し寄せてきたという。なんとなくだが、その動機には察しがついていた。
きっと、族長の毛皮や魔石に惹かれて、欲に駆られたためだろう。
知らせを聞いた同胞たちが、これ見よがしに声高に吠えた。
「これは天啓だ! 愚かな狩人どもを粛清し、我ら風狼族が眷属たる所以を知らしめよという、主神の御意志なのだ!」
「なるほど。長が空席の今、力を知らしめた者こそ、次の長の資格を得るに相応しいというわけか」
「我らの名誉恢復のために与えてくださった、試練なのだ! 聖戦なのだ!」
事の因果を捻り出した彼らの言葉に、皆が諸手を挙げて賛同した。無論、そのときの我も意を同じくした。沸々と燃え滾る怒りと不安が、瞬く間に戦意へと移り変わっていった。
ほどなくして、ルドリファ様からの祝福が降りた。まるで、聖戦の狼煙が上がるように。今思えば、あのときの春風は、普段とは異なる“乾き”が混じっていたような気がする。
加護を宿し、次の族長として選ばれたのは、他でもない我だった。
それからというもの、我々は狩人どもを見つけるや否や、雄叫びを上げて襲いかかった。野蛮な侵入者どもを悉く始末し、「これが森の意志である」と掲げるように、屍山血河を築き上げていった。
逃げ帰った輩は追わなかった。恐怖を刻み込めば、余計な手間は省ける。灸を据えるには丁度良いと判断したのだ。
これで、我ら風狼族の意志が届くことだろう。
そう思っていた。
“聖戦”の名の下に行われた虐殺は、事態を好転させるどころか、更なる惨劇を招いた。
狩人だけでなく、騎士団までもが動き出したのだ。我々は人を食い殺す“害獣”と見做されてしまったのだ。
「いたぞッ! 白銀の魔獣だ!」
「前衛、防御姿勢っ!! 後衛、火炎放射隊用意っ!!」
人間たちの一枚岩っぷりはなかなかのもので、我々は次第に奥へ奥へと追い込まれていった。その間に、決死の覚悟で立ち向かった同胞たちが毛皮を剥がされ、物言わぬ肉塊に変わり果てたのは言うまでもない。
(あのような蛮族どもに滅ぼされるようでは、名誉ある眷属の名が廃る! これは誇りをかけた闘いなのだ!)
そう信じて、生き残った我々は闘争心を燃やし、己が力を磨きつつ人間と牙を交えた。
血を血で洗う戦争は、実に10年近く続いた。大規模な集団による侵攻こそ減ったものの、代わりに投入されたのは、一騎当千の戦士たち数名だ。
我の周りから次々と、見知った仲間が消えていった。次期長としての威厳を見せようと立ち向かった者。家族を逃して囮になった者。どれも並々ならぬ実力の持ち主だったが、その力及ばず、亡骸へと変わっていった。
そして——とうとう我の番が来た。
隠れ家が襲撃され、子どもを穴ぐらへ逃しているうちに、我は包囲された。狩人たちは、静かに刃を引き抜いて立ちはだかった。
敵ながら、彼らの連携は見事なまでに研ぎ澄まされていた。黄金色の毒を滴らせる刃と、深紅に染まった刃が、次々と我が肉体に浅からぬ傷を負わせた。そればかりか、風を切って飛来した矢が、我の右目を撃ち抜いた。
途端に、視界が赤く染まった。傷口から溶岩でも流されたかのような灼けつく熱さに、肉体が悲鳴を上げた。
揺らぐ視界の中、我の内側でぷつりと何かが切れた。
魔獣としての本能だった。
決死の覚悟で迎え撃った。数多の獲物を狩り取ってきた爪と牙、そしてルドリファ様から賜った力を以て、狩人らを駆逐した。
(はぁ……はぁ……終わった、のか……)
泥と錆臭い血の雨に打たれながら、我はその場で倒れ込んだ。血潮が零れ落ち、心の臓が弱々しく脈打っていた。
若くして散っていった同胞や、敬愛する族長のもとへ行くのだ。二度と子どもたちの姿を拝むことはできなくなる。そう悟った。
けれども、奇しくもその運命の道筋は大きく揺れ動いた。
我は、人間に保護されたのだ。
「っ! よかった……目が覚めた!」
その姿を目にした瞬間、驚愕に目を見開いた。
手当てを施したのは、右目を撃ち抜いた弓使いの少女だったのだ。殺し合った関係にもかかわらず、敵意は一切感じなかった。彼女の後ろには、喜びに舞う子どもたちの姿があった。
奇妙な光景に、我は思わず念話で問うた。
(何故……助けたのだ?)
「殺す必要がない。そう思ったから」
神妙な目つきで、少女はそう答えた。
(今更になって……なぜそう思うのだ? 貴様とともにいた狩人らを屠った仇が目の前におるのだぞ……)
「うん。たしかにアンタは仇さ。だけど、私たちだって命を捨てる覚悟でやって来ている」
(それとこれとでは話が繋がらん)
「いいや、関係あるよ。なんせ、自然との調和をするのが狩人の仕事だからな」
(調和……だと?)
柔らかなブロンド色の髪を揺らして、少女は短く頷いた。
「人間ってのは、自然の脅威に曝されながらも、恩恵を受けて生きているんだ。害をなす魔物は駆除こそするが、根絶はさせない。一つの種が消えた途端に、また新たな脅威が起こりうるかもしれないからな」
(だから……我を殺さないと?)
「うん。話のできるアンタが死んでしまったら、取り返しがつかないことになる」
事実、風狼族の生き残りは、我と二匹の子どもだけになっていた。この少女は先を見越して、泥沼の状況を立て直そうと提案したのだ。
(……まったく、清らかな思想の人間なことだ)
「褒めてるつもりなら、勘違いしないでほしい。あくまでも、人間にも利益があるからそうするだけさ」
(ほう……。ということは、我が復讐に燃えて、狩人どもに襲い掛かっても構わないということか?)
「それはアンタの勝手だ。けど、それ以前にもう狩る必要はないって伝えるさ」
自信に満ちた眩しい笑みで、少女は言葉を続けた。
「あの風……風神様の眷属なんだろ? それなら、こう言ってやればいい。『森の銀狼を殺すなかれ。さらば風神の逆鱗が、災厄を齎さん』ってな」
(そんなもので、人間が思い止まるのか?)
「意外と止まるものだぞ。特に、あの“十二烈神”の一神の権威ともなればな」
これが、人間との闘いに終止符を打った瞬間になるとは、思ってもいなかった。
「……とまぁ、闘いはお終いとは言ったけど……正直、アンタからすれば勝手な交渉だよな。特に……右目のことは謝るよ。すまなかった……」
(自覚はあるのだな……)
「もちろんだ。止血と消毒の手当はしてある。あと二週間もすれば傷は塞がるはずだ」
彼女の言う通り、なんとも身勝手極まりない停戦協定だ。
それでも、このときばかりは不思議と彼女のことが憎めなかった。人の身でありながら、どこか妙に親近感があった。
「次に来た時には、復興できてると良いな。それじゃあ……」
(ッ! 待て、貴様は……いや、貴方様は——)
言葉を交わしたのも束の間、彼女は春風の如く、フッと軽やかに姿を消してしまった。まるで、この世の者とは思えぬ御技だった。
それ以降、彼女が言った通り、狩人たちが我らを狙って森に入ることはなかった。
同時に、彼女も姿を現さなくなった……。
傷を癒している間、我の脳裏には、あの不思議な少女のことばかりが浮かんでいた。殊に、彼女から微かに感じた魔力は、ルドリファ様の加護とまるで同じだった。
ここで、我は一つの気づきを得た。
——自然と調和するために、成り行きを見守ることもまた、眷属の役目である——と。
我らは人間に大敗を喫し、同時に人間に助けられた。きっと、この一件はルドリファ様が与えてくださった教訓なのだ。
彼女は聡い。眷属としての存在意義を、いま一度考える機会を与えてくれた。今でも我は、彼女こそ現人神であったと、信じて疑わぬ。
ゆえに、我が信念の軸は“自然の摂理”ただ一つにあり。
だからこそ——
理から外れたあの悪魔の横暴を、生命への冒涜を、止めねばならぬ。
……だというのに。
ああ、なんということか。
どうやら、我では力足らずだったようだ……。




