第10話 森の守護者
「……た、倒した……のか……?」
大熊の焼死体を見届けて、ルーカスは盛大に息を吐いた。全身から力が抜け、膝が震え、その場にへたり込む。
すかさずシルヴィが駆け寄った。
「……大丈夫? 立てる?」
「あはは……ちょっと、無理そうだ……」
無理もない。これほどの大型魔物と命を賭して相対した経験など、彼には一度もなかった。張り詰めていた緊張が解け、身体の感覚が一気に遠のいていく。
眉を八の字にして困ったように笑うルーカスに、シルヴィもまた、ほっとしたような笑みを返す。
彼の肩を担ぎ、支えるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
「……それにしても……凄い威力だった。なんだったの? あの実を、粉末にするって言ってたけど……」
「ああ……あれはね———」
すっかり気が緩みきった、その瞬間だった。
——鋭い殺意を孕んだ風が、二人に叩きつけられる。
「グ……グォォ……」
崩れ落ちたはずの大熊が、半死半生のまま立ち上がり、掠れた呻きを漏らしていた。
その眼に宿るのは、消えかけてもなお燃え続ける、濃ゆい憎悪。
ガバッと開いた口の奥で、特大の風弾が轟々と渦を巻く。それは最期の足掻きか、あるいは——不倶戴天の敵を討たんとする、執念そのものか。
「ッ……そんな……」
「まだ……生きてたのか……‼︎」
本能が、逃げ場のない危機を告げる。
ルーカスは体勢を立て直そうと、身体に鞭打つが、足が動かない。シルヴィも咄嗟に蔓を呼ぼうとするが、指先に力が入らなかった。
(魔力切れ……⁉︎ こんな……ときに……)
渦巻く風は圧縮されながら、肥大化していく。当たればきっと、即死は免れない。
死が迫る中、ルーカスは死にもの狂いで思考を巡らせる。
(《聖盾》を展開するか……いや、でも……!)
ペンダントの魔法陣は焼き切れているが、発動自体は可能だ。ただし制御は効かず、最悪の場合——暴走して爆発する。
非常にリスキーだが、ルーカスは一か八かの賭けに出た。それしか、方法はなかった。
「……シルヴィ……そのまま、僕を支えていてくれ……‼︎」
「……うん‼︎」
短く答え、シルヴィは腕に力を込める。
ルーカスはペンダントを手に取ると、意識を内側へと移し、光の盾のイメージを構築した。一抹の不安を振り切り、腹を括る。
「女神の盾よ……我が願いに応え———」
その瞬間——轟ッ、と森がざわめいた。
大熊の風弾ではない。
白い影が、凄まじい速度で横合いから突っ込んできたのだ。
「「——ッ⁉︎」」
二人は思わず目を見開く。
白い影は、一瞬にして、大熊の喉元を一息に噛みちぎった。
「グ……ォ……」
最期を悟ったような呻き声とともに、圧縮されていた風が霧散していった。殺意を孕んでいた渦は、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。
糸が切れたマリオネットのように、大熊はぐらりと崩れ落ちた。
そこに立っていたのは、美しい毛並みの銀狼。
「ル、ルーカス……結界を……」
「……いや、その必要はないと思う……」
ルーカスは銀狼の様子を慎重に窺いながら、胸元のペンダントをそっと下ろす。不思議なことに、そこから敵意はまったく感じられなかった。
銀狼はただ静かに、その隻眼で、もはや動かぬ大熊を見下ろしている。やがて死を確かめたのか、ゆっくりと首を上げ、今度はルーカスたちへと視線を向けた。
その瞬間——
(人の子よ)
突如、脳裏に直接声が届いた。
一瞬、二人の身体が強張る。言葉ではない、音ですらない感覚。
だが、すぐにその声の主が目の前の銀狼であると悟り、戸惑いながらも応じた。
「は、はい……」
「なんでしょうか……」
(この大熊。焼け焦げているが……貴様らの仕業で相違ないか?)
問いは淡々としていた。咎める調子でもなく、怒気もない。ただ事実を確かめるだけの、冷えた声音だった。
「そ、それは……そうですけど……まさか……」
「……や、やっぱり……手を出しちゃ、いけなかった、とか……?」
一瞬の沈黙。
(いや。ただの確認だ)
銀狼は即座に、しかし断定的に否定した。その口ぶりに、揺らぎはない。
「……あの……」
「あなたは、一体……」
(む?)
銀狼の耳が、わずかに伏せられた。
(……よもや我を知らんというのか)
それは不機嫌というより、無知を前にした呆れに近い反応だった。
(ふむ。仕方のない……我は風狼。この森の【守護者】だ)
その名を告げる声は、誇示ではなく宣告だった。
風狼——この豊穣の森において、秩序と安寧の均衡を保つ調停者。生態系の乱れを正し、不自然な破壊を退け、時に守り、時に排除する存在。
(此度ここへ来たのも、その役目の延長にすぎぬ……)
そして、碧色の瞳が、静かにルーカスを捉えた。
(……見たところ……あの大熊が狂い暴れた原因——貴様らに心当たりがあるようだな)
ルーカスたちは、背中に冷たいものが伝うのを感じた。
風狼の言う通り、狂爪大熊の暴走は、元を辿れば、シルヴィとのあの騒動に行き着く。
「……否定は、しません」
「ご、ごめんなさい……」
二人は素直に頭を下げた。だが、風狼はそれを咎める様子すら見せなかった。
(謝罪などいらぬ。人が魔獣と刃を交えることなど、今に始まった話ではない)
火が放たれ、血が流れ、森が傷つく。それでもやがて、それらは土に還り、再び生命の光を芽吹かせる。守護者として幾星霜を生きた風狼にとっては、それはただの自然の摂理にすぎなかった。
(ゆえに、今回の件を殊更に問題視はせぬ)
一拍。
(——ただし)
次いだ声は、低く沈み、空気を圧した。そこには先ほどまでの達観はなく、確かな重さだけが宿っていた。
(その衝突が、理を大きく揺るがす域に達したならば……我は静かに、牙を向けるだけだ……)
二人は同時に息を呑んだ。顔色を失い、身じろぎひとつできずに硬直する。
森を破壊する意思など、もちろんない。
だが、万が一にもこの存在を敵に回したなら。
その先に待つものが、死ですら生ぬるい結果であることを、本能が理解していた。
一瞬の沈黙。
――次の瞬間だった。
銀狼は、ふっと目を細めた。まるで先ほどの警告など、最初からなかったかのように。
(……はは。驚かせてしまったかな。だが、そこまで心配する必要はない。貴様らの態度を見る限り、その一線を踏み越えることは、まずあるまい)
その笑みは老獪ではあったが、老いたもののそれではない。幾星霜を潜り抜け、なお研ぎ澄まされた存在だけが持つ、静かな余裕の表情だった。
シルヴィは、そっとルーカスの耳元に口を寄せ、小声で囁く。
「……私たち、許された……ってことなのかな?」
「たぶん……そうだと、思うよ……」
危機はひとまず去った。
だが、それ以上の存在が、確かにここに在った。
(それにしても……)
風狼は、再び大熊の骸に目を向ける。
(此奴がこの辺りに居たのは、些か疑問が残るな……)
「大熊の……テリトリー外だったってことですか?」
(うむ……)
風狼の話によれば、狂爪大熊は暗がりを好み、麓の洞穴を住処としているという。加えて縄張り意識が強く、普段はその周辺から離れることはないらしい。
それを聞いて、ルーカスは合点がいった。
「どうりで……目撃情報が少ないわけだ」
「でも、この近くに居たってことは、その住処に何かあったんじゃないかな?」
(そう見るのが妥当だろうな。何事もなければよいのだが……)
その言葉は、どこか他人事のようにも聞こえた。【守護者】を名乗る存在にしては、あまりに距離のある口ぶりだ。
「……その洞穴、確認して元凶を処理したりは……しないんですか?」
(今はまだ……そのときではない)
怪訝そうなルーカスの視線を受け止めながら、風狼は淡々と語り続ける。
(貴様はこう思ったのだろう。問題を放置するのが、守護者なのか、と)
その問いには、肯定も否定もない。
(敢えて言おう。自然の摂理を“正す”ことではない。それを見護るのが、【守護者】の役目だ)
静かな言葉だったが、そこには揺るぎない線引きがあった。
(先ほどの貴様らの行為を、我は受け入れた。——それが、答えだ。我が介入するのは……世界が、回復不能に陥りかけたときだけだ)
「そうなんですね……」
「そういうもの……なのかな……」
二人の胸の内で、割り切れない思いが渦を巻く。
だが、それも無理からぬことなのかもしれない。風狼は、自然の栄枯盛衰を己の眼で見届けてきた。その積み重ねの果てに、この距離感へとたどり着いたのだろう。
(不満そうだな。だが……所詮は、見方の違いだ)
半世紀ほど生を終える人間と、その数倍の時を生きる風狼。同じ出来事であっても、そこから見える景色は決定的に異なる。
(理解などいらぬ。それぞれの立場で、生きていけばよい)
ゆえに風狼は、理解を求めることすらしなかった。
微風が木々を撫でる。葉擦れの音が、ざわり、と優しく森を満たす。
——くぅ〜〜。
気の抜けた音が、静寂を破った。
(む?)
「今のって……」
ルーカスが視線を向けた先で、シルヴィが小さく身を縮めていた。
「……ん……」
耳まで赤く染め、俯く。
その様子に、ルーカスは思わず笑みをこぼした。
「……安心したら、お腹空いちゃったね」
(はは。生きるとは、かくも単純で厄介なものよな)
風狼も、その様子をただ静かに見つめるのであった。




